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渤海国異聞(2)

J.N(元三井金属資源開発株式会社)

<満鉄40年の軌跡>

 満鉄(南満州鉄道株式会社)は、鉄道経営にとどまらず、石炭鉄鉱山の開発、電気・ガスなどのインフラ整備、工場建設、港湾からホテル経営まで一連の地域開発、産業開発を管理・担当する国策会社として、イギリスの東インド会社に倣って、1906年に設立された日本最大の株式会社であり、日露戦争後の日本の満州植民地経営の先兵であった。資本金は2億円で、その内半額は日本政府の現物出資、残りは民間に公募したが、多くは外債に依存した。
 路線の大部分は、軍が広軌から狭軌に改築していたので、今度はこれを朝鮮半島縦断鉄道や京奉鉄道のゲージに合わせるため、標準軌に変更することになる。変更工事は、列車運行を止めることなく、1907年、全線の標準軌条化が完成した。複線化工事も進められたが、この完成は1909年であった。これらの工事及び車両などの機材調達のための資金調達は、主としてイギリスで行われた。
 満鉄の技術開発の成果を象徴するのは特急「あじあ号」である。あじあ号は、1934年営業を開始し、大連新京間702kmを8.5時間で走りぬけた。平均時速81km、最高時速150kmに達した。動輪の直径2m、流線形の外覆、冷暖房完備、蒸気機関車としては世界に例がない速度記録であった。ちなみに、当時の特急つばめ号は時速67kmであった。あじあ号を完成させた技術と設計思想は、国鉄に受け継がれ、戦後の標準軌による東海道新幹線の開発・建設の基礎になったという。新幹線の建設を推進した十河国鉄総裁は満鉄出身であった。
 満鉄の組織を特徴付けたのは、調査部、中央試験所及び地質調査所の調査・研究活動であった。調査部は統制経済のあり方を研究し、満州の発展デザインを描きだし、その後の日本の官僚主導の経済システムの完成に大きな影響を及ぼしたという。中央試験所及び地質調査所の業務は、満州の資源、撫順の石炭及び油母頁岩、蒙古の天然ソーダ、鞍山鉄鉱山、大石橋マグネサイト鉱床などの研究調査が中心であった。
 満州は鉄鋼王国と言われた。その中心となったのは昭和製鋼所で、その出発点となったのが、鞍山の鉄鉱石と撫順本渓湖の石炭を結び付けて、1916年に開業した鞍山製鉄所であった。鞍山の鉄鉱石は、縞状鉄鉱床であり、赤鉄鉱を主とする貧鉱である。低品位鉱床の大規模開発を可能にしたのは、還元煤焼法を応用した貧鉱処理技術であった。赤鉄鉱主体の貧鉱に、COガスを吹き付け加熱して磁鉄鉱に変え、これを磁力選鉱して高品位精鉱を得た。製鉄に続ずいて、アルミニューム及びマグネシューム精練、肥料工場や大連機械工場が稼働した。石炭液化、オイルシェールの抽油なども研究されたが開発までには至らなかった。
 満州の開発・建設は、満鉄と関東軍との密接な協力体制により進められたが、日本側が確保したのは、結局のところ、点と線にすぎなかった。1911年、辛亥革命により中華民国が成立したが、中国各地に軍閥と革命派が分立し、対立抗争を繰り返していた。奉天軍閥張作霖は東北地区の支配権を確立したが、国民党軍との抗争に敗れ、1926年、奉天への撤収時、戦火が東北地区に及ぶのを恐れた関東軍により、奉天近郊で列車もろとも爆殺された。後を継いだ息子の張学良は、国民党の蒋介石に接近し、独自の鉄道網建設に着手するなど、満鉄関東軍との摩擦・対立が激化した。この亀裂が満州事変(1931)へとつながって行く。
 日露戦争の結果、日本が手にした満州の特殊権益は、中国にとっては、日本の軍国主義侵略の象徴であり、不法に略奪された犠牲であり、いずれ奪還すべき対象であった。1915年の21カ条の要求は排日運動を呼び起こした。1930年代には各地で反日ゲリラ活動が激化した。対立の激化は、関東軍の危機感と使命感を増幅させ、更には、満州はいかなる犠牲を払っても確保するという日本人の満州にたいする思い入れを深化させる悪循環に陥った。
 資源調査などの現地調査は、次第に現地住民の協力が得られなくなり、軍隊・警察が同行するのが普通となった。調査結果は、マル秘印の満鉄調査報告書に記述されているが、時代が降るに従って、特に満州事変以後は、「真相、詳細は把握不能」となった。現地住民との軋轢が増大するなかで、満鉄と関東軍の対立が先鋭化し、満鉄は改組され、事業の基盤と手足をもぎ取られて行く。1937年、日本産業グループ(日本鉱業、日立製作所、日産自動車など)による満業(満州重工業株式会社)が成立した。満鉄は、産業部門を満業へ移管し、鉄道と石炭鉱山を残すのみとなり著しく弱体化した。
 なお、満鉄は、映画、音楽、スポーツなどの文化面を振興した。李明、李香蘭などのスターを育成し、戦後の日本映画界に多大の影響を与えた。

