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伝える事の難しさ

2017年に福島の児童養護施設の子供達へランドセルをプレゼントする募金活動に参加した事に絡む雑感。

僕の政治への本格的な関心は2016年からで、それまでは生い立ちからくる個人的な問題を解決するのに必死で余裕が無かった。関心を持ち始めた延長線上として右派左派保守リベラル関係なく、学べるところに学びに行ったり政治家になる為の勉強会などにも参加した。

政治社会活動を行っている人達で無関心層や無投票層に嘆きや怒りの感情を吐露する人達がおり、自分もであったり、自分がその対象であったりした事もあるが、無関心層や無投票層の心情を汲み取る事や寄り添う事も必要なのだろうとは思う。ただ、それはとても犠牲になる事でもある。

募金活動の時に思ったのが、過去の体験も交えて思う事は、似たような体験をしていたり、意識が高い人には響きやすくはあっても、無関心な人にも響く伝え方の工夫は、何かをするとすればとても重要な課題だと思った。また募金詐欺などもあるから尚更の事で。

ビラを配る時は、急いでいそうだったり、スマホをいじっていたり、興味なさそうな人へは、僕は配ろうとはせず、何だろう?と興味深くしてくれている人や、穏和そうな雰囲気の方へ重点的に配りました。それでも2時間くらいで僕が配って受け取って頂けたのは20部くらい?

声掛けでは「心のお裾分けを」や「心が困窮している子供達への支援を」など、自分のテーマである心の面を絡めて伝えてみましたが、どうだったのかいまいち感触は解らず。

無関心層や無投票層と趣味なり仕事なりで接すると本当に話が通じない事が多く、政治社会に関心がある層でも表層だけである人も多い。また僕は様々な実体験で日本の陰の部分を体験したり接してきているから。

また生来の好奇心探究心の旺盛さと数字の強さによる計算から、どうにもこうにもならないのだろうなと演算してしまう。

大抵の人の心理的に起因する問題を解決する案を提示する事は出来るけども、大抵の人は自ら心底変えたいと思わなければ変わらないし、何を言っているかより誰が言ったかを重視するから、現実的には大抵の人の問題を解決する事は僕には出来ない。

結局のところは、この世の設定、摂理、適者生存、因果応報、自業自得、自由意思と自己責任。という結末を迎える。

そもそもが、長生きしなければいけない設定はなく、良い友人恋人伴侶学校職場人生などといった設定もなく、全てが自由であるから、人間如きが勝手に決めた、友達が少ない、学歴が悪い、職歴が悪い、経歴が悪い、容姿が悪い、頭が悪い、運動神経が悪い、性格が悪い、貧乏、不健康、そういった事も全てが自由なだけである。


2022年12月14日 記

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