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私のお友達(1)大屋建

大屋建(ギター製作家)

大屋さんのギターを弾く者として感じるのは、ここまで自分をさらけ出した楽器(作品)を残せる人はなかなかいないんじゃないかということです。

顧客のオーダーに向き合いながら、大屋さんはつねに音楽に「全振り」している。少なくとも私にはそのように伝っています。その振り切った姿勢は、職人としての哲学と共に芸術家も同居していると感じています。


さて私のオーダー内容はいくつかありました。
・良い演奏には120%応えるが、悪いタッチもそのまま出るギター
・内声を活かせるよう中域に存在感があるギター
といったものに加え
・J(ジャンボ)モデルのプロトタイプとほぼ同じニュアンスを希望
という事も伝えました。というのも、このジャンボモデルのプロトタイプ(初号機)を私は非常に気に入っていて、自分のアルバムにも借りてレコーディングするほどだったのです。

しかしこの3つ目の希望はほぼ無視されました。
おそらく、プロトタイプのニュアンスでは、上記1番目と2番目の希望を完全に満たすことができないという判断だったのだと推測します。
出来上がったギターを弾いて「プロトタイプと全然違う・・」という第一感を持ったことを記憶しています。

しかし上記の2つは、私の予想を超えて実現されています。
良い演奏ができたら120どころか150点のものが出てきますが、体調が悪かったりすると15点くらいにしかなりません。実に恐ろしいギターです。


このように私と大屋さんの間には常に音楽を基にした無言のやりとりが流れています。
「伊藤さんが求めているのはこちらだと思う」
という考えを「楽器製作」という形で提示され、次に私が「音楽を作る」という形で答えるわけです。そしてそれは今もずっと続いています。


そうした空気が根底にありながらも、私たちは本当によく喋ります。
実にくだらない話をダラダラとすることも多いですが、中心話題はやはり音楽のことになります。

音楽人は、ややもすると「感情をベースにした感覚」に簡単に逃げ込んでしまえるものです。
「言葉にしなくても伝わる」と、見えない感情や感覚を関係性の中心にすると、最初は良くとも必ずお互いの違いが明白になり、またその違いを目の前にしても「結局答えなんかどこにもない」というもっともらしい逃げを打って結局は何も深まらないという音楽人あるあるの人間関係。私は若い時からそれを嫌悪していました。たとえ言いにくくとも、どこかで言葉にしていかなければ、相手のことを理解する機会を得られないのではないか、と。
30歳目前のタイミングで、大屋さんのような言葉でのやり取りを突き詰めてできる存在に出会えたのは、私にとって大きなことでした。

大屋さんは最初に会った時から、こちらの問いかけに対し、精神論や感情論ではなく正面からロジカルに考えを伝えてくれました。その真正面な態度に、私は誠実さと共に人間的な意思を強く感じたものです。
大学で物理学を専攻し、社会人時代にはジェットエンジン開発を手がけていた大屋さんは、どんなに微妙微細な事柄でも言葉にして説明してくれます。
例えば、楽器構造においての遠達性や倍音の捉え方など、素人の私にも(少なくともその場では)理解できるように解説してくれます。そうなると私も訊きたいことはなんでも訊くし、逆に自分が普段ギタリストとして考えている事もなんでも話すようになりました。


私の楽器の持つ「基音の存在感」は、大屋さんの態度や姿勢そのままだと感じます。強く遠くへ飛ぶ基音は弾き手を試すような緊張感を持ちますが、同時にごまかしのない素直さは大きな安心感をもたらしてくれる、不思議な世界です。
冒頭に述べた「自分をさらけ出した作品」と私が感じるのは、こういったところです。

こうして振り返ってみると、言葉を尽くした数年間のやり取りの末にオーダーして完成したギターが、私の予想をはるかに超えるものになったのは当然だったのかもしれません。この先も私が弾き続ける事でその中身は変容し、深みを増していくことでしょう。

私は常々「大屋建ギターと出会った時が音楽人生のターニングポイントだった」と話してますが、「ギター」という文字を抜いてもらっても、まったく意味は同義となります。

ギブソンのネジの重要性を確認する私達。
なんらかの打ち上げ。竹内いちろさん、林慶文さんと共に。

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