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毎回、有益なことを書かなければいけないわけではない

プロ雑用です。
毎日note書くぞ(毎日とは言ってない)ということを考えたとき、真っ先に考えたのは、だからといって、いつも有用なことを書かなければいけないわけなじゃないよね、って思いました。
今日はそんな話。


見出しが全部っていうけど

本を読んでると、だんだんわかってくるんですが、大体おもしろい本は見出しからして読めるんですよ。目次だけで内容のダイジェストになってるんですね。なので、note書くときもそういうことを意識しています。
ただ一方で、見出しって結構むずいんですよ。上記の通りなので。ちゃんとやろうと思うと、内容との整合性も考えないといけないので、なんというか、編集になるんですよね。

noteでも資料でも、一晩おいてみるといろいろ直すべきポイントが見えてくるんですが、一晩おかなくても、見出しを考える際に内容を見直すことで、結構精度はあがります。制度って言うか質か。質を上げるために、整合性をちゃんととろうとすると、編集せざるをえないんすよね。

編集って、ただ漫然と書くよりも時間がかかること。
1→10の課程が編集なわけで、当然質を高めようとすればするほど、時間がかかる。時間がかかると、それだけ最初に書こう!と思っていた熱量は失われるのは否めないわけです。このバランスとっても難しいなぁと。

完璧よりまず終わらせろって人には言うけど

と人にはよくアドバイスをしますが、自分でもやっぱり質を上げようとしちゃう所はあるんですよね。特に、事実について記述するときは、ちゃんとウラ取りはしたい。これは理工学系学生時代に叩き込まれたからだとは思いますが、今の時代において事実について触れるときは、少なくとも一次情報まではたどれる状態にはしたいわけです。

でないと、主張の論拠が崩れてしまうわけですからね。しかし、一方で熱量を高くもって書くには、とにかく書き切ってしまうということも大切なんですよね。X(Twitter)が日本でウケつづけているのは、短文投稿でサクッとイケるからだと思うんですよね。愚痴でもなんでも、とにかくそのときの感情でスパッとポストできるのがいいわけでしょ。まぁ、もちろんそれが徒になることは多々あるわけですが、それはそれとして。

このnoteにオチは無い

あと、小中学生のころしきりに起承転結を教わったのも影響あるかなぁと思うんですよね。「これって結局何が言いたいんだっけ?」っていうことを、避けたいというのは教育のたまものじゃないかな。

人はストーリーで物事を理解します。先日記憶の仕組みについてちらっと触れましたが(全然不勉強なので正確では無い)、記憶はそういう脳の領域に格納するということではなく、シナプスのリレー回路で行われるので、そういうのは感情や感覚が乗っている方が記憶されやすいわけで、それはつまり「人は物語にどうしたって惹かれる」という性質によるわけです。

だから「話のオチをつけなければならない」という、無意識の脅迫観念みたいなのがどっかにあるんじゃないかなぁ、というのが私の考えです。

というわけで、見出しの通りこのnoteにオチはありませんし、今後も特にオチのないnoteを量産していくと思います。そのほうがちゃっちゃとかけるし、毎日やろうと思ったらそれくらいじゃ無いと続かないんですよね私の能力では。今年の終わりごろに今よりましになってたらいいかなぁ、ぐらいのユルい感じでこれからもnoteを書いていこうと思います。

というわけで今回は終わり。
それじゃ、また👋

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