見出し画像

指標とは何か①

(眼鏡を外した作田氏の写真はめずらしいので掲載しようと記事の抜粋を入力し始めたところ、おもしろい議論がつづくのでカットしづらく長くなりました。2回に分けて投稿します。)

1971(昭和46)年12月15日『学際』第12号、センチュリリサーチセンタ株式会社(『学際』No.1、2001年 5月15日、株式会社構造計画研究所、に再録)
座談会 「指標」とは何か ~その周辺と背景を語る~
 湯川秀樹(京都大学名誉教授 物理学)
 作田啓一(京都大学教授 文化社会学)
 武井満男(日本エネルギー経済 原子力経済)


〔前略〕

「尺度」と「目標」の間

作田 いろんな学問の分野で、いつも、どうしても乗り越えがたい、ひとつの閾(シキイ)みたいなのが、いろいろのところで出てくると思います。たとえば、サイコロジカルな意味でのアジャストメントというような概念をとってみましても、たとえば、ノイローゼというのは、普通はマラジャストメント(不適応)と考えられておりますね。しかし、その本人にとっては、ノイローゼにかかることによって、よりつらい状況にわりと楽に直面できるわけですから、本人にとってはアジャストしているわけです。しかし、もっと総合的な意味で健康という概念を設定すれば、やはりマラジャストメントであるという具合になる。
 最近のGNPとGNWないしGNSとの間にも、ちょっとそれに似た関係があると思う。つまり、物質的な生産の高さをあらわす尺度ではかれば、ますます富み栄えてゆくことになるが、しかしそれは、“人間が幸福に生きる”という観点から見れば、むしろ人間にとってマラジャストメントである。そういうズレがでてきている。
 尺度間のズレというのが、ひとつの文明の進行したある段階でははっきりしてくる。それまでは、それに気がつかないで、進歩なら、進歩という目標と、他のすべての尺度上の目標の追求とがコンパティブル(両立可能)であるかのように思われてきた。文明の発展ということにはそういう意味があるわけです。
 ある文明のある段階が、ひとつの局面に近づいたとき、いろいろの尺度の間のズレがはっきり認識される。そしてこの尺度の間の調整を、学問がどうやってやればいいのかというふうな問題意識となって出てくるんじゃないかというふうに思われますね。

武井 先ほど、目標としての指標と、尺度としての指標というお話が出ましたが、たとえばGNPについてみるとそれは、実際には日本の経済生活の達成度をはかるものさしみたいなものだったと思うのですけれども、それがなにかGNP自体を上げることが、一切の社会行動の目標みたいになってきた。そこへGNW(ウェルフェア)とか、GNS(満足度)が新しくでてきた。それはどちらかというと、尺度にしようという考え方に近いのですけれども、じゃあ満足度とか、ウェルフェアといったようなものは、かなり個人的に違っており、あるいは、最近の特徴ですと、地域的に考えても、Aの地域の満足度とBの地域の満足度は違ったものであるかもしれない。そういう状況の中で、本来尺度であったものを目標として取り違えたというようなこともあるのかもしれませんね。

湯川 これはむずかしい問題です。自分の学問を振り返ってみても尺度と目標というのがいつの間にかひとつになっていることが非常に多い。たとえば、われわれは原子物理を研究している。物理学の基礎を研究しているというときには、物質をいくらでもこまかく、より基本的な単位に分けていこうとする。これ自身、“指標”ということばを使えるかどうか知らないが、原子から原子核、素粒子へといくのはひとつの疑うべからざる方向、真理探究の指標のようなものに見えていた。
 ところが、それと同時に非常に基本的なものをさぐり当てようとすると、だんだん、実現するための実験装置が巨大なものになったり、また非常にめずらしい現象を調べるようなことになってくる。もうひとつの方向へいくわけですね。つまり原子物理学の研究のひとつの方向は、いまや巨大加速器をつくるということになってきた。
 しかし、これは本来は尺度であるかもしれないけれども、これを目標にするということには、きわめて疑いがある。それには、いろんな理由による制限があったわけでたとえば、機械がいくら大きくても、地球より大きな機械はつくれない。にもかかわらず巨大化が自己目的と錯覚される。
 だから、基礎物理のように非常にストレートに真理探究している場合尺度と目標というのは一致していると思っていたのが、いつの間にやらそうもいかなくなった。
 実はその辺で、インタディシプリナリにもなってくる。たとえば、大きな加速器をつくる。そうすると、経済問題などがからんでくる。まず、材料がどのくらいで、どのくらい費用がかかるか。日本の技術のレベルはどうであるとか、あるいはマンパワーの問題はどうであるかということを、みな考慮しなくてはなりません。するとそもそも、そんな研究をする必要性はどれくらいあるかという話に、また戻ってくるんですね。GNPの場合とそんなに違わないでしょう。それを上げることばかり考えると、別の問題が当然出てきて、結局、全体的にはマイナスが出てくる。それはひとつの尺度にはなるけど、それを目標にしてめちゃくちゃに経済成長をはかってもしょうがないじゃないかということになる。

〔中略〕

近代化と民主化の指標

武井 作田先生は歴史的にみて、日本の近代化ということも指標を考えていく上で、ひとつの問題だろうというご意見をお持ちだとうかがっていますが、この場合、近代化という目標が統一性のシンボルであったということですか。そうすると、たとえば、日本の場合近代化ということは、ひとつの目標であり尺度であったというようにシンボライズできることなのでしょうか。

