遺伝か環境か?尽きることのない議論の先には… ~社会人読書会記録#2~

本日は、第6回オンライン社会人読書会の模様をお届けします。前回の記事で、この会がどのような経緯で開催されるに至り、過去5回は何を読んできたかをまとめています。

1. はじめに

今回扱った書籍は、安藤寿康先生が著した『日本人の9割が知らない遺伝の真実』を取り上げました。

この本は「行動遺伝学」と呼ばれる比較的新しい学問領域で研究されているテーマや成果について、平易な内容で記載されています。この本自体はそこまで有名ではないのですが、最近書店に行けばよく目に付く橘玲(あきら)氏のこちらの著作はご存じの方も多いかもしれません。

この「行動遺伝学」を強引にまとめると、人間の能力形成・開発にあたり、より大きな影響を与えるのは「遺伝的要素」なのか後天的な「環境要素」なのかという問いに関して研究している学問と言えます。平たく言えば、遺伝か環境か、いずれが人間の成長にとって重要なのかを井戸端会議レベルの経験的な会話で終わらせるのではなく、科学的な根拠に基づいて分析・考察できるように、検証方法も含めて提示している学問とも言えます。

と書いたものの、この回の冒頭で参加者から「著者が本当に統計を理解した上で操作をしているのか分からなくなった」という声が上がり、学術的知見そのものに疑義が呈されてしまう結果となりました。

私自身は、著者が参考論文として挙げていたものを幾つか原典に当たって読んでいたため、違和感はなかったのですが、新書という形で平易にまとめるとこのような弊害が発生してしまうことを改めて確認する結果となりました。

ですので、以下では会での議論の結果というよりは、私の感想をまとめておきます。

2. 後天的な要素が大きいと「信じたい」私たち

本書を取り上げて改めて浮き彫りになったのが、学術的知見があったとしても、結局その結果を受け取るか否定するかは「受け手」の思想次第ということでした。

一般に「行動遺伝学」の統計学的処理を施した学術的知見は、環境要因よりも遺伝要因が強い。しかも、年齢が上がるほど顕著に「生まれつき伸長しやすい能力」の格差が表れるという帰結を導き出しています。これは、私たちが信じたい現実と少し異なる結論だと言えるかも知れません。

というのも、私たちは主に学校教育を通して、努力・勤勉の尊さを様々な形で教え込まれてきているからです。自分の能力開発を労を惜しまず行うことが美徳とされ、怠惰な人間は非難の対象になります。極めつけには「勉強は努力さえすれば誰でもできる」という紋切り型の言葉を先生から投げ掛けられるため、生徒は将来のための自己投資としてしっかり勉強することが「善いこと」であると刷り込まれていきます。

このこと自体を否定することはしません。私自身もそのような価値観の中で生き、それなりの成果を出せたからこそ今の生活があるのですから。

しかし、自身の能力開発とは言っても、スポーツや芸術であれば事情は違ったように思います。身長の高低や身体の強靭さといった身体的特徴、あるいは音感・美的感覚等の「センス」と形容される特徴には個体差がある、ということが社会的に広く認知されているからです。

ところが、5教科7科目と形容される「学習要領内の勉強」となると途端に個体差の議論がやりにくくなります。それは、読解・計算・論理的思考等の知識を司る営みは、適切に努力・訓練をすればみな等しく伸長できるという前提に立って学校教育が為されている節があるからです。

私は比較的年少の頃から、学習能力にも個体差があることを感じていました。地元の公立中学校に進学した私は、定期試験でも大きな躓きはなく、テスト期間の詰め込み学習でも好成績を維持できました。他方で、同じ勉強時間をかけても点数が振るわない同級生を横目に見ており、実際に勉強を教えても飲み込みが遅いことに歯がゆさを覚えることもありました。これを単純に「努力不足」と片付けるのは乱暴だとも朧気ながら思っていました。

本書では、他のあらゆる能力と同様に、知識社会で私たちが身に着けておくことが期待される知能についても、明確な個体差があること。そして、そうでありながら私たちが個体差を認めたくないと思う背景には、上述の「努力をすればできる、出来ない人は怠惰だ」というイデオロギーの刷り込みがあるのではないか、と主張しています。

この議論は、今現在成功を収めている人からすれば、大変ウケの悪い話です。良い大学に入れたことも、良い会社に入れたことも、起業が上手くいったことも、かなりの程度「もって生まれたものがあったから」と言われていることに等しいのですから。

ただ、「努力量=成果」とは言い難い事例を数多見てきた私からすれば、すべてを個人の努力に結び付けるのは強者の傲慢・押しつけであると感じざるを得ません。このあたりの議論は、マイケル・サンデル教授の近著とも重なる部分だと思います。

私たちは皆、自分の思惑とは裏腹に持って生まれた能力に差が生じている。自分がどんなに得たいと欲している能力も、後天的な環境をコントロールしたところで得られないかもしれない、そんな身もふたもない現実をまずは認めるところから始めなければならない。しかし、自分が生まれ持った能力が時代に合致していた人間は、そのような主張を跳ね除けて「出来ない人間」の努力不足を非難する…。このような、構造に陥ってしまっていることを今回の読書会の議論の中でも垣間見たように思います。

