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髪を伸ばしたら初めて自分を好きになれたけど、生きづらくなった話

 前髪を切った。先月のことだ。

 休職して以来、何とはなしに髪を伸ばしてみると、意外と気に入った。やがて前髪が煩わしくなったので、髪をかきあげてオールバックにするヘアスタイルに落ち着いた……が、これが好きになれなかった。どうにも顔がいかつく見えるのだ。そこで前髪を切ることにした。「ぱっつんにしたらどうなるんだろう。可愛くなるのかな」そんなドキドキを胸に秘めて。

 動画を参考にしてセルフカット。作業を終えて鏡を見る。綺麗に切り揃えることはできなかったが、満足度は高かった。眉毛に沿った前髪のラインと、首筋まで伸びるスラっとした後ろ髪。オールバックのいかつさは失くなり、柔らかい印象になった。髪を束ねると清潔感が生まれた。今までと違う自分になれたことに、驚きと感動を覚えた。「い、意外と可愛いじゃんか……!!」昨今の情勢もあってマスクで顔を隠すのがデフォルトなので、そうするとますます女の子っぽい印象に近づいた。
 眉毛も剃った、ついでにセルフ脱毛した(後日、脚がブツブツだらけになって死ぬほど痒かった。丁寧にやろうね)そして、着る服を選んだ。

「上は白黒で横縞模様のゆったりとした服。白が基調の服なら身軽な印象になる。縦縞で細さを強調するよりも、横縞でふんわりとした印象を与えよう。
 で、ズボンは上とのコントラストになるようにしよう。重い色。脚を細く長く見せるためにお腹で留めてタックイン……入れるときは服を少し膨らませた方がいいのか……なるほど、確かに窮屈に見えないな」

 ファッションサイトや色彩検定の知識を活かし、鏡の前で何度も微調整。これがめちゃくちゃ楽しい。感覚や直感ではなく、理詰めで考えるのが何とも自分らしい。だいぶ中性的な見た目になった。ここでも驚きと感動を覚えた。「自分は着飾ればそれなりに映えるんだ」と心の底から思うことができた。

 鏡に映る自分を好きになれたのは、二十数年の人生の中で初めての出来事だった。僕はファッションに頓着しない性分だった。髪が伸びたら散髪屋で切り、服は親が買ってきたものか、自分で買うにしても黒っぽい服ばかりだった。もちろん、就活や会社ではフォーマルな服を着ていたが、着飾るということを知らなかった。
 その価値観が丸ごと変わった。嬉しかった。退職して数ヶ月、募るばかりだった自己嫌悪から少しだけ解放された。自己肯定感を身につける、自分を好きになる、自分に自信をつけるとはこういう感覚なのか、と知った。子どもの頃から引っ込み思案だった。会社員時代は「自分はどん底の人間だから、周囲にいる人々がキラキラ輝いて見える」という感覚が常にあった。それはそれで他人の優しさをありがたく享受できたり、尊敬できたりとプラスなこともあるだろうけど、頑張っても自分を労ることができないのは今思えば辛かった。「きみは頑張ってるよ」「歳の割にしっかりしてるよ」「新人だから何もできないのは当たり前だよ」休職前はそんな励ましの言葉を周囲の方々からいただいた。しかし、それで心が晴れることはなかった。彼らの優しさと比較して、自分はどうしようもない人間だ。彼らの優しさを還元してやることができない。申し訳なさが込み上げてきて、ますます自己嫌悪に陥った。
 そんな負の思考の連鎖から脱出するための糸口をようやく掴めた。何てことはない。客観的な評価はひとまず置いて、「自分は可愛い!」と思えること(=自分を好きになること)。そこが出発点だったのだ。「ファッションは他人から好かれたいという動機で始めるが、やがて自分を好きになるために行うようになる」という金言を聞いたことがあるのだが、なるほどこういうことだったのか。
 男性的ジェンダーからの逃避、という側面もある。女になりたいという欲求があるわけではないが、僕は男性性(責任感、リーダーシップ、攻撃的、頼れるといった社会的なイメージ)に対する挫折感を無意識に覚えていたのだと思う。そこから距離を置くことで、気が楽になった。
 外出する頻度が増えた。家族と会話する時間が増えた。前向きになれた。やがて社会復帰する意欲が湧き、求職活動を始めた。一歩前に進みたいと思った。まずは負荷が少ないものを。週三で三時間程度、接客業は避けて、なるべく人との関わりが少ないものを。そんな算段で。

