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雑感(上)

僕ら夫婦が四六時中一緒に居ても素で自然にしっくりしているのは、夫婦共に自分の生まれや心と真摯に向き合ってきた後に出逢って結婚したからかも知れない。

また僕は何でも率先して行動し整える傾向だからよくある夫の批判などには該当しないけど、テリトリーなり責任なりの範囲内では専制君主のように強権。それが逆に嫌と思う女性もいるだろうし、独特や個性など変わっている面が嫌と思う女性もいるだろうけど、妻は逆にそれが好ましいと思っているのと、短所や影が色濃いのも長所や光が色濃いからと理解してくれていますね。古風な性差役割でバランスがとれているのだと思う。

社会に対しては隠者傾向で孤立傾向だけど、たくさんの人と仲良くしたいと思わず、極少数だけでいいと思う。たくさんの人と仲良くしたいのに出来ず諦めているなら自分からの逃避だけど、自分と向き合う度合いが強まるに比例して人付き合いの必要性が薄れていった。友達の定義とか意義とか謎だ、普通に説明は出来るけどね。

友達は知人や同級生や同僚や遊び仲間や助け合いや親友までが含まれていると思うけど、僕ら夫婦は狭く深く傾向だから結び付きの軽い付き合いに意義を見い出せない、刎頚之友みたいな感じも夫婦で兼ねてしまっているし。

やっぱり完結しちゃったんだよな、子供が無事に生まれていたら子供の為にで違っていただろうけど、いないから余生感覚が強い。

世の中に想う事は多々あるけど、世の中を良くしたいや善意善行は欲望と密接に繋がっており、成功や善の大きさに比例して失敗や悪も同等量が生まれてしまう。そういう設定の中で人為の成功や善に拘る事の意義は?との疑問が湧く。

些細な人助けは自然にするけど深入りは割に合わない理不尽な事も多かったし、懇切丁寧にすると依存されやすく、千尋の谷に落としたら壊れそうだし。

僕は自由が好きだし大抵の人も自由が好きだろうから、不幸になる自由も含めた自由を個々が行使するので良いと思う。それが嫌な人は命令に絶対服従すれば良いと思う。自由が良いけど自分の人生に責任を果たさないは生物として通用しないです。

僕が様々な事を書くのは、まだ見知らぬ何かを好奇心と探究心で探しているのだと思う。心底に隠者であればネットで発言しないだろう、荘周のイタズラ好きな無邪気な子供の側面も好き。荘周自身が説いていた事を完璧に実践していたら荘子という古典は世に知られる事は無かったパラドックスがおもしろいと以前に思った。

気儘に独りで出来て尽きないテーマはこの世や宇宙や地球なんだよね、一生掛かっても全てを知れない把握出来ないだろうし。人間一人も一滴の水みたいなもので、その個々が様々な知情意を表現し、時に協調し時に敵対し、次世代に何かを紡ぎ螺旋が繰り返されていく。その長い繰り返しが歴史として継がれ、その人類史も宇宙史からすれば単なる1ページで、宇宙の外にもより広大な世界があるはずで。不思議なものです。


2022年11月13日 記

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