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「生きる」が一番強い(『仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド』感想)

※この記事には映画『仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド』のネタバレがあります。

20年を経ての価値観アップデート

 平成1期の仮面ライダーシリーズ中、異種族・異形(怪人や仮面ライダー)との共存というテーマは『仮面ライダーアギト』『同555』『同キバ』で描かれている。いずれも今回の『仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド』(以下「パラリゲ」と表記)と同様に井上敏樹脚本ではあるのだけれども。
 今作は555の20周年記念作であること以上に、20年経った価値観における共存というテーマのアップデート版として充分に機能していると思う。

 その代わり、20年前に物語世界内での一定の結論として示唆された内容を視聴者である我々が咀嚼して飲み込み、そのまま「抱いてきてしまった」価値観とはおそらく落とし所が違っていて、そこに違和感を持ったと言えばその通りだ。

異種族と距離を置きたい私たち

 社会情勢に根ざした一般論ではあるが、おそらく我々は地続きに生活をしている異種族や異形(もちろん、外国人や、層の違う生活圏の人々のメタファーだ)に対して、暗に自分と無関係であって欲しい、別の地域でのニュース的な出来事であって欲しいと思っていて、それは永らく日本という国家・国体が一つであり、国力が増していた30年前までの価値観の残滓・こびりつきが、集団の防衛本能という名の無意識に抱く差別感へとすり替わった果てのものだと想像することは難くない。

 人口減少の煽りを受け、あるいは30年の失政によって賃金上昇に失敗し、都市部ではインフラ維持やエッセンシャルワーカー、コンビニ店員等への、労働力としての外国人流入は避け得ず、故に彼らが日本人の生活の支えとなっていると知っても、差別感を完全には上書きすることはできていない。

 また、いくら日経株価平均が高値をつけていても、円安に代表されるようにいま現在での通貨価値が低いまま、海外に流出させたものを取り戻せていない深刻な産業空洞化の状況下では、いずれ誰がわざわざ賃金が低く特筆して学ぶべき技術もない安いアジアの小国へ行ってまで働くのかということになるだろう。その結果は推して知るべしである。

 海外諸国に比べて治安が良く安全安心なインフラが整っていようとも、これもまた国力の低下によって維持が難しくなっているので、老害だの何だのと言っても道徳的観念のある日本人たちの寿命が尽き、その上で過去から続く社会資本を食い潰されてしまえばそこで終わる話である。

 こういう中で、まごうことなき人間ではあるが、文化生態的に異質な人々をどう受け入れるか、今は受け入れができ、過去の遺産の上で快く過ごしてもらうことができても、もう日本というものの寿命が尽きてしまうのではないか、という不安がある。

 さて、国力の衰退とは裏腹に、社会は数十年をかけて、動物たる人間の野生にはない「人権」について、血も汗も涙も流し、無理解と無教育を唾棄せず根気よく、それこそ弱者であれ有為無為関係なくそれを振るえるようになるまでやってきた。そこまでには本当に多くの苦労の足跡がある。

 どちらの話も、劇中において人間とオルフェノクの共存に例えられる。

 『仮面ライダー555』(以下「原作」と表記)が制作・放映されたのは2003年で、まだ9.11.の爪痕が色濃く残る時代である。日本人は戦後教育によって人の命は地球よりも重いと口では言うようになったが、人の命に影響を及ぼしてまで信念を行使してよいものなのかということについては宗教観にはなく、現代的な日本人の生き方にもない。しかし世界に目を向ければ、教義によって命を奪い、また命を落とすことを厭わない人々がいるという事実がある。

 では、あれから20年後、どうなったのか。

 どうも、理想と人命の天秤に向き合うことを、あるいは天秤にかけてよいものなのかというそもそもの話を、正面から受け取り考えるには鈍くなってしまった、フィクションにおいても現実的選択、妥協を重視して棚上げするようになってしまったのではないか。

 …という感覚をぼくは持った。特撮ドラマでそんなことを考えなくてもよいのかもしれませんが……。

なし得ぬ共存と妥協の生活

 このパラリゲの劇中世界では、オルフェノクが迫害され、スマートブレイン社の仮面ライダーミューズを中心とした部隊によって退治されている。オルフェノクは仮面ライダーシリーズの文脈で言えば「怪人」であり、劇中で海堂が言ったように本能的に人間に対して暴力をもって危害を及ぼしてしまうものなのだから、暴力をもって排除されるのも致し方なしという状況だ。

 市民もスマートブレイン社への通報に協力的で、あわや交通事故というところをオルフェノクに庇ってもらった老女でさえしれっとスマホから通報してしまう。こういった市民の「手心の無さ」は555らしい描写だ。

