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妄想と気概。

 普段書店で接客をしていて妄想することがある。

もしもこの売場に、突然凶器を持った暴漢が入ってきて、お客様や従業員に危害を加えようとしていたらどうするか?

 もちろん危機管理として万引きや盗撮を警戒する私服警備員はいるし、有事の際にはお客様を安全な場所へ誘導したり、警察や店舗が入っている施設の警備員に連絡するなどのマニュアルはある。そうではなく、

その暴漢を視認した時にどうやって近寄って、どうやってぶちのめすか

ということであって、だからこそ妄想なのだ。

 妄想の中の私は常にバキバキのマッチョで、猿のようなすばしっこさと疾風のような身のこなしを持っている。

 後ろから攻める場合はまず音もなく忍び寄り、右手を相手の顔の左側から回して顔をロックし、ふくらはぎに強烈な右ローキックをお見舞いし後ろに倒した後、警備が駆けつけるまで上四方固めで抑え込む。

 私がレジの中にいて暴漢が前から襲いかかってくるパターンだと、レジ台の上に跳び乗り、そこから再び跳躍して相手の顔面に回し蹴りを放てば一発KOだ。

 私をよく知る人なら「こいつやべー」と思うだろうが、妄想なのだから批判されても困る。そして万が一実際にそういう状況になった場合、今の所うちの店にはブラジリアン柔術をやっている社員と元柔道家の社員がいるから、私ごときの出る幕じゃない気はする。


 利尻にいた頃、空手道場に通っていた時期があった。小学校6年生の秋から中学3年生の夏までだから、約3年だ。少年野球の最後の大会が終わってしまい、やることはないが体力が有り余っていた。中学に入ってからも部活の後に週3回通い続けていたくらいだから、今思えば生きている中で最も疲れ知らずだった頃の話だ。

 「体を鍛えたい」と母に相談した所、「パート先に出入りする問屋さんが隣町で空手道場をやっている」と教えてくれた。クラスの中では女子を含めて一番チビで華奢で、そのくせやんちゃで粗暴だった私にとって、武道は魅力的だった。

 当時は学区に剣道の道場もあったが、クラスメイトの数人がずっと以前から習っていたから、「今更始めるのもなぁ」とも思っていたし、何より「喧嘩なら負けねぇ」という浅はか、かつ井の中の蛙状態だったので、母に頼んですぐに入門することにした。

 道場は家から車で20分。利尻町沓形の「夢交流館」というナイスなネーミングを持つ体育館の一角にあり、入門当初は島内の小学校1年生から中学1年生まで合わせて約20人が通っていた。

 稽古は19時〜21時までで、仕事を終えた先生が来るまでは、利尻高校空手部の6人の先輩たちが教えてくれた。

 流派は松濤館(ショウトウカン)流と言い、道場はその利尻支部だった。後で知ったことだが松濤館流は、剛柔流、糸東流、和道流と並んで、空手の四大流派の一つとされている、らしい。

 まったくのド素人は私と、私が空手を始めたのを聞いて一緒に通い出したクラスメイトの2人だけで、上級者が集団で稽古をしている中、隅っこの方で基本動作から学んだ。

 基本動作とは、数種類の突き、蹴り、受けのことで、これをその場でひたすら反復し、慣れてくると前後に移動しながら行う。この組み合わせがいわゆる「形(かた)」になっていく。

 空手部の先輩たちは皆有段者(黒帯)だったが、そこは田舎らしく体育会系のノリはほとんど無かった。

 上級者と私たち新人の稽古分担をじゃんけんで決めたり(先輩にとっては私たちぺーぺーを相手している方が楽だから勝つとめちゃくちゃ喜んでいた)、ろくに稽古もせず雑談し、先生が来ると慌てて再開したりと、恐いというより気のおけない兄のような存在だった。

 ただし実力は確かで、幼い頃から空手を続け、6人とも道大会では優勝候補の常連だった。中には先生のもとで修行を積むために、わざわざ札幌の中学から進学してきた先輩もいたほどだ。

 そんな先輩たちが師と仰ぐ人だから、ゴリゴリの体育会系で常に怒筋が浮き出ているような恐ろしい形相をした人だったらどうしようとドキドキしていたが、そんなことはなかった。

 先生は当時まだ30代だったと思う。体も思っていたほど大きくはなく、シュッとして爽やかな風貌の人だった。

 ただ、組手で全日本3位という輝かしい実績にふさわしく、本気で突きや蹴りを打ち込もうもんならこちらの手足が折れてしまうんじゃないかと思うような引き締まった体を持っていることは、道着の上からでも容易に想像できた。

 先生は先輩たちに負けないくらいおしゃべりが好きな人だった。2時間の稽古の半分以上が雑談で終わることもあり、空手以外の格闘技の話や自らの武勇伝がメインだったが、どれも私からすれば刺激的でおもしろかった。

