オリエンテーリングhogehoge2

ほげほげ2

『○○2』なるものは、得てして前作より退屈である。

生存バイアス

自身のトレーニングの選択にあたって経験を頼りにするのは良い。それで伸びてきたのであれば、何らかの理由で自身に合っている可能性が高い。しかし、他者に当てはめる際には注意しなければならない。あくまでn=1の結果であることを意識しなければならない。

当たり前のレベル

”当たり前のレベル”をどこまで高められるかが肝要である。人は自身の”当たり前”より多くのリソースを割いたとき「頑張った」と感じる。また、頑張ることは多くの人にとって、主に精神的な体力を擦り減らす行為である。よって、頑張らなくても十分なトレーニング量を確保できるくらい当たり前のレベルを上げてしまうことが理想。それが取り組みの継続に繋がる。

押さえる順番

1.パフォーマンスの構成要素の理解
2.各要素の伸ばし方の理解
3.各要素を伸ばすための打ち手の選択

この順番を守れば大抵の分野で並以上になれるのではないだろうか。しかし、1,2を飛ばして3から学ぼうとする人は少なくない。
”走力を伸ばす”ことにおいて1のために書いた、以下の記事以上のものを私は今後しばらく書けない。これ以上情報を詰めると体育学を修めていない人に難解になりすぎるように思う。

努力

努力できる人は意外と少ない。正しい努力をするための努力ができる人はもっと少ない。

努力2

「努力」という言葉は好きではない。できる限り使いたくない。しかしあまりに便利すぎる。

競技歴

つい先日、陸上競技歴をオリエンテーリング競技歴が超えた。オリエンテーリングがマイナースポーツであることを加味しても、私は長距離走よりオリエンテーリングの方が少しだけ向いていたのだと思う。

元・陸上部

陸上部に入部した途端に足が速くなる訳ではない。急にランニングの知識が身に付く訳でも、綺麗なランニングフォームが身に付く訳でもない。”速くなること”に向き合い、取り組んだ結果に依るところが大きい。速く走れるあの人は「陸上部だったから」足が速いのではない。足が遅いのは「陸上部ではなかったから」でもない。
幸いにして元陸上部オリエンティアの陸上競技歴はそこまで長くない。多くは2-5年の範囲に収まる。加えて、陸上を辞めてオリエンテーリングを始める人の多くは一度 ”競技”に見切りをつけていることも少なくない。私もそうだった。
大学から始めても十分ひっくり返せる。

がむしゃら

ポイント練以外は必死になる必要はない。
その代わり丁寧に。

捻挫

競技1年目に全治2週間以上の足関節捻挫を7回。4-5年目で1回。
ターニングポイントは3年目に「テーピング等の対処療法ではなく、不整地の走り方を身に付けよう」と取り組みの方向性を切り替えたこと。(足関節を固定したまま走るのが嫌いだったこともあり、) テーピングをしなくなり、練習会で不整地を走る練習を意識的に増やした。今は捻挫が減り、巡航が一段上がった。
ちなみにこれは生存バイアス。

「走りながら治す」

基本的にオススメしない。
これができるのは 違和感 あるいは わずかな鈍痛くらいで対処を始められた人のみではないだろうか。一度”故障者”になってしまったランナーが練習を継続したまま完治まで持っていくのはかなり難しい。

note

思いの外、読まれているらしい。
競技1年目の女の子に「(オリエンテーリング関連でないものも含めて)note全部読みました!」と言われたときは流石に驚いた。
記事毎に気分で文体変えてごめんなさい。

期待値コントロール

日常生活における人の評価は絶対評価のみで決まるのではなく、「その人への期待値とのギャップ(+絶対評価)」で決まっているように感じる。このことに思い当ってから自分のことを大きく見せず、自身への期待値が上がり過ぎないようコントロールすることを覚えた。
ただし、覚悟を持って能力を伸ばしたい分野においてはその限りでない。期待が程良いプレッシャーになる。

熱量

競技者の熱量をコーチの熱量が上回ってしまうことがある。コーチが割いたリソース程の成果は得られず、競技者にはプレッシャーになる。双方Lose-Loseに感じる。気を付けたい。競技者が幼い場合、将来の競技者を助けるかもしれないけれど。

モチベーション管理

”掛かり気味”の競技者のモチベーションを故障やバーンアウト防止のためにも落ち着かせることはコーチの役割の範疇と考えているが、やる気のない競技者をやる気にさせるのは果たしてコーチの役割なのだろうか。

走るのは嫌い

と常々思っていたが、そうでもないのかもしれない。毎日走るのが嫌いなだけかもしれない。週2-3回であれば丁度良いのかもしれない。

「これをやっておけば絶対走力が上がる!」

そんなものは存在しない。
大抵ポジショントークか生存バイアスである。

スピード

若いうちに”スピード”を身に付けておいた方が良い。解糖系の代謝能力を叩いておいた方が良い。年をとって手遅れになる前に。

種目の専門性

陸上競技の実業団などでは、1500m~10000mの専門種目に関わらず長い期間チームで同じようなトレーニングをこなし、ターゲットレースの直前期にのみ各種目特化のトレーニングを行うらしい。
これは”長距離走”という競技のパフォーマンスを向上させる上でヒントになるような気がする。

