必至を願う目標あってこそ

 戦後時代、中国地方の大名・尼子氏の武将として活躍した山中鹿之助の名言「願わくば、我に七難八苦を与えたまへ」というのがあります。中国地方の雄、毛利家の攻勢により没落した、主家の尼子氏を再興という難事を成し遂げるためなら、どんな苦労でも厭わないという覚悟を示したものと言われています。実際、山中鹿之助は尼子氏再興に3たび挑戦し、最後は孤立無援の状態で毛利家の兵糧攻めにあい降伏、生け捕りにされるも、護送中に謀殺されたとされています。

 ここまで、石に食らいついてでも果たさんという目標が、今の自分にあるのかと問えば、年齢、経歴、家庭、親、そして現在の仕事の忙しさと、いろいろなことを理由にして、目標を立てて向かっているように見えても、必至の覚悟がない、そこは透けて見えてしまいます。いきなり奈落の底まで落ちたくはない、現状に満足するように解釈したい、そういう、現状を肯定しようとする気持ちに重しがあり、あえて反対側に傾ける努力をしなければ、常に現状と折り合おうとする気持ちがあります。

 現状を打破し、新天地の人生を切りひらいた先人たちは、こうした、幾重にも取り付けられている、自分の心の足枷を、どのように解いたのでしょうか。自分を映す鏡を壊すような胆力、あるいは足枷をそのままにひきずって乗り越えるのでしょうか。ただそれらは、これまでの自分を壊すことで何かを実現しようとする姿で、若いころならできますが、今からは難しいように思います。やはり、自分の強みが鈍くても弱くても磨いて、それにより切り拓いていくしかない。物理的に監禁されているわけではなく、心の足枷であり、足枷の大半は自分の解釈次第で外すことや軽くすることができます。この解釈力と、自分の強みを磨き、ゆでガエルになる自己肯定の温い沼から抜け出したい、毎日でも自分を叱咤し、十全に強みを活かせる自由な世界を願い、行動していきたいと思います。

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