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プロローグ

 私たちは、星を目印にして暗い夜を進んでいく。
 その日旅立ったのは子供らの中では年長で、先日15の祝いを迎えたばかりの少年だった。キャラバンの大人たちは、口をそろえて彼を軟派な男で旅をするには心もとないと言っていたが、銀工の腕と商才について言わせればここで彼の右に出るものはいないのだ。このキャラバンから旅立つものの多くは、銀工と情報を商売道具にして町から町を渡り歩く。旅に出る許しがもらえるのは一人前の腕を持つと認められ15の祝いを終えた子供だけだ。
 夜も明けぬうちから旅の見送りの為、みなが集まり彼の旅の無事を祈る。朝露の下りる音だけが落ち着きなく耳をなでる中、商売道具と家族とも言うべき黒い相棒を友連れに、迫る朝から逃げるように彼らの旅は始まる。
 この大きなキャラバンには青年くらいの年頃の者が極端に少なく、皆小さな子どもか大人、そして黒い影のような獣ばかりの集まりだった。人影は少ないものの暗さはなく、毎日が夜祭りのような雰囲気である。もともとは遊牧と狩りを生業とした民族で、決まった周期で地を巡っていた。黄昏が訪れて後、夜と生きることを選び夜明けから逃げるようにあてどなく旅を続けている。それがアストルム・アドと名乗る彼らの移動する町。ヌーエと呼称される魔獣使いが集い暮らすキャラバンであった。

                ◆

 たそがれが迫る中、魔獣も恐ろしいから人を雇おうかと話し合った矢先の事だ。たった1匹の魔獣が現れ、抵抗するすべのなかった私たちは村を守ろうと立ち上がった男衆から殺され、あっさりとたそがれにおちた。
 村の子供と私たちが残っていた馬車に乗せられ逃げたのは2日前のことだ。それからあてもなく走り続けているが一向に他の村に着かない。経験の少ない御者の少年と旅の知識もない母子や娘たちばかり、8人。いまやこの8人が私たちの村のすべてだ。手にした食料はまだあと一日分あるが、夜は恐ろしくて止まれず昼間に休み、黄昏から夜に移動を続けている。なんとか明日までには安全な場所を見つけて休まなければ皆限界が近かった。
 大きな岩山に差し掛かった時だ。外の景色を見て気を紛らわせていた幼い弟があっと声を上げた。山の中に赤い火がみえたと言う弟の言葉に、人里があるのかと皆身を乗り出して山裾を見たが何もない。それでも人がいるかもしれないと言う希望は私たちを明るくさせ、もう少し山裾に沿って走ってみる事になった。その時すでに日が傾きはじめていて、道が悪く暗い山裾が危険であることなど私たちの頭にはなかったのだ。
 あっという間だった。馬の様子がおかしいと、御者の少年が言ったのが聞こえた気がした。次の瞬間には馬車を引いていた馬が大きく嘶き暴れだして、私たちは地面に転がっていた。みんなあっけにとられ茫然とする中、子供の泣き声で我に返って弟を捜した。イソ姉さんが姪の手を引き、弟を抱えてこっちに走ってくるのが見えてほっとしたのもつかの間、御者が叫んだ。銀の獣が夕日を受けてひどく美しい色にきらめいたのだけが脳裏に焼き付いた。
 犬とも獅子とも言えない痩せぎすの大きな魔獣が7頭、こちらを見つめ時折齧り爪を立て遊んでいるのが分かる。弟をなんとか手元に手繰りよせて抱き込み魔獣の爪から庇いながら、私たちは互いの悲鳴で仲間が生きていることを知った。
 ふと気づくと魔獣の動きが止まっていた。顔を上げると二つ黒い影が増えている。一つは子供の、人影のように見えた。
