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流行歌の一つの始まり/短歌のこと

 1976(昭和51)年10月『グラフィケーション』10月号、富士ゼロックス株式会社
「流行歌の一つの始まり」作田啓一


  頰につたふ涙のごはず
  一握の砂を示しし
  人を忘れず

 石川啄木の歌集『一握の砂』に収められているこの歌は、朗詠の形をとって明治四十三年に流行した。同じ年、ガードンという外国人の曲で「真白き富士の嶺(ね)」が若い世代のあいだで広く歌われた。その二番の前半と三番の後半の二行は次の通りである。

  ボートは沈みぬ 
   千尋の海原
    風も波も小さき腕に
   ………………
  み霊よ何処に 
   迷いておわすか
    帰れ早く母の胸に

 これは中学生十二人が江の島沖の海で遭難し、それを近くの女学校の女教師がつづって女学生たちが歌い出したものである。見田宗介氏は、この二つの歌が慕情(距離のある愛)をテーマとした流行歌の始まりである、と述べている(『近代日本の心情の歴史』講談社ミリオンブックス)。
 啄木のこの歌は、一見したところ砂を示した一女性を慕情と共に回想したものと受け取れる。そこで、この女性は誰であったかの考証が行われてきた。現在のところ彼女の同定について定説がないので、いろいろ想像することができる。石田六郎氏によると、啄木は特定の女性を回想してこの歌を作ったわけではないが、彼が八歳の時に一年上級にいたサタという十一歳の少女がジフテリアで死んだことが、啄木に強いショックを与え、この幼児期の愛の挫折が歌集『一握の砂』を貫く一つのモチーフとなっている、ということである(『啄木短歌の精神分析 ─ 肉筆歌稿「暇ナ時」の分析 ─』中央公論事業出版)。私の啄木についての知識は浅いので、サタが啄木の心の中で占めていた重さをどの程度に秤量してよいかを判断することはできない。しかしこの歌は死にかかわる感情を読者に多少とももたらすことは確かである。歌の全体がそのような喚起作用をもっているが、中でも「砂」という言葉が死の象徴であるように受け取れる。
 「暇ナ時」は明治四十一年六月十四日から十月十日までの作歌六百五十一首をほぼ制作順に収めている。そのうちの二百六十首余は六月二十四日の夜から六月二十六日の午前二時までの二日間に一気に作られた。「頰につたふ涙のごはず」は二十三日の作であるが、このノートには砂または砂山を歌ったものが多く、そのほとんどは死、死者あるいは墓の象徴として用いられている。「いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあいだより落つ」は中でも有名であり、「初めよりいのちなかりしものの如ある砂山を見ては怖るる」といった難解な歌もある。
 砂を死と結びつける解釈に立つと、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」を単純に読むことはできない。この歌をその直前の難解な歌「我が母の腹に入るとき我嘗て争ひし子を今日ぞ見出でぬ」の昇華された形と見る石田氏の説は説得力がある。ここではこの二首の分析に深く立ち入ることはできないが、二首を結びつけて読む読者はこれらの中に、母、母から生まれた子供たち、争い、死という四つの観念の象徴を見いだすことは容易である。そして「泣きぬれて」いる小児の涙は、母との一体化の状態への郷愁を表わしているかのように思われる。海は母の、砂は喪失の象徴であるがゆえに。蟹=子ら、たわむれ=争いが何を意味しているのかは明らかではないが、これらの言葉の中に、生きていることは罪であるという罪悪感の匂いが漂っているようでもある。
 「頰につたふ涙」を「東海の小島」などに結びつけて読むと、そこには「真白き富士の嶺」と共有する要素が、思いのほか多分に含まれていることがわかる。無辜の少年たちが、それにもかかわらず何らかの罪によって、あるいはその無辜性のゆえに祝福されて、母である海に回帰してゆくという意味が、一種の郷愁の感情をこめて、人々に歌われていたのである。慕情は距離のある愛であるが、その愛の対象は、見田氏も指摘しているように、特定の具体的な他者である必要はない。その対象は失われた調和の状態でもありうる。故郷で過ごした幼少年時代のように。そしてまた母との一体化の状態のように。ともあれ慕情のテーマが、最初は特定の他者への慕情としてはとらえにくい形で、日本の流行歌に登場してきたことは興味深い。
 これらの歌が流行した明治四十三年は、幸徳秋水らが逮捕された年であり、韓国併合が行われ、啄木が「時代閉塞の現状」を書いた年でもあった。(評論家)

作田氏が文学青年であったことは、後の著作を通して推し量られもするし、またよく知られているところでもある。十代だった頃の読書ノートとともに、たくさんの短歌を作り推敲したあとが記されたノートも残っている。西條八十が主宰発行する月刊誌『蠟人形』に自作を投稿しており、幾度か選に上ってもいる。昭和15年10月号の特選歌集に連ねられた作(18歳時)を、選評とともにここに掲げておこう。(粧)

 砂塵舞ふ停留場の黒き柵にすがる野薔薇も花咲きにけり
      京都 作田啓一

選後に 茅野雅子
「砂塵まふ」の作は、作田さんのです。単純な写生でありますが、また一面に人生の深い姿を暗示した歌とも感じられ、しみじみと心にふれるものがあるといへませう。

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