「無意味のススメ」読んだめも

無意味のススメ 川崎昌平

 情報が氾濫している。手のひらに入る情報端末からネットやSNSを開けば、無数の情報が視界に入ってくる。自分が見たいと願っている情報も、そうでない情報も。
 何らかの意味を持っているから、情報にはその価値がある。情報を広く収集して、取捨選択して利用するというのが、物事を進める上での基本中の基本、というのであれば、情報が私たちに与える影響は大きい。情報を広く持っていることで人とつながる、情報を使いこなし自らも情報を発信する、というのが、一種のステータスとなるのかもしれない。実際それがビジネスの場では役立っていることもあるだろう。
 情報が優位の世界。意味があることに重きを置かれている世界。その対照である「無意味」は、罪なのだろうか?価値がないことなのだろうか?減らすべきことなのだろうか。

「無意味」の有用性についての考えがこの本にはあります。


(思ったこと、自分なりの解釈)

○無意味なこととはなにか
 一度使ってそのままにした物(軍手とか、証明写真とか)が机の上に散らばっている。洗濯物の影が壁に映っている。なんとはなしに仕事中立ち上がってみる。
 ふとした瞬間に目に入り、すぐ忘れられてしまうようななにか。目的もない、ちょっとした自分の動作。
 
 見ても理解できないような絵画やオブジェ。とらえようのない言葉。
 自分の中で、今はまだ意味を見いだせないもの。なぜだか印象に残っている、ぼんやりしたなにか。

 自分の中で印象に残っている無意味さ:電柱に巻かれた黄と黒柄の反射板に「スタミナ冷やし」という文字の刻印が刻まれていたこと。スタミナ冷やし?


○無意味の可能性
 矛盾しているが、無意味に意味を見出すこともある。空白が何かの力で充たされていくような感じ。とらえようのないなにかが、意識のフィルターを介して形作られていくような感じ。
 他人が「意味がないでしょ」「これは○○だから大したことない」といった好き勝手な評価を付ける中で、その無意味さは不要なものとしてとらえられるかもしれない。しかしものの価値は他人が決めることではなく、自分が決めること。周りの無関心な言葉に左右されず、その無意味さを見つめてみると、何か可能性が見いだせるかもしれない。

 自分自身がなにかをつくりあげていくときも同じ。つくりあげている間は、その作品は意味をなさない。誰の目にも触れていないし、誰かからの評価も与えられない。完成したとしても、誰かにとっては無意味のままで終わることも多いだろう。
 その作品を完成させることに意味はなく、その過程で得られる何かに期待しているのかもしれない。例えば、広く世界を見渡す力だとか、日常の一つ一つを大切にする姿勢とか、物語を始める勇気とか。無意味を媒介として、執着がいまだ見えない河を泳ぐような中で、力を得られるように思う。

 あるいは、どんな優れた作品やアイデアにだって、それを作る過程で無意味ともいえる時間の浪費があったということ。

 はたまた、誰かが思慮の足りない言葉で批判した事は、だいたい無意味なことで、そこにはこれからの可能性や伸びしろがあるということ。


○無意味から得られるチャンス
 無意味ともいえる行動から、新しい何かが始まることもある。特に意味もなく、いつもの通学路からちょっと外れてみる。するとアジサイが連なる小路や、小さな喫茶店を見つけるかもしれない。何か新しい発見があり、自分のこれからの生活がささやかに彩られるかもしれない。
 ふと、誰かがいる空間で新聞記事を声に出して読んでみる。立ち上がり1回転してみる。いま行きたい場所を声にあげてみる。…何も始まらないかもしれないし、誰かとの交流が始まるかもしれない。交流が始まらないとしても、自分の気は楽になる。力が抜ける。


○無意味の寛容さ
 他人の作った意味に自由を踏みつぶされないための、シェルターとなる。
 数値をベースとした目標が、私たちの生きる意味では断じてないことを示してくれる。
 遠回り、ときには怠惰の人生を容認してくれる。


 自分だけの答えを確かめたいときに、無意味さの価値を認めていたい。誰かに批判されたり否定されたとしても、そこで終わりではなく、これからがあるということを信じたい。あるいは、その人から見れば取るに足らないものだとしても、自分にとってはかけがえのないものになり得ることを忘れないでいたい。

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