 オルフェノクへの変身を抑えるには適度な集中が必要だという海堂の考えのもと、若いオルフェノク達がラーメン食堂の従業員をして日々研鑽しあっている。(客の役で高岩氏(当時のスーツアクター)がカメオ出演しているのが面白い。)

 原作での主要登場人物であるクリーニング店経営者の啓太郎は、世界を真っ白にするために旅に出ており、その甥が店を引き継いでいる。先述のラーメン食堂はその2号店が海堂によって勝手に業態転換されたものである。

 このクリーニング店からラーメン屋への転換は、付加価値産業からエッセンシャルワーカーへの転換を窺わせる。出前が現代的なウーバーイーツスタイルだったことも演出としてわかりやすい。もちろん、勘ぐり過ぎのこじつけと言われればそれまでだが、単純にクリーニング2号店のままになっていなかったことには理由があるはずなので、そう推測した。

 往年の妖怪人間ベムのように異形だからといって「闇に隠れて生きる」とはせず、それとは真逆の、素性を隠しながらも人類にとって欠かすことのできない「食」の産業に彼らオルフェノクは従事しているのである。例えば若い人なら、服をクリーニングに出すよりもラーメンを食す回数のほうが多いことだろう、そういうことだ。

 中盤で一人のオルフェノクの裏切りによりラーメン食堂は、仮面ライダーミューズによって襲撃されてしまう。

 20年経っているのだから、もう少し一般市民同士のオルフェノク友好派と差別派での確執を見てみたかったところだが、スマートブレイン社の日ごろの殲滅策がそれなりに奏功していると考えると、オルフェノクに対して友好的な人間はまだまだ珍しいということなのだろう。友好派と反対派などという知らん人々よりも、知った顔である原作登場人物の心情に寄り添うほうに時間を割くべきなのは当然だ。

 だが、こういった描写が無いまま、後述する真理のオルフェノク覚醒の件を境に、スパッと共存の話は無くなってしまう。

 かろうじて、ラストのクリーニング店の居間における会話でオルフェノクとしての今後の生き方に触れられるのだが、かなり拍子抜けのあっけらかんとした会話が交わされる。これから再び追われる者となるのが確定している状況なので、それくらい気楽であったほうが良いということなのだろう。社会は世知辛いが、肩を寄せ合い暮らす分には幸せもある。

 それは果たして妥協の生活なのかもしれないが、それこそ巧から「生命線が伸びてる!」なんて言葉が出て笑い合えるのだから、憑き物が取れたかのような日々が送れそうでもあり、ちょっとした希望を抱かせてくれる。

それは愛か、情か

 原作のヒーロー(巧)とヒロイン(真理)について、二人は恋愛関係というには微妙な居心地の悪さがあった。

 劇中の重要キーワードである「夢」について、どちらかというと巧には他人の生き方や信条を外敵から守ることには長けているが、それで守った相手の夢が叶うかというとまったく別だったのである。真理の夢を直接叶えたりサポートするヒーローではない。だからこそ、真理との距離感があった。

 今回、美容師になるという「夢」を、20年を経て為すことができないままでいる真理の姿がきちんと描かれていた。職もあってある程度の年齢(アラフォー)ともなれば、夢だなんだというのは萎えてしまうのが普通といえばそうかもしれない。

 真理と再会した際に、クリーニング店を続けるように告げて去る巧。あれだけ夢の守り人であったにもかかわらず、それは夢を諦めろということなのか。

 これは、延命措置を受けていてもそれにも限界が近づいているという自身の寿命への諦めとイコールなのだろう。そう、夢が20年のうちに呪いになってしまっている、原作での木場のセリフが脳裏を過ぎる。それならいっそのこと、呪縛から解かれて前に進もうとするのもまた、人としての生き方であるに違いない。

 おそらくこの橋のシーンが今回のエンドへの分岐・転換点で、結果、仮面ライダーミューズたる玲菜の策略によって、真理はオルフェノクとして目覚めてしまう。つまり、夢に関して、巧の言葉に依らずとも、止めを刺されてまった。

 それに、異種族との共存がテーマだと書いたが、真理を完全にオルフェノク側に押しやってしまったことで、共存をどうするかという話もスッパリと終わってしまった。

 原作は「人」「オルフェノク」そして「人として生きようとするオルフェノク」の三つ巴だった。しかし今回は物語の中心に「人」「人として生きようとするオルフェノク」の二つしか存在しない。