 うずくまる子供に向かって走り出した魔獣が空から降ってきた黒い影に押さえつけられるのを、逃げようとするのも忘れてただ茫然と見つめていた。
気が付いた時には大きな銀の魔獣は子供のような人影にこうべをたれて去っていくところだった。我に返って抱きかかえていた弟をみて、それからこちらに向かってくる人型の影と目が合って、赤い魔獣の瞳と血を滴らせた口を見て、声も上げない弟を見て、私は叫んだ。
 絶望が音を立てて近づいてくる。重い体はもう、くらい昏い影がまとわりついて離れない。獣になりかける私をつなぎとめているのは、哀しいことに弟の存在でもなければ魔獣への怒りでもなかった。ただ、力強く穏やかに耳を打つ聞いたこともない音階が私を未だ引き留めている。

                  ◆

 少女は今しがた血抜きを終えたばかりの角鹿を、そばで控えていた岩影のようなオオヤマイヌの背にやっとの思いで引き上げて息をついた。12を数えたばかりの子供にはかなりの重労働だったが、それでもいい結果に終わった狩りに満足した様子で額に張り付く紅灰色の髪を払う。
「ルミノク重たい?この鹿おまえと同じくらいあるよ。ちょっと大きかったかな」
 背に結わいつけられた角鹿を煩わしそうに見て、ルミノクと呼ばれたオオヤマイヌは不服そうに鼻を鳴らして立ち上がって見せる。拗ねたような態度のルミノクに背を押されながら日の落ちかけた険しい山肌を下っている途中、山裾を駆ける馬車を見つけ足を止めた。
「いいな、旅の馬車だ…私狩りも上手にできるし銀細工だってこの前合格をもらったのにどうしてまだ旅に出たらいけないんだろう…許しが出るまであと何年あると思う?いやになっちゃうよ」
ぼやきながら踏み出そうとしてまた足を止める。ルミノクに押されてつんのめるがそれどころではない。このあたりにあの馬車が駆け込む町などあっただろうか。
 この山の近くに町と呼ばれる町は少女が身を寄せるキャラバン以外になく、キャラバンの者はこの時間帯に馬車を使わない。このあたりは道が険しく馬車に向かない上に、日が落ちる頃になると魔獣がうろつくようになるからだ。まだ日が落ちていないとはいえ賢い旅人なら山の近くを普通の馬車で疾走したりはしない。無茶な走行をしていた馬車が何かに車輪をとられて横倒しになるまで、少女は目を細めてその光景を眺めていた。
「あんな無茶するから…けが人がでたかもしれない」
 しぶるルミノクの飾り紐を引いて一気に滑り降りようとする少女の足を、黒くけぶる上空から笛のような音が引き留める。
 はじかれたように足を止め、目を凝らすと反対側の岩陰から銀色に閃く刃のような獣が躍り出るのが見えた。ルミノクも背を低くし、うなり声をあげ警戒を促している。銀の影が魔獣の群れであることは容易に想像がついた。
 ルミノクと上空からの音に従い体勢を低くして後ろに下がりながら、注意深く魔獣の動きを観察する。魔獣の群れは一際大きな獣を中心に隊列を組み駆けていて、よく統率が取れているのが分かる。賢く足も速い良い魔獣だ。幸いこちらには目もくれず一目散に未だ落車のショックで右往左往する小さい人影に向かっている。
 少女はルミノクに結わいつけていた角鹿をおろし、代わりに自分がまたがると胸元に下げた笛を軽く吹く。咎めるように短く鳴いたルミノクを宥めて、険しい山肌を風のように駆け下りた。
 複数の魔獣が人間を襲っているのに出くわした時、アストルムの民は人間を見捨てるように教えられる。人を救うことが許されるのは自分を救ってなお、ほんの少し余裕のあるものだけだからだ。この地は力ないものの思い上がりを見逃してくれるほど甘くはない事を彼らはよく知っていた。そしてこの年端もいかぬ少女もまたその教えを守るつもりでいたし、視界に馬車を襲う銀の魔獣をとらえた今でもそうするべきだと思っている。
