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『劇場版ポケットモンスターココ』数年ぶりにポケモン映画を観た感想(※ネタバレあり)

 事前予想の記事はこちら。

 めちゃくちゃ面白かったです。

 何と言ってもココのキャラクター造形が素晴らしい。まず動きに可愛げがあるんですよね。ザルードを振り回す赤ん坊のココ、ジャングルを元気いっぱいに駆け回る野生児ココ、ポケモン達を思いやる優しいココ、人間の街に目を輝かせるココ。数々のシーンで、その純朴さにすっかり虜になりました。
 少し話は変わりますが、僕はこの記事を書いているときに「ココくん」と敬称を付けることに抵抗を覚えました。かといって「ココちゃん」も違う。ココは人間社会のジェンダーからかけ離れたもっと純粋無垢な存在だなと思ったんです。ココという存在はそれほど、人間社会とは違う、ジャングルでポケモン達と暮らしたがゆえの純朴さが表現されていたんです。ここがとても良かった。
 そして『ココ』という副題に偽りなし、ココの成長が丁寧に描かれていました。「ザルードの父に育てられながらも、自分には父のような能力がない。それは自分がザルードではないからなのか。もしそうであれば、なぜ父は自分をザルードとして育てたのか」その憤りと葛藤。反抗期。やがて己の出自を知って孤独を味わいながらも、父との絆を糧にして前に進み、「人間とポケモンの架け橋になる」という夢を抱いて旅に出る……
 いやーーーーーーーもうね……好き……純朴なココだからこそ、外の世界の理不尽にぶち当たった時のつまずきはデカいし、そして、大切な皆を守りたい一心で頑張れるんだな……
 こうしたココの成長ぶりは脚本もそうですが、それを表現するココの声優(上白石萌音さん)の演技も素晴らしい。ココの無邪気さ、胸の内に抱える葛藤、「父を助けたい」という心からの叫び。こんなにもココを好きになれたのは、随所でその演技力が光っていたからでした。
 そんなココの背中を、不器用ながらもそっと押してあげる父ちゃんザルードがまたいいんだ……本作の副題は『ココ』。ザルードの名前はありません。そこに、ココを影から支えるザルードの不器用な姿と、ココと別れた寂しさが見え隠れてしているように思えてなりません。シンプルで良いタイトルだ。

 もうひとつ、魅力的だったのは楽曲の親和性
 ポケモン映画といえば「TV版OPを流しながらサトシがモブトレーナーとバトルする」という導入シーンが思い浮かびますが、本作は違いました。ストーリーの本筋に沿って、効果的に楽曲が使われていました。本作のOPテーマ『ココ』をバックに、赤ん坊のココを悪戦苦闘しながら育てるザルード。そんなモノローグから始まるんです。しかもここだけじゃない。サトシがココに街を案内するシーン(このシーン、アイスを一緒に食べたり、ダンスを教えたりするサトシが完全に彼氏ムーブ。ココの反応が可愛らしくて好き)、ココとザルードが別れるシーンで流れる『ふしぎなふしぎな生きもの』……「どこにいても いつでも オレはキミの父ちゃんだ」という歌詞。
 こうした楽曲と組み合わせた演出は『君の名は。』の影響なのかなあと思いました。MVのような映像演出。新時代のアニメーション演出って感じで、数年ぶりに映画館でポケモンを観た身としては新鮮に感じました。

 ココのキャラクター造形、楽曲の親和性。繰り返しになりますが、この二つがとても良かったです。期待度はそれなりに上げて行ったつもりですが、それを上回るものはちゃんと観ることができました。こういう映像体験ができるなら、来年も映画館でポケモン観たいな。

 以下、余談。個人的に意外だったのは「人が人を殺す明確な描写」があったこと。ゼット博士がココの両親の車両に激突、爆発させた場面ですね。「清く美しいポケモン」を強調するために、対比的に「ポケモンを痛めつける悪い人間」を置くのはよくあるけど、その悪意の矛先が真っ先に人間に向いたり、研究凍結に絶望して狂って叫ぶなんてシーンまであるとは。ココしかり、人間の描写が結構凝っているなあと。まあ結局はテンプレ悪役に豹変してこらしめられてましたが。

 色セレビィの存在感の薄さも気になりましたが、Twitterでパブサしてみると「ザルードはセレビィが未来からもたらした卵から孵った」との考察もあるのだそう。また観る時はその辺りにも注目したいですね。