見出し画像

【日記】3日連続で悪夢を見ている

※日記です。
※あんまり内容に具体的には触れませんが、#シャニアニネタバレ感想 の一環です。
※かなり個人的な感覚・経験に基づく話になるので、1つの外れ値として参考程度に読んでください。

思ったよりシャニアニ第 3 章が脳にこびりついていて寝つきが悪い上に悪夢でずっとうなされている。なんならちょっと風邪気味、今日朝寒かったし。

なんの夢を見ているかというと、今からかれこれ 12 年以上の出来事になっている、楽器を持ってステージに上がることがあったころの再現映像だ。

音楽経験はまあまあそれなりにある方で、小学校の頃から始めた楽器を中高は部活で、それと並行して師事していた先生の計らいもあり、アマチュア楽団にも高校生の頃まで所属していた。

音大に行くか普通の(?)大学に行くかという進路選択で、音楽を仕事にして一生向き合うのは嫌だなという思いで普通の大学に行く決心をし、当時やっていた楽器は確かに高校時代以降ほとんど触っていないのだが、趣味+αぐらいの範囲でベースやギターなどを触っている。

音楽の道にまっすぐ進まなかった理由として一番大きいのは、あの単調でノイローゼになりそうな日常と舞台袖の空気に嫌気がさしたからだ。

練習するほどできなくなっていくような感覚と、ずっと同じ曲・同じフレーズに向き合い続ける時間に人生を捧げられるほどの強靭な心は持ち合わせていなかった。

とはいいつつも、学部生時代後半からは趣味+αの「+α」の部分で、(それこそシャニアニを一緒に観に行った)古いオタクのツテもありステージの音楽周辺のお手伝いをさせてもらっていたり、なんならクラシックの分野でコンクール運営に携わるポジションでまた舞台袖にいたりすることもあった。

楽器をやっていたり、それこそアイドルとしてステージに立ったことがある人だと共感してくれる人もいるかもしれないが、少なくとも自分にとって舞台袖の空気というものは暖かくも冷たくもない、ただただ質量だけがある無表情なものだ。

書かれた物語のようにドラマチックなことなど一切起こらなかった何百時間もの練習期間が、長くてもこれからの 1 時間やそこらで一気に消費される。その事実はステージに上がる前の自分にはほほえみも気付けもしてくれず、何を考えているのかがわからないままじっと見つめてくる。

経験自体はないが、(練習と本番という構造だけを見れば)おそらくスポーツでも近いことを感じるのかもしれない。本当に全然知らないけど。

それで、前置きに 1000 字ぐらい使っているが、結局なんなのかというと、シャニアニ、特に第 2, 3 章は「ステージに上がること」と「舞台袖(あるいは舞台裏)」を一切の飾りをせずに描いていた、ということが言いたいのだろう。

同じ曲に向き合い続けて、どう表現するのかについてずっと悩み続けて、結局印象に残っているのは舞台袖の時間で、舞台上のことなどほとんどと言っていいほど何も覚えていない。

そういう意味ですごく「嫌」だったのは第 2 章での WING 敗退を各ユニットごとに表現するシーンと、第 3 章でステージを終えた大崎甜花の涙だ。

敗退したことに対するそれぞれのユニットの違いは、確かに 4 ユニットそれぞれの在り方は何度も見てきたし、どれも自身の経験の中で思い当たる節がある。

1st ライブの際の大崎甜花の涙は、自身の経験でいえば楽団の方で初めてソリストを任されたときや、どちらかというと未経験の人も多く混ざっていた部活の方でよく見てきた。

「あるある」どころではない、舞台袖という空間の普遍性が嘘偽りなくシャニアニでは描かれていた。夢に見て、わざわざこの文章を書いているほどに、自分は舞台袖という空間が好きなのかもしれない。

30 手前で一本軸にする道を決めようと生活の基盤から本格的に音楽やステージを切り離したのに、シャニアニのせいでまた舞台袖に引きずり戻されようとしている自分がいる。

表現方法としてまあまあ疑問も残る作品であったが、そんなことがどうでもよくなるほど舞台袖という空間への愛を思い出させてくれるだけで、少なくとも自分にとっては十分意義のある作品だった。


CDかシャニマスのフェザージュエルに濃縮還元されるサポート