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「手離す」と言い換える主の話

吾輩はとあるアパートに住む
「ぬいぐるみ」である。

人間の基本的な生活において
吾輩に活躍の場はない。

どの家庭にも形こそ違えど
ひとつやふたつ…いや、数えたら
そこそこの数が生息しているであろう
ただのぬいぐるみなのだ。

さて、今日は我が主がよく使う
「呪文」について話をしよう。
単なるヘリクツな話であるが
退屈凌ぎに立ち寄っていただけたら
ありがたい。
我が主はこんな呪文と思考で整理整頓の
モチベーションを維持している。


我が主曰く、
生活を整えるための行為で
一番キツイのは
まだ使えるモノを減らす時らしい。
罪悪感が半端ないとか。

リサイクルショップが引き取ってくれる
モノであればいいのだが、
リサイクルショップも
「何でも」とはいかないのは当然のこと。

以前は引き取ってくれたモノも
現在は受け付けていないこともある。

最近は自治体が再利用の仕組みを
作ろうとしてくれているが、
当然古いモノは難しい。
そして残念ながらどこでも利用できるほど
盛んな取り組みにはまだ発展していない。

…となれば、多くのモノが
「捨てる」という選択肢になる。

これが何とも心苦しい。

大型家電の場合はまだいい。
調子が悪くなって買い替えることが多く、
購入店舗で処分の手続きをすればあとは
業者任せになる。
必需品が多いからこればかりは
仕方ないと諦めやすい。

本やゲーム、玩具類は比較的
リサイクルショップで
引き取ってもらいやすいし、
宅配便で買取受付をしてくれる
システムもある。

スポーツ用品やアウトドア用品、
ちょっとイイ衣類とアクセサリーも
その部類に入ると思う。

一定の市場価値があるものは
多くないが…それは人によるだろう。

我が主の場合は、高価なモノに
見向きもしない性格なので
こういった時の買取価格は
期待できないことを承知している。

問題はそれ以外。
モノが豊富なこの国の日々の生活の中には
「それ以外」が多いのだ。

家具は買い替える時に
引き取りのサービスがある場合もあるが
そもそもモノを減らしたい時に
買い替えていてはモノは減らない。

近年は家具も一般的なモノでは
出張買取も難しい。
主の場合は半分は買取に間に合ったが
半分は間に合わなかった。

そして今も昔も一定年数を過ぎた
小型の家電や細々した安価な収納家具や
ケース類、それらを利用して収納していた
使わなくなったモノの多くは
引き取り手がない。

罪悪感を伴いながら処分する
過程を通るしかないのだ。

この苦痛は確かに辛い。
我が主も随分悩み苦しんでいる。
もちろん苦しんだ分、次には繋がる。

購入するときから
慎重に検討するようになるし、
処分する時の手間や気持ちも
同時に考えるようになる。
それは確かだ。

それでも痛みは少しでも
和らげたいのが人の常。

気休めだが、
我が主は「捨てる」という言葉を
極力使わないようにしている。

代わりに「手離す」と言うように
心掛けているらしい。

「捨てる」という言葉を使うのは
毎日の生活で出るゴミに対してのみ。

まだ使えるかもしれない、
使い道があるかもしれない、
でももう我が家にはいらない…
誰かに使ってもらうには
我が家で使い過ぎてしまった…
そんな中途半端なモノは
「手離す」という言葉で痛みを
少しだけ緩和している。

ハッキリ言って我が主のヘリクツだ。
実際は迷って悩んだ後に捨てている。

整理整頓にきっと終わりはない。
それこそ生きている間、日々整頓だ。

我が家も確かにモノが減った。
スッキリ片付いている状態が
それなりに保たれていると思う。

だが、家族の生活は
日々変化していくものだ。
生活しやすい形はそれに応じて
変化していく。
時代が進むにつれて市場で
提供されるものもどんどん変わる。

その都度、生活しやすい形を
それぞれの家庭で見つけていけばいいと
言う主に吾輩も賛同する。
他の家庭と同じである必要はないのだ。

モノ減らすことはどうしたって
痛みを伴う。
我が国で扱われているモノの多くは
質がいいからまだ使える状態で
役目を終えてしまうモノも多い。

整理整頓は1度や2度で
終わらないからこそ
少しずつでいいと感じている。

ゆっくりしか進めない吾輩のような
歩みでも止まらなければ確実に
進んでいるのである。

我が主の「手離す」呪文は
今日も緩く発動中。
昨日よりはきっと前に進んでいるだろう。


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