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Bicep "Isles"

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北アイルランド・ベルファスト出身のテクノデュオによる、3年4ヶ月ぶりフルレンス2作目。

自分の話。これまでは多い時で年間50~60本くらいはライブに通っていたのだが、昨年はわずか2本のみとなってしまった。まあ結婚したり子供ができたりといったプライベートな環境の変化もあって、ライブの本数を意識的に減らしていかざるを得ない状況ではあったのだが、さすがに2本て。最後に行ったのは2月。現場から遠ざかってもうすぐ1年が経とうとしている。あの音量、あの狂騒がない日常に徐々に慣れつつある、寂しさすらも忘れてしまいそうになっている自分がいる。

Bicep の二人は古くからの幼馴染みで、テクノ/エレクトロニック専門の音楽紹介ブログ "Feel My Bicep" の管理人でもあるとのこと。ミュージシャンであると同時に重度の音楽オタクでもあるわけだ。不勉強なもので自分はそのブログの存在を知らなかったのだが、オタクであるがゆえの情熱やこだわりがどれだけ面倒くさく、どれだけ尊重すべきものであるかは、自分も音楽オタクであり音楽ブロガーの端くれなので、わかる。しかも彼らは好きが高じて自ら創作を始め、今では数千から数万単位のクラウドを相手に、世界を股にかけて活躍している。彼らに対して自分はおぼろげな共感、憧れ、もしかすると嫉妬までもを勝手に抱いている。まあそれはどうでもいいか。

しかしながら2020年、およそすべてのミュージシャンから現場そのものが奪われてしまった。現場で鳴らすことを前提として音楽を創ることに、ある種の矛盾が生じるようになった。この現状を受けて彼らにもきっと少なからず思うところがあったことだろう。今作における彼らは、それが本当に自身の望んだことかどうかはさておき、ダンスアクトとしての矜持は決して曲げないままに、過去の楽曲とはまた違った音像を模索しているように見える。

初期の頃の彼らはかなりガチガチの直線的なハウス/トランスを志向していたが、2017年発表の "Bicep" では細やかなブレイクビーツを取り入れるなどでパターンを発展させ、よりしなやかで奥行きのあるサウンドスケープを確立していった。今作はその路線を元としながら、またひとつ改良を加えた最新型ということになる。少なくとも自分のリスニング環境では、ここに収められた楽曲には低音の迫力や音圧の強さをそこまで感じない。ビートは2ステップの要素がかなり強くなり、一打一打の太さよりもフットワークの軽快さ、シンコペーションの多用による揺らぎの心地良さを重視している。ド頭からテンションを爆発させるのではなく、時間をかけてじっくりとダンスグルーヴの熱量に薪をくべていき、聴き手はそれこそ大きさを少しずつ増していく焚き火の様子に見とれるかのごとく、ビートの快楽に身を埋めていくことになる。本質的な意味でトランシー、サイケデリックであるとも言える。

対する上モノはと言うと、メランコリックでシリアス、時にエモーショナルにも響くフレーズを反復するシンセや、可憐でどこか神秘的な雰囲気を湛えた女性ボーカルなど、アンビエント的でアトモスフェリックな、冷たい感触を残すものばかりが採用されている。前作でもそういった要素はあったが、今作はそれがさらに顕著である。ダブステップかとも思うくらいに空間的な奥行きを活用し、躍動するリズムを緊迫したムードの冷気がふわりと覆いつくすように配置されており、熱が大きく放散されるのではなく、ひたすら内に内にと向かうような構成になっている。そのためどの曲も不思議な温度感を孕んでいるのである。上モノが聴き手の意識を外界から遮断する壁の役割を果たし、リズムの享楽性を極めて内省的なものに変容させているのだ。それぞれの音がクリアかつ繊細で、イマジナティブな余白があり、なおかつ密接に絡み合っていて、総体としてダイナミックに映る。このバランス感覚は現場を想定したと言うよりは、音源ならではの手法ではないかなと思う。

自分は音楽を聴くとき、特にライブで直に音を体感するときは、徹底的にひとりになることを願っている。そもそも、ライブでもクラブでもフェスでも何でもいいが、真に熱狂し、興奮したとき、人はひとりになる。迂闊にも他者への気遣いを放棄してしまうくらい、ステージに見入り、自分だけの方法で体を突き動かし、声にならない声を上げる。全員が演者の先導のもとに同じ振り付けで一体化するなんてのは、表面的なマスゲームに過ぎない。それをやられるとはっきり言って冷める。全員が自分だけの方法で踊り始めた瞬間に、本当の意味でフロア全体がひとつになったと言えるはずだ、そういう考えがずっとある。そのためにはプロフェッショナルなサウンドシステムによる音響の迫力が不可欠だと思っていた。ゲートをくぐり、酒をあおり、耳鳴りを起こすほどの大音量を全身で浴びる、そんな非日常的なロケーションが絶対だと思っていた。エレクトロニックなダンスミュージックともなれば尚更だ。だが2021年に入った今でも、それを十分に用意することはいまだ難しいままでいる。星野源ではないが、うちで踊るしかない。うちで踊ることと非日常的ロケーションは残念ながら相反している。この状況下でひとりであることを充足するにはどんな音楽が必要だろうか。彼らは今作をもって、それにきっちりと答えている。

上に書いたとおり、今作での彼らの音楽のキモはブーストされた音圧ではなく、研ぎ澄まされたバランス感覚にある。ミステリアスなボーカルサンプルが聴き手に背後から目隠しをするように被さり、中心のビートはチクチクとした心地良い刺激を保ちながらドライブする。上層の冷静と下層の情熱、大きく分けてふたつのレイヤーが親和と反作用を繰り返し、思わず陶酔してしまうほどの美しさを形成している。なおかつ昨年の Kelly Lee Owens の傑作にもどことなく通じる部分があるような、ポップな感触も全体に備わっている。ダンストラックとしての機能性を果たしつつ、それだけに囚われないスタイルを目指しているわけだ。なので、現場で鳴らせばもっと凄いんだろうなとないものねだりをしてしまうような食い足りなさが、今作にはない。この作品はベッドルームでの視聴によって完結している。もちろんライブの音響を通すことでまた新たな魅力が付与されるだろうが、iPhone に少し質の良いイヤホンを噛ませるくらいでも、今作は十分に、自分をひとりの奥底へと向かわせてくれる。今の時代に鳴らすべきダンスミュージックとして、間に合わせの代替案ではなくポジティブな可能性として、これはひとつの優秀な解答と言えるのではないだろうか。

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