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互いの異を認める

私は時々、場に馴染めないことがある。なぜか上手くコミュニケーションがとれないのだ。
かつては、そんなことがあれば自分がおかしいのだと自分を否定していた。悪い時は、そんな遺伝子を与えた親のせいにしていた。

しかし、ある考えとの出会いが考えを変えた。

それは、人が他人と異なっているなんてあたり前ということ。

わたしもあなたも{間違い}じゃない

自分が他人との分かり合えないとき、自分や相手を間違っていると決めつけてしまうことがある。それは単なる会話であったり、会議でのディスカッションであったり、状況はいろいろ挙げられる。しかし、その考えは何も生まない。考え方を変える必要がある。

気付くべきは、間違いではなく、違うということ。

一文字の差だが、その意味合いは大きく変わる。違うということに気付けば、うまくかみ合わない会話を自分や他人のせいにしなくてもよくなり、コミュニケーションの負担も軽くなるだろう(必ずしもそうではない、ということは後ほど書く)。
この考えは、ほめる達人という生き方セミナーを受けたときに聞いた話だ。

大事なのは「自分と相手は絶望的に違う」という考え。その反対の考えが「自分と他人は同じで、そうでない人は間違い」。

自分が人と違うことを認め、同時に相手も自分と違う認めるべきなのだ。

違いの認識でレベルアップ

違いを認めれば、「私は周りと合わない。私は間違っている」と自分を否定して、周りと同じになろうとする必要はなくなる。私のままでいよう!とするのも一つの手だが、私を否定し、周りと一緒になるのではなく、私+αになれば自分をより良くできると思うのだ。自分は他人と違うけれども、周りと同じものごとを共有したいという思いは誰にもあると思う。その時に、今までの自分を無視し、周りと融合しようとするのではなく、今までの自分にプラスさせられれば最強だ。わかりやすいように、以下の図を見てほしい。


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私+αという存在は、今までの自分に周りの良さを吸収し、レベルアップした存在だと思う。

「違う」より「異なる」

違いを認めるという話を先にしたが、「違う」という言葉はネガティブに感じることがある。より、良い言葉に言い換えるなら「異なる」だと思う。
理由は二つ。一つ目は、「違う」の持つマイナスイメージを払拭するからだ。もちろん、「異」という漢字も異質や異変といったマイナスに感じられるワードに結び付けることは可能だが、「違う」がそのまま「間違う」というマイナスに感じられるワードに結び付きやすい一方で、「異なる」はそのままマイナスに感じられるワードに結び付きづらいのだ。
そして、二つ目は、「異」という漢字がファッションデザイナーの山本寛斎さんの話に関わっているからだ。ある新聞記事に、以下のような記述があった。

日本人はすばらしい資質を持っているのに、「奇」と「異」を嫌い、グループの中で安心するのが問題

自分の持つ素質に目を背き、集団と同一化することを問題視する言葉だ。この考えはまさに、先ほど述べた、私+αだ。
山本寛斎さんの「奇」と「異」は、言い換えれば個性だと思う。自分と周りとの違いは個性と考えればポジティブに捉えられる。

みんなちがって、みんないい?

先ほど、異なっている部分は個性だと述べたが、必ずしもそうではない。もちろん、公序良俗に反していないかどうかなどは照らし合わせる必要がある。あたり前だが、ここで言いたいのは、違いに気付いた時に頭ごなしに自分を否定するのは止めようということだ。違いを認識した際、客観的にその正当性などを問うた上で認めてあげるべきだと思うのだ。はじめのほうで書いた、うまくかみ合わない会話という例も、自分のコミュニケーションの方法を客観的に見たときに、伝わりずらい話し方などをしていれば、改善する必要はある。が、かみ合わない時点で、自分はコミュ症だと決めつけるのは良くない。
もう一つ、ここで言いたいのは、相手も違いに苦しんでいるかもしれないということだ。詩人の金子みすゞさんの詩『私と小鳥と鈴と』には、「みんなちがって、みんないい」という有名な言葉がある。この言葉も違いを認める考えに沿うと思うが、必ずしもそうではない。大学でLGBTQ+に関する授業を受けた際、「みんなちがって、みんないい」は、見方を変えれば、性の多様性を正しく理解しない考え方と捉えられるという内容をきいた。確かに、『私と小鳥と鈴と』にそのような意味はなく、むしろ生き物以外さえも包み込む温かい詩であるが、性の問題から考えてみれば、みんないいという部分に引っかかるのだ。それぞれの人で抱える苦しみや痛みの形は異なっており、それを知ろうとせずに「共感」するのは良くないのだという。この例は極端かもしれないが、相手の持つ違いに寄り添うことも必要なのかもしれない。

最後に

日本人は個人より集団だとよく言われる。その真偽はともかく、私たちは、集団に属そう、のけ者にならないようにしようと意識してしまう。しかし、その意識一択に縛られると、「私」という存在がなくなってしまうかもしれない。そうならないためにも、私と集団の差を認めつつ自分を突き通すことも必要だと思う。


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