居場所の、居場所性について
「自分が居てもいいんだ」と思える場所を見つけるのは、意外と難しい。
僕は、長らく居場所というものがあった時期が少なかったように思う。「自分が居てもいいんだ」という居場所がないのは、身の置きどころがないこと、帰る場所がないことになる。
「場」に居場所性を求められない人は、往々にして他者との関係性や、儀礼的行為にその代替を求めるように思う。特定の友達や恋人に依存する人、酒や煙草や賭博に依存する人。また昔の僕にとって「勉強をすること」「良い成績を取って褒められること」はもはや儀礼的な行為による仮初の居場所だったと振り返って思う。
最近とある場所によく通っていて、そこが僕にとってかなり「居場所性」を持っているので最近の僕が精神的に比較的落ち着いているのはその影響もかなり大きいと思っている。
「居場所性」ってなんなのか、それを少し考えてみよう。
以前「精神医療の最前線―コロナ時代の心のゆくえ」(現代思想, 2021 vol. 49-2)という雑誌を読んだ。雑誌のテーマ通り精神医療における居場所性を踏まえたものではあるが、村上靖彦「居場所とリズムのゆるみ」という論考があったので少し内容を紹介しよう。
居場所の定義(もしくはその特徴的性質)について。
いつ来てもいいし、いつ去ってもいいし、なにかをしていてもいいし、何もしなくてもいい、誰かと関わっていてもいいし、一人でいてもいい、でもいつでも誰かがなんとなく気にかけてくれていて、かつ放っておいてくれる、そんな場所は確かに居場所たりえそうだ。
一部の人にとっては、この居場所性は家庭の例えばリビングのような部屋が居場所になりえるかもしれない。また一部の人にとっては放課後にいつものメンツが集まってだらだらする部室が居場所かもしれない。
ただ、実家を離れて生活している一人暮らしの若い社会人がこういう居場所を見つけるのはかなり難しいんじゃないだろうか。恋人と同棲したって「いつ来てもいいし、いつ去ってもいいし、何をしていても、何もしなくてもいい」を実現するのはなかなか難しいだろう。一つは関係性が深すぎるからだと思う。
ここ数年で「シェアハウス」をする友人が増えてきたのも、経済的な理由や社会的風潮の他に、そういう意味合いが多少入っている気がする。
もう一つ、「居場所」の重要な特徴が紹介されている。
「無為」と「遊び(=無目的)」が居場所を特徴づけるということ。僕の解釈だが、居場所はいつ行ってもいつも同じような場所でなければならないし、なにもしなくても安心できる(=焦燥や不安が発生しない)場所でないといけない。
だから場の現状変更を敢えて志向する行為や現実世界で建設的な目的を持つような行為はむしろ望まれない。
ある意味で現代の社会生活の価値観から切り離されている必要がありそうだ。
東京は、いい都市だと思う。
もともと東京に住んでいる人もたくさん居るが、全国から多様な人が集まっている。集まりすぎて個々人がもはや匿名化されている。
多くの地縁や血縁から離れた人間にとって、その匿名性は居場所を見つけるにあたってプラスに働くと思っている。
名前も知らない、来歴も知らない、お互いそういう関係の人間たちが特定の場所に出入りしてコミュニケーションをする、そういう薄暗い場が東京には星の数ほどある。インターネット空間であることを除けば一部のSNSもその類に含まれると思う。
お互いになにも知らない状態なので、必然的に関係性はフラットに近づく。誰が権力を持っているとか、誰それの肩書はこうだから偉いとかそういうことはない。前述の原則を守る限り、誰がなにを喋ってもいいし、それは許容される。
これは、日々階層的な社会に生きている僕たちにとって、一種の祝祭空間じゃないだろうか。やはり居場所とは日常とは本質的に異なる社会なのかもしれない。
ただ、かわりばえのしない若者にとって、上記のような理想的な居場所はやはり無理だろう。どこかでなにかこちらからもgiveしないとtakeはできない。
でも、それが「居場所のようなもの」だったとしても、多くの人間にはそれが必要だと思う。
現状変更の行為は望まれなかったとしても、場は移り変わる。昨日まで居場所だったところが今日はそうでなくなっているかもしれない。
でも、東京は、居場所からあぶれた人間をまた拾う居場所も含んでいる。
僕は、地方から来た根無し草だからこそ、この匿名の大都市が好きなんだと思う。
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