 ドラマのために、例えばオルフェノク因子を掘り下げて「オルフェノクになってしまうかもしれない人(=真理)」としてキャラを立たせるようなことがあれば展開は変わったかもしれないが、そういった煩雑なことは避けたのだと思われる。

 真理がオルフェノクへと覚醒してクリーニング店に戻った直後、イライラしているのかと訊かれて、むしろスッキリとした感覚を得ているあたり、叶うだの叶わないだのでモヤモヤしたものを背負い続けるよりは「こうなったら…もう、ね…」よろしく、死ねもしないし生きるしかないじゃん、というところかも知れない。

 さらっと描かれてはいるが、なにしろ覚醒手術に立ち会っていた医師らを砂に変えてしまっているのだから、後戻りはできないのだ。

 オルフェノクになってしまったことそのものには嘆いていないのだろう。真理が自殺を試みるショッキングなシーンは、夢が潰えたことと、良心の呵責との二つ故かと思われる。

 この転換点のおかげで、ラブシーンの描写がオルフェノク同士の絡みとなったわけだ。

 それにしても、20年の積み重ねが両人にあることからこれはヒーローとヒロインの間にある惚れた腫れたの愛じゃなくて、長年連れ添った故の情なのだな、という感触がある。草加の相変わらずの言い寄り方(ロボだからしょうがない)なんかに比べて、熟している。

 これはまた別の記事で書くのだけれども、これは同時期に公開されていた映画『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』と奇しくも似た話なのだな、と。似ているということは違うということなんですけれども。

 何かしらのテーマ・命運を背負った男女が、「相手という人間を前にして、ただの男であり、ただの女です」となる流れは、ガンダムSEED FREEDOMではかなり称賛できるものであったと思う。

 かたやこのパラリゲはなんというか、巧は寿命のうちに真理に対して何も成せなかったというタイムリミットが来て初めて、真理のほうは命に限りがある人間のうちに成せず、オルフェノク化で死ねなくなっても尚更何も成せないと予期して初めて、互いに、じゃあ自分たちという命は何なのかに至ったという。

 巧の「助けてくれ」というセリフは、哀しみがあって、ほんとみっともねぇんだよな。大人の、渋いみっともなさ。心を開かないとできないやつ。

 もう、できることがないんだもん。真理の前から消えて(逃げて)しまえればよかったものを、延命措置されて、きっと劇中時間よりも少し前に行われていたと思われる仮面ライダーミューズとペアを組んでのオルフェノク狩りも、人生の消化試合くらいだったんだろうよ。そういう流され方をしてしまうのは本当に「巧の仕業」としか言いようのない生き方だよ。

 真理が巧の言葉を受け容れるセリフや宥める仕草があったりしたら興醒めのところ、ここは観客とのディスコミュニケーションでよいのである。

 次のカットでは即刻怪人態での絡みとなっていて、そりゃ「子供じゃねぇんだからわかるだろ?PG12だぜ?」ってことなのだけれども。

 とはいえ、絡みっつったってほんとうに触手を絡ませることないだろ! あれはオルフェノクを増やすときに心臓を刺すためのやつだし…あ、あれで増えるのか…!? マジで、そういう仕組み!?

 海堂が巧に吐いた暴言「お前が真理と一発やっときゃこんなことにはならなかったんじゃねぇか」(←うろ覚えです)が、男と女の真理(しんり)だったという……。

 さて、真理がオルフェノクとなり、ヒーローとヒロインが身体を重ねたことで、憑き物が落ちたかのように場面は転換し、アクション・バトルシーンへともつれ込む。

最新のエフェクト、バトル演出

 パラリゲは、冒頭の仮面ライダーミューズのシーンでの「AI予測」ギミックといい、ネクストファイズのアクセルフォームといい、CGエフェクトによる最新の演出が白眉だ。こればっかりは劇場でご確認いただきたい。バトルシーンを見ると玩具が欲しくなってくるほどに、カッコいいカットが連続する。

 バトルで言うとボス格の北崎は生身(?)でも充分に強いのが見どころといえる。胡桃玲菜を抹殺した後からのアクションも身軽に見えて重厚感のある立ち回りが良い。北崎がドラゴンオルフェノクではない理由は終盤でわかるのだが、それでも原作を想起させながらの北崎の殺陣が良かった。

異質な玲菜(仮面ライダーミューズ)

 仮面ライダーミューズとしてオルフェノクの排除にあたっていた「胡桃玲菜」は随分異質だ。仮面ライダーへの変身を恥ずかしがる。そうなった経緯がわからないのだが、パンフレットにも「変身する際は、なぜか恥ずかしがる」とあるだけで詳細なことは掲載されていない。