憧れ

理数系科目の問題をうんうん唸りながらも解き進める友人が格好良かった。未知を開拓していく研究者に憧れる。どんなスキルでも手に入るなら今からでも料理人になってみたい。
覚悟が必要な選択を避け、成功のイメージが湧き、万が一のときも潰しのきく選択ばかりしてきた気がする。「何とかなるでしょ」で選択しても大抵何とかなってきたのに。

走力 vs. 技術

どちらも大事。どちらがより大事かは人による。
オリエンティアそれぞれの戦っているステージが異なるから議論が紛糾する。着目すべきは「目標に対してどちらがどの程度足りていないか」のみである。
とはいえ、大半の競技者にとって走力を伸ばすよりミスタイムを削る方が努力の”コスパ”が良い。加えて、インカレは競技者の8-9割が競技歴4年以下であり、大半が技術の頭打ちを迎えていない集団の中で戦う。インカレで成績を残すことを最大の目標に据える多くの学生にとって「技術の方が大事」なのだろう。私でもそうする。

トレーニングのコスパ

オリエンテーリングにおいて、走力を上げることはパフォーマンスの最大値を高めることに繋がる。技術を磨くことはパフォーマンスの平均値を高めることに繋がる。
後者はミス率0%という理論上の限界が比較的近く、競技力が上がるにつれ頭打ちに近づく。どこかのタイミングで技術を磨くより、走力を伸ばす方が競技力向上を狙う上でコスパが良くなる。技術が頭打ちになって初めて走力と向き合い始めるのでは遅い。

科学の妄信

科学は100%正しいとは限らない。妄信するのも考えものである。しかし、大半の人の感覚や経験より正しい確率が高いことも事実である。故に私は「理論のベースには科学があるべき」と考える。

正解を求めすぎない

自身の考えを”仮説”の状態で揺蕩わせておく。そうすれば自身の仮説より”確からしい”新たな仮説に触れたとき考えを改めることができる。この世のどこかに存在する正解に近づける。

トレーニング消化率

理想は95%以上
トレーニングにおいて、1回で特別高い負荷をかける必要はない。1kmあたり5秒設定タイムを早めたところで、生理学的にも力学的にも改善は小さく、寧ろ設定タイムを守れない/練習を中断することによるトレーニング効果減少のリスクが高まる。ギリギリを攻めるのは割に合わない。
トレーニングの途中で負荷が物足りないと感じたなら、終わりにかけて負荷を徐々に高めればよい。次の機会で設定タイムを調整すればよい。

記録会

陸上競技未経験の競技者ほど、出場してみることをお勧めする。
日本人オリエンティアで走力がトップクラスとされる選手でも同じ組で走るランナーに周回差をつけられる。小学生の女の子が3000mを10分半ばで走り切る。オリエンテーリング界が”井の中”であることを痛感させられる。

対策

以下の理由から、レースの対策はできる限りしない。

  • 対策はある特定のレースでのパフォーマンスを上げるためのものであり、競技力自体は上がらない

  • 対策をすることで自身の課題に気付く機会を失う可能性がある

マイルールは年2回まで。競技者になった2年前からは海外レース(WOC2022・EOC2023)とWOC2022選考、全日本スプリント2023のみ行った。
ただし、対策をする際は徹底的に。基本は現地確認の負荷を下げ、先読みの時間を生む目的で行う。路地への侵入箇所が遠くから分かりにくければ、近くの建物の外観/看板/標識を覚える。あらゆる角度から見て、画像で記憶する。

対策2

対策は嫌い。楽しくない。
他の競技者がやるから仕方なくやるだけで、できることならやりたくない。ゲーム、漫画、YouTube、麻雀の方がずっと楽しい。

思考実験

いま日本の陸上選手全員がオリエンテーリングを始めたなら、5年後私の競技者としての立ち位置はどうなっているのだろうか。確実に日本代表ではないだろう。全日本スプリントでエリートになることすらかなり厳しいように思う。

頼りになるもの

実績。過去の積み重ねが将来の自分を助けてくれる。
「何を言ったかではなく、誰が言ったか」とはよく言ったもので、そろそろ私も発言に説得力が伴うよう実績を積み上げていかねばならない。

同志へ

自分の力の上限をもう悟ったっていうのか?
技も身体も精神も何ひとつ出来上がっていないのに?

自分より優れた何かを持っている人間は生まれた時点で自分とは違い、それを覆す事などどんな努力・工夫・仲間をもってしても不可能と嘆くのは全ての正しい努力を尽くしてからで遅くない。

ただ“自分の力はこんなものではない”と信じて 只管まっすぐに道を進んで行く事は、“自分は天才とは違うから”と嘆き諦めることより辛く苦しい道であるかもしれないけれど。

古舘春一『ハイキュー!! 17』

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