 しかし、髪を伸ばしたことで前向きになれた僕は、髪を伸ばしたことが原因で壁にぶち当たった。

「髪……切れませんかね?」
「髪が長いと、お客様からクレームが入るので」

 「男なのに髪が長いから」という理由でバイトの面接を落とされた。一つ目は清掃業、二つ目は小売業の品出し。髪が長いと言っても、肩に毛先がかかる程度だ。不清潔でボサボサにならないように気をつけているし、外出時は髪を束ねている。決して過激な見た目ではない。女性ならありふれた髪型だ。が、男性である僕がこれをやると、奇異の目で見られ、問題になったのである。
 納得がいかなかった。「心労で倒れて一年間無職だった」この事実をつつかれるのは仕方がないと割り切っていた。そんな爆弾を抱えた人材を雇うのはリスクがあるだろう。しかし、飲食業でもない、ホワイトカラーな職業でもない場所で、「男なのに髪が長い」と突っぱねられるのはあんまりだと思った。
 多様性やちょっとした個性の違いを許容することができない社会、僕が感じたのはそれだった。個人の個性を活かすことよりも、集団の輪を乱さないことを重んじる。出る杭は打たれる。確かに、あまりにも社会に反する言動は考えものだだし、多少なりとも社会に迎合的であるべき必要はある。でも「髪が長い」というちょっとした個性ぐらいは認めらてもいいでしょうが!! ……そう思うと、学校はかなり窮屈な場所だったなと思わされる。少しだけ髪が長いから、眉が剃ったように短いから、地毛が黒くないから、そんな外見に風紀の乱れ、社会への反抗というレッテルを貼りつけて矯正する。徹底して個性を奪われる。中には僕のように、なけなしの勇気を振り絞りたい子だっているかもしれないのに。
 一度の面接で髪を切れないかと三回も聞かれた。その場で自問自答し、全てやんわりと断った。この髪型が今の自分のアイデンティティだとはっきり思えた。自分のわがままが全て通る訳ではないのは当然だが、これだけは、この髪型だけは譲ることができなかった。

 面接を終えた後は、ひとしきり落ち込んだり、沸々と怒りが込み上げたりした。この社会はこんなにも生きづらいものなのか。最終的に僕に残ったのは二つの感覚だった。
 一つは、受容。まあしゃーない。受け入れていこう。雇う側には雇う側の事情があるし、僕には僕の事情がある。そこが相入れなかっただけだ。それに僕にだって偏見や先入観はあるし、人に自慢できるほど寛容でもないんだから。
 もう一つは、沸々と込み上げる怒り。「ふっざけんなよ!!!!! いくらなんでも窮屈すぎるだろうが!!!」「は〜〜〜〜〜世の中ってクソだわ〜〜〜〜〜!!!!」と。そして、こんな社会に「NO」と言ってやること、自分のような存在を置くことで多様性や個性が許容される社会に少しでも近づけることが使命だなと、本気で思うようになった。そのためにも今の髪型は続けたい。まあだからと言って社会に反抗するためだけに奇抜な格好をするというのはダサいと思うので、あくまでも自分なりの姿でいるために続けたい。

 そんなこんなで負の感情が逆巻いていたのだが、一連の出来事で感じたことが、今こうして文章を書いている原動力になっていることも事実だ。久しぶりに集中して読書することもできた。今年は何もかも停滞気味だっただけに、これは嬉しい変化だった。

 最近こんなツイートがバズっていたが、自分もこの熱量が死なないうちに読書や文章を書くことを来月(来年)も続けて生きたいと思う。求職活動も。

 そんな、自分を好きになれたけど、生きづらくなった話でした。頭の中にごちゃごちゃとした思考や感情が溜まり込んだので、年末の大掃除ということで一気に書き出しました。ふぅ。それではよいお年を。