 距離が近づくほどに泣き叫ぶ高い声が大きくなり、胸元の笛に渾身の力を込めて息を吹き込む。瞬間人を襲っていた魔獣が一斉に動きを止め、七対の紅水晶が燃える日を背に立つ影を見止めた。
 魔獣との距離を測りながら、あまりの状況の悪さに歯を食いしばる。魔獣は後方で痛みにうめく子供と血の匂いに興奮している。先に耐え切れなくなった一匹が泣き叫ぶ子供の元へ駆け出したのと、少女が空に向かって鋭く笛を吹き込むのはほとんど同時だった。
 一瞬、上空から飛来した影は子供の元に駆けだした一匹の魔獣と絡まり、転がるようにして暫くもがき、やがて銀の魔獣を押さえつけてゆっくりと体躯を震わせた。
 鋭い爪で押さえつけられた仲間を前にしてわずかに気配を乱すのみに留めた彼らを見て、背中に冷たい汗が伝う。完成された魔獣の群れを相手取るのは大人の魔獣使いでも難しい芸当だ。ましてやいまだ旅の許しも得ていない少女にはあまりに荷が勝ちすぎている。泣き叫ぶ子供の声と怯えすすり泣く音が煩わしくて仕方がない。
 大きく息をつき、強く群れの長を睨み据えながら銀の群れに向かい高く、低く、強く弱く語り掛ける。
 笛の音と歌のような風鳴りのような音が混ざり、いつしか二つの群れがじっとその音に耳を傾けてはじめていた。そうしてやっと音がやんだ頃、いつの間に居なくなっていたのか銀の群れの一匹を押さえつけていたはずの黒い影が、大きな角鹿を抱えて降り立った。
 銀の群れを刺激しないようゆっくりと角鹿に近寄り、腰に下げていた小刀で腹を裂き腑を取り出して群れの前に広げる。干満に思えるほど慎重な動作で心の臓を掲げ、群れの長の元まで歩みを進める。じっと少女を見つめる銀の魔獣に視線を合わせて血の滴る心臓を一かけ食いちぎり、残りを魔獣に差し出す。推し量るように心臓と少女を交互に見ていた魔獣はやがて差し出された心の臓を咥えて仲間の元へ戻った。
 魔獣の群れは広げられた腑をもって走り出てきた岩山へ帰っていく。最後に群れの長は少女の足に頭を一度擦り付けて洞窟で金の反響するような音で鳴いて去っていった。
 あたりはひどい有様だった。年かさに見えるものはほとんどが子をかばって力尽きている。幼い子供も傷がひどく、無傷のものは一人もいない。
焦点の合わない目で茫然と腕の中とこちらを見比べている娘を見つけ、足に乗っている馬車の残骸から助けようと駆けよった時、不意に娘と目が合った気がした。どうやら娘は駆け寄ってくる少女を魔獣と思い込み、半狂乱になって腕の中の幼子をかき抱きながら叫ぶ。その瞳に染み出すように黄昏が宿るのと同時、娘の下半身を押さえつけていた馬車の残骸、その暗がりにたそがれはいた。
 娘の叫ぶ声にザラザラとした音が混じり始めたのを聞いてやっと、少女はこちらを睨んで叫んでいる娘の方に足を踏み出した。いよいよ激しくなる叫び声とたそがれを孕み血走った眼をみてふと、自分のあり様を思い出して慌てて手と口元をぬぐう。努めて攻撃の意思がない事を示しながらゆっくり、できるだけ低い声を意識して語り掛けながら近づいていく。さっきから幼子をかばおうとするあまり、強く抱きすぎて今にも押しつぶしそうになっているのに気づいていない。このままでは痙攣するように動く小さな手から力が失われるのは時間の問題だった。
「おちついて、わたしはフローレ。人間だよ。君たちを助けに来た。もうこわい魔獣はいない。その子は生きてる。大丈夫だ。生きてるよ。」
