100%どの側面においてもマジョリティの人など存在しない
自分のノート(アナログの方の)やスマートフォンのメモ書きを久しぶりに見返した。 読んでいて、これって私が書いた記憶は確かにあるんだけど、こんなこと私書いたの⁈ と、思うことも多々あって。 別人のような気がして、そうだよな、振り返ればもう知らぬひとだよなと、しみじみして。 この先、それもほんのすぐ先、自分があっけなく死んでしまうような気がしている。 それは肉体的な意味だけでなくとも、精神的に、はたまた魂のようなものなのかもしれない。 もしもそうなったら、是非いつ
影と泡沫 カゲハラ シノ 風に乗っておよぎ、水を吸ってうたう 1月9日 冬休みが明け、3学期始めの授業は数学だった。 習熟度別のクラス分け表から、日比野逢花の文字を探す。前学期と同じ教室へ移動する。 最後の方はなおざりにしてしまった、地味に量が多い課題を提出した。あとは今後使うことのないであろうⅢの範囲を教師は進めていた。 当てられるわけでもないのに、目線はルーズリーフと黒板の間で泳いでいる。授業になると眠たくても、眠られないたちなのがつらい。硬い
去年の12月から今年の7月まで書いていた、詩のようなものたちその2です。 その1はこちらから ↓ この下に転がっているへんてこたちにどうぞお付き合いください。 1.2021年12月 ほんのすこし 無題 しゃっぱぱららん ぱららん ぱららん しゃっぱぱららん ぱらららら もう十分 あとちょっとで 胸焼けしそう 胃もたれしそう それほど もう十分なんです 望郷 伏せた睫毛も はるか遠くに閉じたまま どう
私は片付けが出来ない。苦手ではなく、できない方だと思う。 ここ1,2か月自分の部屋の片付けができそうで、できていない。終わりが見えないのだ。 床には畳んで分類ごとに積み重ねた服と本があり、机にはやるべきことややりたいことに関する書類などが乱雑に置かれている状態だ。 というのもクローゼットにしても、本棚にしても、机の引き出しにしても、もう飽和状態で、綺麗にしまおうと思うとしまいきれないのだ。 これでは、しまっちゃうおじさんも、困っちゃうおじさんになってしまうのだ。 いく
おまんじゅうじゃなくて、楽しみがこわい。 「楽しみ」が怖い。 「楽しみ~!」「楽しみだね」と平気で口にする人をみると、いつもヒヤッとしてしまう。 「この人たちはなんて怖いもの知らずなんだ!」と。 私からすれば、彼らは野生のグリズリーやらライオンをなでなでしている人とそう変わりないほどの怖いもの知らずといっても過言ではない。 私は先の事柄に対して、「楽しみ」と思ってしまったり、楽しいイメージをしてしまうと、ほぼ確実にその事柄はイマイチな感じに終わったり、最悪の場合、嫌な
なんでもいいから書いてみたいなーと思って、ちょうど去年の今頃からスマートフォンに詩みたいなものを書き始めた。 行く当てもない空虚なへんてこりんたちを、noteという座布団に座らせてみよう。 ちょいと長いですが、なんせへんてこしかおらんもんで、 そうめん啜るように、さーーっとスクロールしながらお付き合いください。 1.2021年9月 書き始め 朝 0655を観て家を出る 母の知り合いの犬が散歩している 55番の置き場に自転車を止める 電車に
あたまの中には何色もの色鉛筆、クレヨン、絵具があって おもいおもいの色で染めていく 色は混ざり混ざって 新たな色を生み出し いくつもの極彩色の川を成す 川は縦横無尽に広がっていく この身の外に その川をだしてみる すると あか、あお、くろの三色ボールペンに塗り替わってしまう 三色ボールペンも素敵なのだけど あのときみた川の水を 掬いに行きたくなってしまうのはなぜだろう 願うなら一本の鉛筆でありたい