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何ゆえに裁きうるか②

1971(昭和46)年 6月『展望』筑摩書房(『To Be, or Not To Be: 木下順二対談集』筑摩書房、1972 に収録)
対談 何ゆえに裁きうるか
 木下順二(劇作家)
 作田啓一(京都大学教授・社会学)

はじめに
原点としての東京裁判
裁判における客観的価値
〔以上、略〕

裁きの根拠は何か
〔前回「何ゆえに裁きうるか①」〕

無関心という悪
 木下 つまりそういうギャップがあるということは、いずれにしても裁判というものが何らかの矛盾を含んでいるということで、その矛盾を照らし出すというのは、一面では、人間と人間の関係でつくっている社会の本質はどうあるべきか、という原理的なことから照らし出すということもあるんだけれども、一方で、原罪の問題ですね。その秩序よりもっと深いところというか、その先というか、そういう原罪意識の問題からということが、一方ではあるんですね。
 原罪意識の問題と、それから構成されている社会秩序という問題とは、ほんとうにつながるべきなんだろうけれども、いまのところはまだつながらないで、一方で原罪の問題から攻めていくというか、考えていくという側面がある。一方では秩序、下部構造の社会という問題から攻めていくという、両方からつき合わせていかないと、裁くという問題が明らかになってこないように思うんですよ。
 たとえば国際裁判を例にとっても、「勝てば官軍」ということはどうしてもつきまとってくると思う。それを打ち破るものは、個人の原罪意識をどこまで貫徹できるか、ということにつながってくるんじゃないか。
 作田 これはとくに戦争犯罪だけの問題じゃなくて、ふつうの犯罪とか、犯罪に至らないまでもいろいろな良くない行為が、どうして出てくるかという問題を含めて考えますと、けっきょく人間の中の悪というものをどうとらえるかということになると思うんです。悪とは人間の存在を--行為ではなく--否定することではなかろうか。一つ一つの他者の行為を否定するということはしばしばある。たとえば簡単な例をあげれば、一人の人がある発言をして、それに自分が違った意見を持っている場合に、その発言を否定する。相手の行為を否定するわけですね。それは何も別に悪ではない。しかし、そういう否定が、どこかで悪に転換するところがある。それはなぜ、どこで変わるのかということですね。
 悪のいちばん露骨な形態である殺人というケースをとってみて、殺人がなぜ悪であるか、どういうふうに答えたらいいか。それはふつうの市民社会の論理では、とにかく基本的人権の中には、自己の生命の保存ということが当然あって、それを否定することは悪だ。こういうことになるわけですけれども、そこでは同時に、戦争で人を殺すのは正当化されているわけですね。ところが戦闘中の殺人も、それはわれわれのふつうの心の動きに従えば、やはり悪であると考えざるをえない。ところが、それが悪であることを、ふつうの市民社会の刑法はうまく説明できないわけです。
 そういう殺人一般に関してつきまとう悪が、どういうところから出てくるかというと、やはりそれは人間の存在に対する極端な無関心であろうと思うわけです。そういうふうに無関心が人間の悪だと考えると、われわれは別に悪をおかすつもりでなくても、実にさまざまなところで悪をおかしている。たとえば集団で話をしているときに、そこから取り残されてポツンとしている人が一人いる。そうすると、そういう人に対して、みんな無関心になる。しかし、その人間にとっては、自分の存在が抹殺されたような、非常にいやな思いがするわけですね。そういう種類の悪というのは、この社会の中の至るところにあります。
 そういう他者の存在に対する無関心というものが悪の本質ではないかと考えると、戦争は、人間の存在に対する無視の一つの象徴であると考えられます。ところが、人間が他の人間に無関心になりうる条件ないし原因はほとんど無限にある。それは人間が生きていく限り避けられない悪であるともいえますね。生きるということは注意を集中することであり、一つに注意を集中すれば他に無関心にならざるをえない。
 人間は、その社会生活を送るために、必ず他の存在に対して無関心になる。それが人間の原罪というものではなかろうか。そんなふうに思われます。
 そこから人間が脱却するという場合にどうしても必要なのは、たとえば『展望』五月号になだいなださんが書いておられたこと(「残酷と想像力」)とつながると思いますけれども、やはり他の存在と同一化することができるような想像力、そういう人間の能力をフルに動員することなんじゃないかと思います。
 木下 その人がそこにいるということは、社会を構成している一員としているということよりも、人間としてその人がいるという実存の問題ですね。
 作田 ええ。そして、ぐあいが悪いことに、現在の社会はますます、そういう他者の人間としての存在を無視するような道具……これは機械とか、そういうものだけでなくて、人間がつくった組織もそうでしょう、そうしたものをかかえ込んできている。とくに官僚と呼ばれる限られた巨大組織ができると、その中では人間は人間全体としてじゃなくなって、一つの役割を演ずるだけですね。組織の中でもそうですし、それから、組織は、外部に対する関係においても、人間を特定の人間としてではなく、たとえばクライアント(犯罪人)一般としてしか取り扱わない。存在として認めない、ケースとして認めるというふうに、どうしてもなっていく。組織は内外に対して人間存在というものを無視するような仕方で、能率を達成するようになってきている。それからまた、テクノロジーが発達すると、直接手を下さないで大量に人を殺す武器がどんどん生産される。そうすると、けっきょく人間が人間に無関心になるような構造を、社会はますます取りつつある。

個人責任と主観責任
プロフェショナリズムの是非
裁くための理念を
回心のモーメントとしての芸術
〔以上、略〕

無関心と忘却への速(ママ)効薬
 作田 さきほどからふれてきた原罪としての無関心ということですが、無関心ということは、いわば横のつながりとして考えてみたわけですけれど、縦の、時間の軸を考えるとそれは忘却だと思うんです。どちらも人間の実生活にとって必要なふるい分けなのでしょう。やはり忘却とか無関心がなければ実生活はできないと思うんですよ。何もかも記憶し、それから、世界のあらゆる人間の苦悩に共感を持つ、これはとても事実上できない。そういうことをしていれば、生活が成り立たないと思うんですよ。
 ですから、そういうふうな人間の生活というものを認めた上で、そこから何をなしうるか。先ほどから繰り返し出てくるテーマですけれども、一切の実生活からくる邪魔ものですね、それをふるいのける作業をときどきやってみる。そうすることによって、縦と横との両方の線で、実生活の枠をこえたものにときどき触れていく。おそらく、それ以外に無関心と忘却に対する、これといった速(ママ)効薬はないのではないか。そういう気がするのですが。
 木下 つまり観念として、想像力という問題、責任という問題を意識していく人間の数がふえることが、ずっと先で具体的に、何かそれをもとにもっと実体的なものにしていく力になりはしないか、というはかない望みを持つわけですね。
 作田 それはやはり広い意味でのソーシャリゼーションというか、教育ということになるのでしょうか。
 木下 そういうこともあるし、それから人類全体がどういうふうにつながり得るかという問題にもなるでしょうね。その点ぼくは体制というのは必ずしもすべて一致しなくてもいいと思うんです。資本主義は資本主義の歴史を持っているわけですし、社会主義の歴史もあるわけで。それも、ずっと先のことをいえば、世界連邦的になるかどうか知らんけれども、もっと人間の意識の問題として、そういう体制の枠をこえたところでユニヴァーサルなものをつくり出し得るということが望まれないであろうかと思うんですけどね。
          〔了〕


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