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大奥勤めをした曽祖母

父方の曽祖母は、娘のときに大奥勤めをしていた。そのためか「徳川様の悪口をいったら承知しないぞ」というのが口癖だったという。江戸城に勤めていたというのも父から口伝えに聞いているだけで文書で残されたものがないのでまことに心細い。いわゆる口承の類のものである。曽祖母の名前は、藤城つぎといった。戸籍では、天保14年10月10日の生まれで、東葛飾郡国分村の富川三郎右ヱ門の長女とある。同じ国分村の名主藤城峯三郎に嫁いで二男五女を生んだ。私の祖母はその四女にあたる。

はたして農民が大奥勤めをするものなのか。調べてみれば、大奥女中に武士でなくても江戸の近くの旧家の娘たちが上がっていたようである。

行徳の旧家青山家からは15歳で紀州藩に奉公し、藩主慶福が将軍(家茂)になるのに従い、江戸城に入って粂尾と改名し御錠口に勤め、61歳まで大奥女中を勤め上げた柔昌院(にゅうしょういん)の例がある。大奥女中として、江戸や近郊から容姿の美しい娘たちが選ばれて、行儀見習いも兼ねて上がっていたが、幕府がなくなったときにみな帰ってきたそうである。彼女たちは大奥女中としての誇りを持っていて、気品があり、日常の所作から普通の娘とは違っていた。(『房総の秘められた話奇々怪々な話』「大奥お錠口に勤めた柔昌院」祖田浩一) 

曽祖母もそのような娘たちのひとりだったのだろう。厳しい人だったらしく、父が子どもの頃に風呂の湯が熱いといったら「湯が熱いのは当たり前だあ」と祖母から叱られたと話してくれたことがあった。昭和の初めに亡くなっているので、私は、もちろん会ったことがない。
伝承というのものは、こういう身近な出来事から生まれ、代々言い伝えられて時を経ながら残っていくものなのだろう。


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