<偽皇宮吉林省博物館>

 満州国(偽満)皇帝溥儀の皇居は、長春市北東部の高台にあり、一部が博物館として公開されている。内廷西院の緝熙(しゅうき)楼は、皇帝一家の生活の場であった。灰色のレンガ造り2階建てのたいへん簡素で地味な建物である(写真8)。2階に、溥儀の事務所、書斎、寝室、皇后婉容の客間、寝室、吸烟室などを配置し、ベッド、ソファー、テーブルなど当時の調度品を展示している。1階は左側が譚玉齢の客間、寝室、右側に溥儀の一生を写真で紹介している。

 展示によれば、愛新覚羅溥儀は、1909年、3才で帝位(清朝第12代宣統帝)につき、1911年辛亥革命で廃帝となった。退位後も紫禁城に住み、1922年、16才の時、婉容(皇后)及び文綉(淑妃、皇妃)と結婚した。文綉はその後失踪し離婚した。第3の妻は祥貴人と称され、溥儀が最も愛した譚玉齢であるが、病死したとも毒殺された(1942)とも伝えられる。以上の4名はいずれも満州族の貴族の子女であったが、第4の妻は15才の学生で、長春の普通の家庭の子女、李玉琴(1943年結婚)である。
 溥儀の家庭生活は、宮廷生活の延長で、外から伺い知ることはできないが、子供に恵まれることはなかった。満州国執政及び皇帝の地位も名ばかりで、日本軍の傀儡に過ぎないことに、苛立ちふさぎ込むことが多かった。婉容は欧米の教師につき、乗馬やテニスを好むモダンな学生であったが、結婚後、阿片におぼれ廃人同様となり、終戦の翌年(1946)、延吉、敦化を引き回されたあげく客死し、41年の失意の生涯をとじた。
 溥儀はシベリア抑留、東京裁判に証人として出廷後、撫順で服役したが、1959年、54才の時特赦された。釈放後は、北京植物園に勤務し、看護婦の李淑賢と再婚し、1967年死去するまで初めての安寧の生活を楽しんだ。

 溥儀は、1924年、紫禁城から追放され天津に移ったが、溥儀を満州国の執政に就任させるため暗躍したのが、男装の麗人とうたわれた川島芳子である。彼女は清朝の王族、済親王の王女で、日本で教育を受けた後、モンゴル軍の将軍の遺子と政略結婚したり、関東軍に特務として協力するなど数奇な運命にもてあそばれた末、日本敗戦後、漢奸として北京で銃殺された。
 溥儀が勤務した外廷の勤民楼に、日本軍の侵略戦争非難の展示がある。731細菌部隊の仕業資源・食料などの略奪行為、非人道的な残虐行為など生々しい写真を展示している(写真9)。中庭東側の小棟には、関東軍が敦化南方の山林に遺棄


