日本人の考え方に合った組織開発を

1. 将来、ロボット化が進めば、僕たちの心はどうなってしまうのだろう。果たしてデカルトの言う我思う故に我ありと言いきれるのだろうか…。

学生時代にアニメ映画「攻殻機動隊」を鑑賞しながらそう思ったことを昨日、養老孟司の著書「唯脳論」を読みながら思い出した。

彼曰く脳と意識を含む心とは別々ではなく同じもので1つのものを違った角度で捉えたに過ぎない。脳は視覚的に外から見た構造、心は聴覚的・運動系的に見た機能だと。

そういう意味で両者は対応関係にあるが前後関係はないので因果関係はない。

それをみんな意識というものを特別視するあまり、因果関係の罠にはまり、まず心ありきの宗教が出てきたり、もの物ありきの社会主義に象徴される唯物論が出てくるのだというのが養老氏の主張。

2. この考えは仏教的・もっといえば日本的だと思う。そしてそれに共感する自分はやはり仏教徒であり日本人なんだと思う。

ドラマチックな展開の後に来る虚無。三島由紀夫の「豊穣の海」四部作や「ソナチネ」や「HANABI」といった初期の北野映画、松田優作主演の映画「野獣死すべし」に感じ入ってしまうのもやむをえないと。

1神教の場合、まず絶対者の存在が前提になるからその体現である人間の精神やアートは絶対で、そこに重きが置かれる。結果、「心」が先に来て「物」があとにくる因果関係が発動し、唯心論になる。

他方でそういった伝統に対するアンチテーゼとしてマルクスが経済といった「物」が先にあって政治や文化といった「心」が後に来るといった唯物論を唱え、社会主義を提唱するようになる(マルクスの親父がユダヤ教のラビ(宣教師や牧師みたいなもの)という事情もあったのかもしれない)。しかし、その試みは東西冷戦の崩壊とともに失敗してしまう。

このように1神教の場合、人間精神の絶対性が前提となって脳と心との関係が因果関係になってしまいがちだと思う。

しかし、仏教の場合、因果関係という概念はあるものの、そういった意味とかこだわりや執着から解放されて無にいたることが悟りとされるので人間精神やアートといった心に関わる部分に重きが置かれない。

結果、 脳や心が等価的に置かれることに違和感がないので人間精神が絶対的にならず、1神教的な意味での因果関係の罠にとらわれることもない。

3. この価値観は企業経営をする際にも参考になるのかもしれない。

チャンドラー「組織構造は戦略に従う」といい、アンゾフ「戦略は組織(組織風土という意味)に従う」という。

この2つの命題を合わせると組織構造は組織風土に従うということになるが、これはどこか上記の脳という構造は心という機能に従うという構図と似ており、因果関係の文脈になっている。

でも日本人を使う経営でこの文脈は当てはまるのだろうか。

経営とは利害関係者を介して問題解決を図ることをいう。その利害関係者の1つが従業員であり、日本企業の従業員の多くは日本人だ。

であるなら日本人の考え方に合った経営や管理ができればいい。

日本人は上記のように物事を相対的に考え、「無」以外は絶対精神を嫌う傾向がある。

なので一方的な押しつけは嫌うが、自分たちに利益になると思えば自分の思いや考えにとらわれず、いろんなものを試してみる傾向もある。

前にティール型組織のスタイルを適用してもそれに見合った実態がないと機能不全を来すだけでないかと述べたが、だからといってそのスタイルを放棄すべきでなく、それに見合った実態を作っていくか、多少違っても採用して、機能不全にならないような工夫をしていけば良いのだと思う。

こういった絶対的な意味にとらわれない柔軟さが日本人の強みだと思う。

4.自社も今後も組織作りを強化していくつもりだが、あまり組織風土にとらわれすぎる事なく制度設計をしていきたいと思う。

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