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私にとって写真とは

自己表現というより感情表現

私にとって写真とは自己表現,特に感情表現の手段だ.

私は感情の起伏が激しい方だと思う.
そのわりに感情を表に出すのが苦手で,抑えるほどに自己矛盾を感じる.

よくある話で
幼少の頃にいい子でいようと気持ちを抑制しすぎたことで
小学校に上がる頃にはすでに暗く寂しいものを抱える人間が出来上がっていた.
それ以来,口には出せない悲しみ,心に溜まったさまざまな矛盾,悪いもの,汚いもの,そういった感情を表現し認めてもらいたい気持ちがあるように思う.

小さな頃から何かを作るのが好きで,工作,裁縫,水彩画,に没頭し,十代以降は吹奏楽,管弦楽,バンドなどの音楽に没頭した.
何かを作り,細部に好き嫌いを詰め込むことで自己発散していた.
認められなかったものを美しいものとして世に送り出すことで昇華したかったのだ.

その後ずいぶんと長いこと音楽を表現手段としていたが,社会に出てからは自分一人で完結できる「写真」が主な手段となった.

感情をダイレクトに表現できる手段,それが私にとっての写真だ.

そんなことだから私の写真は独りよがりだ.

子供が泣きわめいて感情を爆発させるのと大差ない.
写真を撮ることで自分の感情を確認している,一種のセラピーだ.

それを世間に発表すること何の意味があるのか?

よく問われる命題であるが,
私にとって感情表現は自己認識だ.
曖昧で拡散しそうな自分という存在を確かめるのだ.

たとえ少なくともこの感情に共感できる人に届けられれば,
きっとその人にもセラピーになるのではないだろうか.
少なくとも私はずっとそんな風に芸術と付き合ってきた.

よくあるよくある,ありきたりの回答だ.
でもあらゆる芸術とはそもそもそういうものではないか?
それが一番核心の部分ではないのだろうか?
芸術を通して形のない自分の存在を確かめる.
私はそんな風に常に根源的な部分を持った写真を撮っていたいのだ.

穏やかな人生を送っている人はきっと私の写真は見たくないだろう.
努力してにポジティブに生きている人は不快に感じるだろう.
偉大な芸術が溢れる中で,いい年して幼く未熟なただの感情に価値はないだろう.

それでも私は大切にしてやりたいのだ.
小さなことで喜んだり泣いたりしている,
きっと誰もが胸の中にひそめている幼い心を.


誰かを写すこと

一方で家族や,特に幼い子供を撮るときには自分の感情を重ねたくはない.
私とは全く異なる健全な精神を持つ一人の人間であるのに,自分の感情表現の手段にするのは身勝手に感じてしまう.

私の感情を混ぜずに,純粋にその人のありのままを映し出したい.
それもまたその人の存在を認識することに繋がるのかもしれない.
撮る側も,撮られる側も.
写真で表現できるのは「そこにあること」.

記録するということ

写真家,濱田英明さんが言っている.
『人は悲しいほどに忘れてしまう』

ああ本当に,大切だったことさえなんだったか思い出せない.
せめて一瞬でも記憶に留めようという純粋な思いの結晶が写真だ.

記録するという行為もやはり「そこにあること」.
こうして考えてみると存在の認識というのは写真で表現することのできる一番核の部分であるように思う.

何気なく忘れてしまうものだけでなく,
日々を生きる中で意図的に追いやって忘れたことにしてしまうものもたくさんある.

自分の感情でも誰かの感情でも,
忘れ去られてしまう根源的な部分が確かにそこにあることを,
私は写真を通じて呼び覚ましたいのだ.
それはきっとアイデンティティと呼ばれるものだ.

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