作田 アメリカの学者の中で最近、近代化ということについて、非常に関心を持って、それをいろんなインデックスによって、研究できるものだと考えている人があります。たとえば教育制度とか、マスメディアの普及率とか、生産力をあらわすGNPなどのインデックスをたくさん集め、それらをウェイトづけて、この社会は、どのくらい近代化しているかという評価をするわけですね。
 この考え方でいけば、プラス価値の相対的に大きいほうが進んでいて、現実にもそういう目標のもとでわれわれは努力してきたのでしょう。
 しかしもうひとつの考え方によれば、--これは日本の研究者たちの中で有力ですが--なにか民主主義のエートスというようなものがなければ、いくら算術的にプラス、マイナスを合計した得点が高くても、それは近代化していることにはならない。その意味での尺度も、これは数量化できないものだけれども、一種の指標ですね。
 たとえば、個人の自主性というものが、どれだけ確立されているか、といったことは、ちょっと数量的には表現できない。しかしこれも近代化のもうひとつの尺度であり、目標でもある。

湯川 いまのエートスというのは、経済的な立場でいう数字と少し違うけれども、法律みたいなものがあらわしているのではないでしょうか。法律はすぐ数にはならんけれども、憲法や教育基本法とかいろいろあるわけで、これをエートスとすれば、どういうエートスをとるかということはいえるわけですね。

作田 そうです。だから、そのふたつの間にもちろん必然的な関係があって、大体、いわゆる数量化できる産業化が進歩すれば、当然憲法に保障されているような、基本的人権なども、そういう社会では同時に実現されている、というふうに今までは仮定されてきたわけですね。いわゆる先進国とは、産業化と民主化が並行して発展してきた国である、と考えられてきた。その先進国がおくれた国々に対して何をしてきたか、ということはともかくとして、自分の国内だけでは、一応そういう並行的発展があった。ところが、いまはこの並行関係がこのまま続くだろうかという懐疑が広がってきたのではないでしょうか。

湯川 しかもそれをいとも簡単に近代化といってきた。やはり、民主化というのは非常にむずかしくて内容もよくわからんし、数字にはならんでしょうけれども、近代化と民主化はわりあいに並行していたというある種の楽観論ですね。つまり、進歩という概念につながっていた。ところが今や、そう簡単に並行していない。あるいは逆行じゃないかとさえ思われるようになってきた。
 たとえば、最近になりますと、住民運動というのが、出てきます。要するに、住民運動というのは、いままでの組合運動とはちがうわけですね。これは近代化の結果出てきたといえばそうかもしれませんけれど、しかし、たぶん近代化というもののインデックスの中にはなかったものでしょうね。
 近代化の結果、公害などというもともとなかった概念が出てくる。住民運動もやはりなかったものではないですかね。しかも、それらが近代化の延長線上にあるとは簡単にいえない。

武井 いえないですね。個人の人権が、擁護されるようになったから、あるいは民主主義の全体的なエートスが拡充されたから、住民運動が起こったというふうにはなかなかいえないわけですね。

湯川 もっと矛盾したかっこうで出てきていますからね。

作田 最近、日本のある社会学者が、イギリスの社会学者と協力して、日本とイギリスの同じくらいの規模の工場を比較検討した報告を聞いたのですが、どうもイギリスのように民主主義が発達してしまうとうまくいかない。つまり生産性がストップしてしまう。なぜかというと、工場なら工場という、ひとつの部分の自主性を非常に尊重する。その部分が厭というと、全体がどうにもならない。部分集団のセルフガバメント、自己決定というのが重んじられるわけです。たとえば、それが今度は逆に、労働組合がストライキをする場合でも、部分の強い抵抗にあうとどうにもならない。その点で行き詰まるし、もちろん経営者のほうでも、それに手を焼いてしまう。
 昔は、ある程度階級意識というものが強くて、資本と労働の双方の側が、それぞれ自己を主張しあって、進歩していくというふうな考え方があって、ある意味では、階級意識を高め、組合のような結社にうまくエネルギーを吸収してきたわけです。戦後日本に対してアメリカが労働組合をつくれとしきりに奨励していたというのも、そういう理念があったからだと思うのです。
 ところが、この階級意識が企業の目標達成にとっての絶対の障害になって、どうにもならないということになってきた。むしろ日本のような、封建遺制といっていいかどうか知りませんけれど、とにかく、あまり階級意識が強くない、それから部分の自主性もそれほど強く自己を主張しないという社会的風土のほうが、ポスト・インダストリアル・ソサエティの中での産業化にとっては、むしろプラスになるというふうな面がある。
 だから、戦後考えられていたような民主主義のエートスの成長と、産業化の発展というのは、そうパラレルにはいかない段階にまできている。これは先ほどからいわれてきたような物質的な進歩と、精神的な発展というものとの間のくい違いということのあれわれかもしれませんね。

湯川 近ごろまで日本はGNP万能であったのに、イギリスのほうはGNWであったかどうか知らないけれども、福祉や満足ということをいってきた。ところが日本でもGNPから、目標を切りかえようとしたら、経済競争に負けるということですかね。さしあたっては、そうでしょうね。これはいやな問題でしょうが、世界的にも非常にうまく解決しないといけないんじゃないでしょうか。この目標の変更というのは、ほかの国もこれをある国に強制するようなことがあるわけで、そこにある種のGNP的なエゴイズムもある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?