した化学兵器の資料を展示している。毒ガス5種類、7000tが生産され、毒ガス弾180万発が遺棄されているという。敦化市周辺で、牡丹江に沿って下流へ汚染がすすんでいる様子を示す図面が掲示されている。
 1931年、関東軍は柳条湖事件を口実にして、本格的な軍事行動を起こし、チチハル、ハルピンを占領し、満州全域を力で支配した(満州事変)。激しい日貨ボイコット運動が起こり、紛争は上海に拡大した。関東軍は、当初満蒙領有案を計画したが、国際関係を配慮して、傀儡国家建設案に方針を変更した。1932年、満州国を建国し、清朝の廃帝溥儀が執政に就任する。同年、リットン調査団に反発し、国際連盟を脱退し、国際的孤立化の道を選択した。1934年、満州国は帝制を採用し、国号を満州帝国と改名した。
 満州国建国を契機に、反満抗日運動が激化した。関東軍は治安工作と鉄道・工場施設破壊工作の対応に忙殺される。華北5省を国民党支配から切り離そうという1935年の華北分離工作により、日中の緊張が高まった。こうした状況のなかで、1937年、北京郊外の盧溝橋で武力衝突が発生し、これを引き金に日中は全面戦争に突入する。

 満州国の食料自給を達成し、兵站基地化するため、20年間で100万戸移民計画(1937年)が立案され、敗戦までに約30万人が移住した。移民の多くは、ソ連国境の黒竜江省の酷寒の僻地に入植した。武装移民も常態化した。なお、1920年代の中国人の移民は、7年間で600万人に達し、年間平均80万人/年であった。
 日中戦争は膠着、長期化し、日本軍にとって出口のない泥沼の戦争となった。各地で現地住民の反発と抵抗を招き、非人道的な残虐行為がエスカレートし、収拾不能となり、1941年、ついに太平洋戦争につき進むこととなる。

<延辺朝鮮族自治州、琿春市、豆満江国際開発計画>

 延辺朝鮮族自治州へは、10月20日、長春市から延吉市まで、航空機を利用した。長春市から吉林市付近までは、雄大な起伏に富む丘陵地帯で、大半が農耕地である。松花江流域に入ると山岳森林地帯となり、川筋はダム湖の湛水面が複雑な模様を描いている。牡丹江上流域はすでに積雪に覆われており、人跡稀な森林地帯である。丘陵地帯の田畑が目に映るとやがて延吉空港に着陸した。延吉空港は最近再開発されたモダンな空港であるが、国際空港にするため、更に拡張する計画という。
 延辺自治州の面積は、4.3万km2(吉林省の4/1)を占めるが、人口は220万人、この内39%の85万人が朝鮮族である。朝鮮族は、1860年の朝鮮北部の大凶作以後、主に北朝鮮から移住した。この地域は中国再東端の辺境であり、漢族や満州族の住民が少なく、20世紀初期には朝鮮族の比率が80%に達する時もあった。朝鮮族は、水田開墾と稲作を導入し、この地域の農業振興に貢献した。州都延吉市より、マイクロバスで琿春市へ向かった。途中の図門市から豆満江北岸に沿って下る。豆満江は長白山を源頭とし、中国と北朝鮮の国境に沿って流れ、河口付近では、ロシアと北朝鮮が国境を接する。僅か20kmの距離ではあるが、中国は海への出口を塞がれている。吉林省の降雨量は600mm/年程度であるが、長白山地域は1000mm/年を越えている。豊かな水流の対岸の北朝鮮は、森閑としていて不気味であった。


