踏み締めた青い花びら、濡れた頬、爪先と、傘の透明な影

 菊は舞い、椿は落ちると言う。散った紫陽花はなんと形容するんだろうと、地面の花びらを見て思う。少し色が抜けたきれいな青色で、僕はそれらを踏まないように、注意深く歩いていた。
 耳元からはおとなしすぎない、ちょうど良いリズムのジャジーな音楽が流れていたし、差した傘に当たる水滴は心が弾む時のように軽やかな音を立てている。パーカーを羽織ってちょうどよい寒すぎない快適な気温、僕は昔からパーカーが好きだった。そのかんぺきな調和を乱すように、スマホのバイブが数分おきに着信を知らせていた。
 今日は僕の誕生日らしい。らしい、というのも、僕は年齢と言うものにあまり執着がなく、生まれた日にもあまり興味がなかった。もっと言うと、プレゼントのないクリスマスにも、お年玉のない正月にも興味がない。
 今年の誕生日も、なぜか彼女の方が張り切っており、一ヶ月前から、今日のために練られたデートのプランをあれこれ僕に送ってきていた。駅で落ち合った後、今流行っているのらしい映画を見に行き、彼女の行きつけだと言うカフェに行き、なんか高そうなフレンチに行く。これが今日の予定だ。
 興味がない、ときっちり言ってしまえればよかった。
 もっと早いタイミングで、彼女の気が固まらないうちに。
 曲がり角で「アッ」と悲鳴のように声を上げる。誰もいない路地で僕の声は雨の音に消えていく。一枚の花びらを、踏んでしまった。青い紫陽花の花びらは靴底の形に汚れて、アスファルトに濃く染み付いた。
 こんなに注意していても、踏んでしまう時は踏んでしまう。ごめんな、と心の中でつぶやいて、行くあてもなくまた歩き出した。
 あてがないのは嘘だ。僕にだって観たい映画はあったし、行きたい店や食べたいものがある。待ち合わせの時間にはとっくに遅れていて、スマホを取り出すと、通知が怒りで埋まっている。
 ため息になりそうな吐息を、深呼吸として吐いた。スマホをしまう。傘から漏れた手の甲に雨粒が当たる。
 顔を上げて、ふと脇をみると紫陽花が濡れていた。葉の上をまるで摩擦なんて言葉が存在しないみたいに、するすると滑っていく。雨の粒がスローモーションで見えた。
 雨の気配が弱まってくる。最寄りの駅まで着くが、改札を通る気になれずに、しばらく人の流れを見ていた。色とりどりの傘が視界を奪う。黒。赤。薄黄色。水色。透明。透明。透明。僕のは青の透明だったのだけれど、似たような傘を持っている人はいなかった。なんだか特別になった気がして、僕はそのまま駅を通り過ぎることにした。
 怒りのメールは電話に変わり、左ポケットの中で振動が止まない。規則正しいバイブの振動が、やがて心地よいリズムに変わる。振動というベースと鼻歌と言うメロディ、足音はドラムになる。遠くの方に、映画館が見えてきた。