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常に人を軽蔑しない求法者

1 常不軽菩薩

常に人を軽蔑しない求法者がいた。彼は、人に会うと「私は、あなた方を敬い、軽蔑しません。何故なら、あなた方は、求法者の道をたどれば、仏になることができるからです」と言い続けた。

こういう言葉を発せられると、却って気味悪がるのは人間の性なのだろう。何故あの者は、私たちが仏になれるというのだろう。ある者は彼の言葉を虚言と思い、怪しんだ。疑いの心は悪意に変わった。

それでも彼は、敵対することなく、「私は、あなた方を軽蔑しません。何故なら、あなた方が求法者の道をたどれば、仏になることができるからです」と言い続けた。人々は、いっそう彼を嫌い、彼に石を投げ、彼を棒で打った。彼は、サダー・パリブータ(常に軽蔑された男)と言われた。

サダー・パリブータは、死期が近づいた時に法華経の教えを聴き、完全な悟りに達した。それを知った彼を軽蔑してきた人たちは、彼の元に集まり、随従した。

妙法蓮華経常不軽菩薩品では、サダー・パリブータ(常に軽蔑された男)は、常不軽菩薩(常に軽蔑しない求法者)と言われる。常不軽菩薩品は、人間社会には見ることの少ない稀有な人間を描いているが、打たれても自分の道を曲げない姿は、後世の宗教家に大きな影響を与えた。

2 提婆達多

釈迦の弟子に提婆達多(デーヴァダッタ)という者がいた。彼は、釈迦の教えに逆らい、釈迦に危害を加えようとした。

しかし、妙法蓮華経提婆達多品では、釈迦に悟りの道を教える聖仙として描かれている。彼のおかげで釈迦は、悟りに到達できたといい、「デーヴァダッタは余の善き友人」と語る。敵対する者を敵としないで、師(導く者)とし、デーヴァダッタは、未来に如来を約束された未来仏とされている。

3 今に生きる意義

仮に仏教の教えから一歩下がった場合に、常不軽菩薩品や提婆達多品は、普通のわれわれにどのような意義があるだろうか。

常不軽菩薩の姿は、
①自分の信念を曲げない、自分への強い信頼がある。
②自分を軽蔑し、時に危害を加える者に寛容であり、人間の根本にある仏性に対する信頼がある。
③軽蔑されても軽蔑しない、危害を加えられても抵抗しないという結果、憎しみの連鎖は生まれず、平和な人間関係になる。

また、提婆達多への釈迦の対応は、寛容であり、自分に敵対し、害しようとする者の行為も、プラスにとらえている。対立する者のおかげで自分は高められたという思想である。

これらに言える共通の理念は、どのような人間にも人間としての尊厳があり、平等の命の重みを持っているということなのだろう。

現代は、罪を犯せば罰せられる法治主義の時代なので、罪を犯した者に仏性を見る思想が入り込む余地はないだろう。有罪となり罰せられても、殺された人は帰って来ないという被害者の言葉はよく理解できる。一方で、罪ある者こそ救われるという悪人正機説の考えにも共感する。この辺りが自分が悩める平凡な人間なのだなと思う。釈迦の「デーヴァダッタは余の善き友人」と心から思うまでの過程に、自分のような凡人には推し量れない苦悩と修行があったと感じている。

ひとつ、私の微細な経験では、嫌なことに対して、嫌悪な気持ちを持ち続けるよりは、全てを許そうと思う方(思うというより、心の中で許そうと何度か言う方)が軽やかな気持ちになった。そんな経験がある。やはり、常不軽菩薩や提婆達多は捨てがたい。


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