 これは想像の域を出ないのだが、「人間から他の姿に変わる」という点において、仮面ライダーも彼女がターゲットとするオルフェノクも違いはない。純然たる人間がオルフェノクのように異形へと変身するのは恥ずかしいことなのだろう。

 映像での仮面ライダーは概ね「デザインが洗練されていて格好いいもの」「武装スーツ」という描かれ方をしているし我々もそのように受け取っているが、「響鬼」や「アマゾンズ」の例を考えれば、いくら任務のためと割り切っても、変身プロセスそのものが恥ずかしいという感覚になることは十分考えられる。

 その「恥ずかしがる」描かれ方が、劇中で変遷していき、最終的には玲菜が堂々と変身をするようになっている。これは言わずもがな精神的な成長だ。

 乾巧へ抱いていた憧れが、失恋つまり失望になり、真理へのほのかな嫉妬は憎しみへと変化した。

 恋敵である真理を陥れてオルフェノクとして覚醒させたのは、人間を傷つけることはできないが、オルフェノクなら咎められることなく抹殺できるからであろう。

 覚醒した真理の力によって砂と化した医師達を見て、その確信を得て変身が恥ずかしくなくなった、ということになる。天丼の如く繰り返された「脱ぐわけじゃあるまいし」が反転する。堂々とした変身は、恥を棄てて素っ裸で仁王立ちするのと同義である。こちらも「覚醒」したのだ。

 そこまで到達したというのに、オルフェノクとなってなお生きようとしている真理に、玲菜は感じるところがあったのだろう。「あ、この二人、やっちゃったんだ」という女の勘。

 これ、急に冷めたのだと思う。この程度の女と心の中で貶めていたのに、巧はこの程度の女と寝てしまった。ライバルに奪われたという悲しみじゃないんですよね。男の方が下がって見えたということ。そうやって心を護るという機制でもあろう。

 玲菜は戦意を失い、真理を逃がそうとして北崎の怒りを買い、無情にも抹殺されてしまう。

 パラリゲは映像の冒頭の解剖シーンから血が描写されているが、玲菜もまた血飛沫を上げて逝ってしまう。他の登場人物のほとんどがオルフェノクかアンドロイドという状況なので、対比的に人間としての完膚なきまでの暴力を受けての死として描かれたのだと思う。

 物語の上でも「役目は終わった」ところだったので順当ではあるが、チャーミングなキャラクターだったのでもっと活躍が見たかった。

わかってるじゃねぇかポイント

 本作はファンサービスもたくさんあったので、「わかってねーなー」みたいな愚痴は出なかった。真理をオルフェノクにしてしまったことに戸惑いはあったのだが、行き当たりばったりでそうなったのではなく、少なからずオルフェノクの記号を埋め込まれていたという原作からの要素が拾われたと考えられるからかも知れない。

 要所要所で原作の劇伴音楽が使われているのもとても良い。主題歌が流れるのがオートバジンからファイズエッジを引き抜いた瞬間というのも、確定勝利の演出としては正しい。これが原作ファイズに変身した時だと一度形勢が押されてしまうのでカッコ悪くなってしまうんですよね。

 ベルトもぽろぽろ外れたりはしない。必要な時に必要なだけ外れる。むしろ、ミューズのベルトを外したままステンデンバイ→コンプリートしてから装着する北崎にびっくり。そのタイミングでフォトンストリームの延伸間に合うの!?

小ネタなど

 今回のスマートレディはあれから20年経過しているので、何代目かなのだろう。少し肉感的で、スマートとセクシーの間の中途半端さがあった。

 不思議な立ち位置のキャラクターという点では原作同様だが、巧たちとの接点はパラリゲ劇中では描かれなかったので、暗躍をしているようでそうでもないというスマートレディぽさは薄いかも。

 あと、草加が相変わらずティッシュで手指を拭いていた。

 そうそう、クイナオルフェノクの武器がクナイなのはダジャレなのだろうか……。

ファンサービス映画として万感の20th

 というわけで、概ね書き尽くした。555原作で奏でられた青春群像劇は、20周年を迎えて蘇ったのではなく、黄昏流星群になった。

 不器用な少年少女は、そのまま不器用な大人になるのだ。そして、かつてのヒーローやヒロインも、不器用ながらも得てきた処世術や諦めや妥協や慰め合いといった人生の乗りこなし方をもって、生きていかなければならない。

 こうあるべきだ、あるいは、こんなはずじゃなかった。

 その「生きる」を巡るジレンマは、誰にとっても、人を、人生を物語たらしめるのだ。

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