 時には、空手では絶対使わないだろうと思われる寝技や関節技を熱心に教えてくれたりした。

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 道場で行われた演舞で、先生が木製バットを蹴りでへし折るところは実際に見たことがある。空手といえば瓦割りをイメージするが、先生はかつて、その瓦を置くためのブロック石をかかと落としでたたき割ったらしい。今はYouTube等でそういうビックリ人間の映像を簡単に見ることができるが、初めてその話を聞いた時は、正直言ってドン引きだった。

 ドン引きといえば、
「寸止めっていうのは、相手の体に打撃が当たらないように打つことじゃないぞ。相手が失神する寸前のところで止めるから寸止めなんだぞ」
というような持論を展開していた。おもしろいことを仰る。

 私の方はと言うと、組手の方は早々に心をへし折られた。それはもう先生の蹴りを受ける木製バットのように。昔TOKIOの番組で「ガチンコファイトクラブ」というコーナーがあって、調子に乗った喧嘩自慢のヤンキー達が軒並み竹原慎二にボコボコにされていたが、まさにそんな感じだった。

 当たり前だけど普段学校で友人とやるような「ごっこ遊び」とはまるで違った。

 打ち込みと言って、攻撃してこない相手を立たせ、突きや蹴りのコンビネーションを自由に組み合わせて打つ練習は楽しい。しかし実戦となれば相手も本気で打ち込んでくるし、同じ子どもと言えども殺気が伝わってくる。

 さらに、組手の際に頭につける「メンホー」と呼ばれるヘルメットや、胴につけるプロテクターが恐怖心を増長させた。普通は身を守るためにつけるのだが、私の場合は閉塞感に緊張も手伝って呼吸が荒くなり、試合が終わると例外なく頭痛が襲った。

 体の小さい人間は、フットワークやスピードを活かして相手の目線を逸らし、低い位置から相手の懐に飛び込んでいけるというメリットがある。何倍も体が大きい相手と互角以上に渡り合う先輩の組手を見ながら、冷静に動きを見ることや、恐怖心を克服することができない自分が情けなかった。

 逆に形は大好きだった。相手がいないから恐怖心もない。自分なりに技のキレや動きの緩急、間を磨き、研究していった。

 何よりも演舞中の空気感が好きだった。組手の試合中のような歓声はなく、水を打ったような静寂の中、聞こえてくるのは突きや蹴りを放った時の「ビシッ!」という破裂音と静かな衣擦れの音。要所要所で、腹の底から気合の入った「エイッ!」という掛け声を上げ、それが会場全体に響くのが最高に気持ちよかった。

 3年の間に札幌で行われる大会にも何度か出て、最高成績は4位と振るわなかったが、先生からは、
「キャリアの割にお前の形は大したもんだ、磨いていけば必ずモノになる」
と言われ、素直に嬉しかった。

 そうそう、初恋もこの空手道場で経験した。別の学校から通う1学年上の女の子で顔も可愛かったが、それよりも道着を着た姿が凛としていてとてもカッコ良かった。特に綺麗なフォルムで放たれる上段回し蹴りにいつも見とれていた。

 小中学生の恋といえば、「顔が可愛い」「明るい」みたいな単純な理由が多いが、女の子がなにかに打ち込んでいる姿を見て惚れる、というのは初めての経験だった。組手の稽古中に一度だけ、一緒に空手を始めたクラスメイトが放つ打撃がその娘にモロに入った。いつもは勝ち気なくせに声を上げて泣く姿もギャップがあって可憐だった。

 結局、高校受験の準備やなんやらで稽古通いもそれまでになったが、普段はほとんど絡むことのない、別の学校の友人もたくさんできたし、恋もした。

 何より、「強さ」とは力の上下ではなく、技の美しさや思いやりや礼儀を重んじることだと学んだ。あの空間は体育館の名前の通り、本当の強さを求めて「人々の夢が交流する」場所だった。

 成人になった時、先生がお祝いをくれた。当時私は大学生だったし、空手を辞めてから5年間一度も会うことはなかったが、それでもかつての教え子を覚えていてくれたことに驚いた。お礼の電話をかけると、
「おめでとうな。頑張れよ」
と言ってくれた。今も一家揃って空手を続けていて、子どもたちを指導するかたわら、自らもシニアの部で大会に参加し好成績を収めているようだ。本当に強い人だ。


 空手の経験が今役に立っているかと聞かれると自信はない。体力は20年前のあの頃よりも劣っている気がするし、暴漢をぶちのめす妄想の中の自分には程遠い。

 だけどそんなことが起こった時に、無様な姿でもいいから、多少傷を負ってもいいから、相手を掴んで離さないでやろう、という気概くらいは持っているつもりだ。元空手家としての、あまり頼りにならない気概くらいは。 



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