 中国、ロシア、北朝鮮3国にまたがる豆満江デルタ国際開発計画は、UNDPの呼び掛けで進められている。まず、中国の琿春、ロシアのポシェット港、北朝鮮の羅津先鋒を結ぶ小三角地帯を開発し、次段階で中国の延吉、ロシアのウラジオストック、北朝鮮の清津を結ぶ大三角地帯へ開発を拡大しようとする計画である。なお、ロシア領の沿岸部は、かって朝鮮族が居住していたが、国防上の理由で、スターリンの時、50万人ともいわれる全住民が中央アジア方面に強制移住させられたという。
 琿春市は国家レベルの対外解放経済開発区に指定され、琿春川の東岸で、工場用地、各種インフラ設備など本格的な開発が進行している。ロシアに通ずる道路や税関施設などは完成している(写真10)。現在、ロシアのザルビノ港に至る鉄道を国境付近で建設中である。琿春市街の北東部には大規模な中層アパート群が完成している。農地を工場用地に変え、住居を街中のアパートへ移るのは、後戻りのない希望の船出を意味するのだろうか。


 進出中あるいは計画中の外国企業は、「現代」などの韓国企業が主体である。現在操業中の企業としては、韓国企業「東一」のメリヤス工場がある。原糸から2重構造の保温肌着を生産している。工場を見学したが、韓国製の小型の機械を多数並べている。従業員は現地の若い女性約600人、給与は400〜500元/月、従業員の勤労意欲は高いと感じた(写真11)。北京から参加した中国人が、メリヤス製品上下組を70元で購入していた。通常価格は100元であるが、北京では150元で売って


いるという。原料は大連経由で搬入しているが、近い将来、北朝鮮の羅津港経由のコンテナ輸送が実現する見込みという。本企業の利益率は高く、成功例の最上位にランクされている。
 琿春の宿は、政府招待所の琿春賓館であった。未だ10月なので暖房は夕刻の一時間のみ、給湯は30分だけ特別に行うという。あまりに寒くてからだの震えが止まらない。下着、上着、セーターにアノラック、ありったけの物を2重に着込んで布団に潜り込んだ。それでも寒くて寝つかれなかった。翌日は延吉市に戻り、最近開業したばかりの豪華な大字ホテルにチェックインした。宿泊費は40%割引きでも一泊100$を越えていたが、昨夜に比べるとまるで天国であった。琿春の一夜は、開発期の苦労の一端を味あわせてくれた。

<延辺朝鮮族自治州、延吉市>

 延吉市は、延辺自治州の州都で、人口は36万人、この内60%が朝鮮族である。人口稀薄の森林地帯であった本地域の開拓が進んだのは、1881年、清朝政府が招墾局を設置してからである。延吉市は、事務所街、商店街、中層アパート群など、再開発が進んでいるが、古いレンガ造り平屋建ての住宅が未だかなり残っている。旧来の住宅の暖房は朝鮮式オンドルで、各戸の煙突から、黒い煙をもくもくと排出している(写真12)。燃料は現地産の褐炭が主で硫黄分と灰分が多い。戸別燃焼方式では不完全燃焼が避けられない。延吉はスモッグの街である。2泊したが、い


つもどんよりしており、陽光を見なかった。州政府及び市政府の説明では、延辺自治州の開発課題は、林業と木材加工業の振興、石炭火力発電所の増強、琿春市の石炭増産、石油の探鉱開発、セメント工場の増強、アルミ精練の近代化とアルミ加工業の振興、近辺の動植物を利用する漢方薬産業の高度化などである。延辺自治州は辺境に位置するが、教育水準や文化水準が高く、今後の発展が約束されている。大学進学率は中国平均の2倍を越えている。
 大宇ホテルの宿泊費は相当高価であるが、料理は安くて旨い。キムチ、ビビンバ、焼き肉など朝鮮料理が旨い。特にキムチは、白菜、カブ、大根などどれも美味で食欲をさそう。唐辛子の成分は、体内の脂肪を燃焼させエネルギーと熱に換るという。寒冷地では必需品であり、健康食品でもある。松茸料理も用意している。ここの松茸は比較的小振りで、形、色、香り歯ざわりなど、日本産のものに最も近い。松茸の醤油味炭火焼きは、一皿2〜4人分で数百円程度であった。街中や近郊を散策した。通勤時の自転車、バスなど朝夕の人波は驚異である。タ刻の市場の人出と賑わいにも驚嘆した。近郊の農家の直売、幾重にも密集する露店、うなぎの蒲焼パックやねりわさびなどの日本製品も売っていた。この地域での名物料理は朝鮮風味の冷麺で、これは安価な大衆料理である。近郊は再開発が進行中である。中層アパートが林立しているが、歩いてみて驚いた。アクセス道路がない。曲がりくねった小路があるだけ、向かいの道路へ抜ける道は塞がれていて戻るしかない。各公司、各当事者のアパートの建築権利の獲得競争が加熱化して、利権の囲い込みが起こっているのではなかろうか。建物の周囲に高いレンガ塀を囲っている敷地もある。問題は汚水排水処理である。アパートとアパートの間に畑が残っており、ここで自然浄化しているようにも見受けられた。

