疑うのって普通じゃないの?

 最近立て続けに「常識を疑え」「実は疑ってかかる人の方が少数派」なんて文言を目にする機会があった。
 結論から言ってしまえば、私は基本的になんでも疑うところから始まるので、「今更そんなこと言われなくても普段からやってますよ」の一言で終わってしまうのだが、それだけでは何とも味気ないので、今回は「疑う」ということとINTJとの関連について考察したことを記述していこうと思う。

逆張り精神


 既に述べた通り、私は何でもかんでも疑ってかかる。
 どこで誰が実験、研究してどういう結果になり、別の誰かに実証されている、と具体的に述べられていたら一回で信じることもあるが、大抵はそんなに詳しく説明されていることは無いので、基本的には信じない。特に思想やとある行動の効果に関しては基本的に信じない。複数人が似たようなことを言っていて初めて、ある程度信用に値するものだと判断する。
 自分にとって納得のいかないものごとに関してはほぼほぼ疑念が発生するが、かといって自分の価値観とかちあう思想などにぶつかっても、「やはり正しい」とはならない。同じようなことを考えている人間が居たんだ、と安堵はするが、自分自身、自らの思考に対し「本当にこれでいいのか?」と疑問を投げかけるときが多々あるので、もしかしたら自分のことも信じていないのかもしれない。
 言ってしまえばただの逆張りをしているだけに過ぎず、自分でもあんまり品の無い行動だとは思うが、言われたこと、誰かが考えたことをただ鵜呑みにしていては、そこから何も生まれない。

疑念≒セキュリティソフト


 知識や思考を仕入れるということは、パソコンにソフトウェアをインストールすることに近い。パソコンの場合、インストールしようとしたソフトウェアにウイルスが引っ付いていたらセキュリティソフトがブロックし、有害なウイルスから守ってくれる。
 では、人間の場合はどうなるだろうか。
 言われたままをすぐ信じた場合、セキュリティソフトが無い(働いていない)パソコンということになる。無害なものも有害なものも区別なく脳に蓄積されてしまう状態だ。有益で真実味のある知識や思考のみに出会えるのならいいが、情報を遮断され第三者に仕分けされた情報のみを与えられる箱入りでもなければ、そんなことは有り得ない。間違った知識や偏った思考に侵され、正常な判断が出来なくなる。
 一度疑って調べてみたり検証してみたりすることは、そうした「ウイルス」に脳を支配されないように身を守るための、重要な手段なのではないだろうか。勝手に情報が飛び込んでくる現代社会において、雑多な情報に飲み込まれないためにも疑念を持つということは重要なことだと思う。
 ……これだけだと自分を正当化しているだけに見えてしまうので、もう一つ。
 セキュリティソフトは非常に優秀だが、無害なものでも有害だと決めつけて排除してしまうことも多い。疑い過ぎて矛盾が発生したり、雁字搦めになって身動きが取れなくなったりしては元も子もない。適度に新たな風を吹かせて、頭の中の「セキュリティソフト」を正常に稼働させることが肝要だ。
 自戒の意味も込めて、敢えて記述する。

「疑う人の方が少ない」ということは


 さて、幾度となくINTJに結びつけている私だが、今回も結びつけて考えてみる。
 INTJの特徴に「批判的」「懐疑的」というものがある。これに関しては「INTJって出たけどあんまり当てはまらないし違うと思う」とお考えの諸氏であっても当てはまるのではないかと思う。そうして結果を疑うこと自体が「懐疑的」という特徴に沿っているからだ。屁理屈に感じる方が居たら申し訳ない。
 仮に冒頭の「疑う人の方が少数派」という話が、その発言者の主観ではなく本当のことだとするなら、懐疑的という特徴を持つINTJが人口の数%なんて事態に陥ることにも納得がいく。

終わりに


 何やらいつも以上に纏まりの無い文章になってしまった気がするが、私としては呼吸と同じくらい自然に疑念が発生するが故、どちらの発言もあまりピンと来ていないのが本音だ。自分の話をしたいが為に槍玉にあげてしまったことは謝罪する。
 ここまで記事を読んでくれた方々は疑り深い性格であろうか、それともすぐ信じやすい性格だろうか。個人的にはどちらも利点があり、優劣をつけられるものではないと思うが、素直に信じられる人に生まれてみたかったなあと思う気持ちも正直ある。
 もしなんでもかんでも疑う人に物申したい人がいらっしゃるなら、是非ご一報ください。


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