何度も何度も手の中の子供が生きている事を繰り返し説く。
「今からわたしたちの町に連れて行けば助かる。その子を助けさせて。いい子だから…大丈夫。…みんな助かるよ」
 娘の手が緩んだのを見計らい宥めながら幼子を引きずり出して、なんとか他の子どもと同じようにルミノクの背に括り付ける。意識がないおかげで暴れられて落とす心配がないのが救いだが日が落ちてしまえばどちらにしても凍えてしまう。野営用に持っていた毛皮を子供たちの上にかけて縛り、ルミノクに急ぎキャラバンに戻るように伝えて送り出す。フローレを気遣ってか何度もとまって振り返っていたが、フローレの傍に控えて身繕いをしていた影のような大鷲に追い払われるようにして駆けて行った。
 ルミノクの影が見えなくなったのを確認してから再びゆっくりと未だ馬車の下敷になっている娘のほうに足を向ける。
 娘は悲嘆とたそがれにざらついた声で、縋るように問いかけた。
「あの子は助かるの?お願いよ…あの子だけは助けて。約束して。あの子を…私の代わりにあの子を…」
 一回りも年の離れたように見えるフローレに必死に縋り嗚咽を漏らす娘の前に膝を折り、じっとたそがれの混じった瞳を見つめて答える。
「もちろん私はあの子供を助けたい。村のみんなも力を尽くすと約束する」
「…あなたはたそがれに呑まれかけている。私たちの中の誰も、人間の魔獣を鎮められないから…あなたを町には連れて行けない」
それなりの決意と覚悟を持って口にしたはずの言葉はフローレが意図したよりずっと弱々しい音になって零れ落ちていた。
「わたし、魔獣になりたくない。みんなを殺した化け物と、同じものになる前に…おねがいよ。見知らぬ町のひと。いいえ、フローレ」
顔を上げていることももうできないのか、地面に耳を付けて眠るように目を閉じている姿はこの娘が今にも魔獣になろうとしているようには思われなかった。フローレはその諦めたようなざらついた声に殴られたような衝撃を覚え、一度唇をかみしめるといつのまにか強く握っていた手を開き娘の手をとった。自分の後ろめたさをこの人に背負わせることだけは、してはいけないような気がした。
「私は魔獣使い。魔獣を調律して共に生きている。でも人間の魔獣は調律することが出来ない。だからあなたを殺す。人間の私が、人間のあなたを殺す。」
「あの子の事は私たちの町で必ず面倒を見ると約束する。…あなた名前は?」
一拍遅れて娘が口を開く。
「わ…たし……あタシハ…ワタシノナマエ…弟ハ…おとうとの名はファーマ。私の名は…そう私はアーラ!アーラよ…翼という意味だって母さんが…いって、いた。しにたくない…わたし死ニ…タクナ…イの」
双眸から流れる涙だけが未だ彼女を人たらしめていた。その体はほとんどがタソガレに呑まれ、意思に反して手足が蠢いているのが分かる。
「アーラ。誇り高いアーラ。私は決してあなたを忘れず、最期の望みを必ず遂げよう。今、しるべの星とあなたに誓う。我らの星があなたのしるべとなるように」
アーラの頭を抱くようにして短刀を頸椎に差し込む。すぐにアーラから力が失われ、タソガレに呑まれていた首から下は紅水晶になって崩れて落ちた。
フローレはアーラの頭を抱いたままじっと日が落ちるのを見守っていた。
 やるべき事を成し、後悔はない。ただやりきれなかった。人間の魔獣は調律することが出来ない。これはもはや魔獣使いにとっては常識で、そうなる前に終わらせるのが魔獣と共に生きるものの努めでもある。今はもう眠るように動かないアーラと共に大鷲の羽の下で迎えを待った。