<ある国有企業の実態>

 延吉市では、延辺自治州の鉱業事情について、州地質鉱産局の説明を受けた。延辺自治州の非鉄鉱山としては、天宝山鉱山が知られている。
 天宝山鉱山は、延吉市の西方40kmに位置するCu,Pb,Zn鉱山である。鉱床は石灰岩中のスカルン鉱床及び酸性貫入岩中の脈状〜鉱染状鉱床である。操業100年の歴史を有し、最盛期には2000t/日、60万t/年の粗鉱を産出した。最近では、富鉱部を掘りつくし、切羽は地表下700mの深部に移り、殘鉱は残り少なく、今後の操業については総合的見直しが必要である。従業員は3000人であるが、半数は老齢者である。補助金800万元の交付を受けている。最近では長春南西方約80kmの四平Ag鉱山の開発も担当している。
 延辺自治州では鉱産物についての奇異な話があり、現場に案内された。奇異な話しとは、大変高価な耐酸性の「安山岩」についてである。この種の岩石は、化学工場に必要で、ドイツと延吉にしか産しない。ドイツから輸入すれば、12万元/m2、中国産なら6万で売れるという。これを重量に換算すれば、日本円約20万円/tとなる。全く非科学的で理解できない話しであったが、あえて逆らわぬことにした。
 「安山岩」の山元は延吉市の西南約10kmの丘陵上にある。途中、丘陵中腹の松林中に、外国人観光客向けのレジャーセンターがあり、既に用地整理や建物、レジャー設備に、1億元を投資したという。丘陵上は果物畑でピリンゴと称するリンゴに似たナシの収穫期で、もぎたてのピリンゴを道路端に並べて売っている。川筋の低地は水田、中間は野菜畑である。
 「安山岩」の採掘場は鉄道三峰洞駅の近くにあり、4階建ての立派な事務所及び数100棟の住居が立ち並ぶ。小型のロダー、トラックにクラッシャーがあり、数人が細々と働いている。「安山岩」とは火山火道内の柱状節理が発達した典型的な玄武岩質安山岩で、かなり変質している。緻密で粘り強い岩質であり、鉄道のバラスに最適な岩石であろうと思われた。
 鉱山長の説明によれば、三峰洞鉱は国営企業で、従業員は約1000人、補助金を受けている。価格の話しから合弁の話しになったので、この種の岩石は、日本では砕石にしか売れないので、と逃げをうったら、では麦飯石はどうか、という話しになった。麦飯石は10年前に研究した、今は興味はないと断った。
 中国では国有企業の半数が赤字であり、三角債や銀行債務、補助金が増加の一途で、経済健全化を損なう原因として深刻な問題となっている。しかし、その中身と実態は伝わってこない。国有企業にも多様な企業があり、いろいろな問題が複雑にからみ合っていると思われる。今回、国有企業は、勿論経営上の問題もあろうが、すぐれて生活共同体の役目を担なっており、経済合理性だけでは割り切れなくなっている実態を理解できた。

ぽなんざ 1997.8

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