3. 「私」=「無数にいる人類の中の一つのサンプル」

では、この身も蓋もない議論の結果を受け入れて何をすべきなのでしょうか。私自身は、この行動遺伝学の知見を「努力至上主義に対する抑制」と捉えることで救いを見出すことに落ち着きました。どういうことか、順を追って説明していきます。

まず、私たちの生きている社会は、世の中に無数にある「知識」をいかに上手く活用して成果に繋げるかという知識社会です。知識社会で生き残るためには、インプット・プロセス・アウトプットを効率的に行うことが不可欠です。そして、それぞれの理想像は概ね次に書くようなことだと理解しています。

インプット:自分の中ですぐに引き出せる知識・知見の総量が多いこと。また、自分にとって未知の知識・知見を短期間で得るための手段を複数持っていること。

プロセス:インプットしたものを目的に応じて適切に組み立てて、問題の所在を明らかにしたり課題解決の糸口を発見すること。

アウトプット:思考過程(プロセス)を経て導出した結論を効果的に実行すること。

一人の人間が、この一連の流れをこなすことは難しいですが、知識社会で重宝される市場価値の高い人材とはこれらに長けていると言えるでしょう。(ここではアーティストや芸術家等は一度脇に置いています)

学校教育を通じて私たちは、知識社会で役立つ人間になるべく、これらの能力の伸長や人格の陶冶を行っていきます。しかし、どんなに学習指導要領に沿った学習を施しても、習熟度にはおのずと差が出てきてしまいます。その習熟度の差異は、私たちの社会通念上「努力の差」とされ、成績が悪い人は怠惰な人間であると烙印を押すような規範が形成されています。

ところが、運動能力や芸術的な感性と同様に、知識社会で重宝される能力にも向き不向きがある可能性があることが遺伝行動学の知見により提起され始めています。つまり、努力即成果とはならず、個体差による限界値があるということです。そのため、今この知識社会でそれなりの成果を収めている人は、本人の努力以上にそもそもこの社会で求められている能力に合致した性質を生まれつき獲得できている可能性が高いと言えます。

では、そうでない人はどうすれば良いのでしょうか。

これを今の社会通念に照らすと、目の前のことにまずは愚直に取り組む、すなわち「頑張る」という帰結に落ち着いてしまいますが、努力ができるかどうかもある程度生まれ持った性質で決まってしまっており、努力できない自分に対する嫌悪感・罪悪感を増幅させることになりかねません。

『置かれた場所で咲きなさい』はこの言説の最たる例ですが、置かれた場所がどうあがいてもキツイ場合は、精神の袋小路に入り込んでしまうのがとどのつまりです。ではどうすればいいかというと

自分が生まれ持った性質に合った場所が見つかるまで、探し続ければ良いのです

ではないかということです。もっと言えば、「咲く=結果が出る」必要もないのだと思います。この世に生まれたからには、何らかの結果を出さなければならない、そのために粉骨砕身すべきだという圧力が今の社会には強く働いている実感があります。幸い私はギリギリのところで、この圧力をプレッシャーに変換して、どうにか社会人としてやってくることができました。ですが、同じような境遇にいながらも、結果が出せずにドロップアウトした同僚や友人も見てきています。

そんな彼ら/彼女らに対して、今はっきりと言えることは、努力したからと言ってそんなに簡単に結果はでないということ。そのことを前提に、自分にとって満足のいく結果が出せそうな場所を探し続ける、その過程にこそ意味があるのだということです。行動遺伝学の知見は、行き過ぎた努力至上主義を戒めてくれる点で非常に有用であると私は思いました。

「努力ですべてが上手くいくわけではない」という開き直りは、自分の人生そのものを壮大な実験のサンプルの一つと捉えさせてくれる面もあると思います。すなわち人生とは、知識社会という前提条件において、自分の居場所の最適解を当てもなく探す過程だということです。(少し言い過ぎですかね?)知識社会という前提条件が変われば、また最適解も変わるでしょうし、地域や国、業界や業種、学問領域といったもっと小さな単位でも自分が身を置く環境が違えば生きやすさが変わってくるようにも思います。

4. 遺伝と環境の議論の行きついた先

このような発散的な議論が終わり、読書会メンバーは次に何を扱うべきか途方に暮れました。そんな中、一人の参加者が「宇宙に関する動画を観ると自分という人間の見え方が根本から変わる」といった発言をしました。私自身も、気落ちした時は何万・何億光年彼方の宇宙に思いを馳せることで、現実逃避をした過去があるため、この発言には納得ずくでした。

そこで、次回の読書会では宇宙をテーマとする書籍を扱うことにしました。宇宙の議論は、古代ギリシャの頃から様々に議論されており、認識論の発展にもつながる哲学的テーマでもあったため、どのような化学反応が起こるのか今から楽しみです。

大学院での一番の学びは「立ち止まる勇気」。変化の多い世の中だからこそ、変わらぬものを見通せる透徹さを身に着けたいものです。気付きの多い記事が書けるよう頑張ります。