燕瞰
病院の一部屋。今がどれだけいい思い出になっても、きっと覚えきれない形の雲がいくつも浮いた青空が、薄いレースのかかった大きな窓の向こうに見える。そこから吹き抜けてくる風は、とても柔らかいけれど、これで花粉さえ飛んでこなかったらな、と思ったりもする。
「これからも、ちーちゃんとお父さんのことをよろしく頼むに」
そう言ってほほえむお母さんの顔は、今日もずっと、ひだまりの中にあってとても暖かかった。それにつられて、うん、と返事するわたしの声も思ったより元気になった。
「……」
病室の外にはお父さんと妹を待たせているけれど、どんな風に話を切り上げたらいいかとか、なんとなくまだここに座っていたいな、とか
「──あ、そうそう」
そんなことをそわそわ考えて、スカートの布地の跡がついた手の甲を見たり、その手を首にやったりしていると、お母さんがふと口を開いた。
「つばめと、ちーちゃんの誕生日もうすぐだら」
「えっ、あぁ! そうだね、もうすぐ──」
お母さんが顔を向けたほうに、自分も目をやると、5月のカレンダーが見えた。
「──じゃなくない? 全然まだ」
そう言って視線を元に戻すと、お母さんは首を振った。
「ううん、ずっと病院におると、これぐらいもうすぐって思わんとつまらんでね」
「……そうなんだ、そうかも」
そうやって話しながら、わけもなく見直したカレンダーから目を離せないでいると、カーテンレースがふいに目の端で揺れた。
「だって退院ももうすぐだし」
窓の外に向けられているように聞こえたお母さんの声に、思わず呆れ気味に笑いかけながら応えた。
「えー、それはさすがに遠すぎる気がするやぁ。年内かもしれないって言ってたけん」
「なんでさ、お母さんにしたら二人の誕生日と同じくらいもうすぐだに」
「えーも~……わかんないなぁその時間感覚は、ほんとに? おおげさ言ってない?」
「ほんとよ、お父さんだってそう言うで。きいてみない」
ば、とドアの方を指さすお母さんに笑いながらそう反論されて、わたしはやっと椅子から立ち上がった。お父さんは誕生日のことももうすぐなんて言ったことはないので、お母さんの自信はきっと苦しまぎれだった。
わかったわかった、と相槌を打っていよいよ呆れながらも、なんともいえない嬉しい気持ちに包まれて、足が浮くような感じがした。忘れずにかばんを肩にかけてから、
「じゃあねお母さん、また近いうち来ると思うで」
「うん、楽しみにしとるで」
ひらひらと手を振られて、わたしも手を振りながら、前を向いたまま出口のほうへ下がっていった。
ちーちゃんたちを置いといてわたしだけずいぶん話しちゃったな、と、扉に手をかけてからすこし心配になった。ちょっとだけ急いで扉を開けて、じゃあ、ともう一度手を振って見せて、わたしは部屋を出た。
そのとき最後に見えた窓の外の、雲が少ない空のことをなぜか、笑顔で手を振り返していたお母さんの姿といっしょに、とてもよく覚えている。
~・~
「おまたせ~」
「おかえり」「終わったか」
車の窓越しに妹と目を合わせながら後部座席のドアを開けると、ふたりの声におでむかえされた。かたくなに助手席の後ろを陣取る妹をまたいで車に乗り込むときに、おまたせおまたせ、と無意識に口に出ていたらしく、ぺったりと背もたれに沿って背筋をのばし、通り道を確保している妹には「そんなに待ってない」と言われた。
「何を話してたの」
ずる、と背中を楽にする妹に、わたしはなんとか脚やら腕を座席に合わせて整えながら応えた。
「うーんとね……そうだ、ちーちゃんのことも話したよ」
「私の……?」
うん、と言ってシートベルトを締めてから、お母さんと話したことを振り返りはじめた。ちーちゃんは頭はいいけど友達関係のことが心配だったとか、でもちーちゃんなりにうまくやってるよとか──
「ナイスお姉ちゃん。人付き合いも満足にこなせず親に心配をかけるようでは、ちーの名折れだから」
「わたしはもっと仕事も勉強もできないと心配かけっぱなしだよ……」
話すうちに心なしか誇らしげになっていく妹に対して、わたしは身を引きしめないとという思いが募った。すると今度はちーちゃんが、
「なんと、お姉ちゃんはそこらの人間より断然よくやっているというのに。やはりそのあたり私もお母さんに話しておくべきだった」
とすこし自信になる励ましをくれた。でも一方で、ちーちゃんももっと話したいことがあったんじゃないかと、やっぱりひとりで話し込んだことに反省が──
「戻って話してもいいと言っただろう」
「途中で入れ違いになったら気まずいもの」
「そんな気にしいだったのかお前、なんにせよ母さんなら娘と話せて――」
「ええい、私には私ゴコロがあるの。車を出しなさいわからず屋、前の車を追って」
なにを言っとるだ、と息のまじった疲れたような声を吐いて、シートベルトを引くのが聞こえた。
エンジン音とともに車が揺れる。揺れが落ちついて、病院に着くまでの道のりでかけていたメノウちゃん──FreyMENOWの曲が、続きから再生された。
ふと左を向くと、ちーちゃんも窓から病院のロビーを眺めているようだった。届きようはないけれど、気持ちと手のひらだけお母さんの部屋に向けて手を振った。それに気づいたちーちゃんが、一瞬ふりかえってから、同じようにしてくれた。
手を下ろして、ちょっとだけそのまま後ろを見つめてから、ひねっていた体を前へ戻した。
「ふぅ、……たのしかったな」
「お見舞いの感想?」
ぽつりとこぼれた言葉を、ちーちゃんが体をひねったまま拾った。
「あれ、たのしかったって言った? いま」
言った、とうなずいて、顔はこっちを向いたまま体を戻す。言ったぞ、と運転席からも声が返ってきた。
「母さんと話せてか?」
「なんかね、楽しかった──楽しかったっていうか、おもしろかったり、嬉しかったりしてね」
「ふは、そうか……何かおもしろいことを話してたのか?」
「うーん? なんだったっけ──あ」
なんでこんなに満足感とか、幸福感みたいなぼんやりとふわふわした気持ちなのだろう、と今日のことを思い返していると、心当たりがひとつ浮かんだ。
「そうだ、誕生日! もうすぐだーっていう話してたんだ」
「あー……」
「誕生日? お前たちのか?」
車が右に曲がる。太陽の光がまっすぐ目の前に降り注いできた。お父さんが片手を上にやって、日差し避けを下ろした。
「もうすぐって、まだ5月十何日だろう」
「ほらやっぱり! お父さんならそう言うと思ったんだよねー」
思わず身を乗り出して、運転席と助手席の肩のところにまで両手でつかまってしまった。
「どういうことだ、母さんがもうすぐだって言ってたんか?」
「そうだよ。それでお母さんが『お父さんだってそう思ってる』って言ってたんだけどさ、いやー、そんなことないと思ってたんだよねぇ」
嬉しくなって、今度は背中を勢いよく背もたれに預けた。さっそく次のお見舞いのときにお母さんがおもしろがってくれそうな話題が一個できた気がした。このことでふたりが話し合ったらどんな風になるかなとか、わたしのほうがお父さんのことわかってたよとか、どんどん勝手に新しい楽しみが湧きでてきた。
「お母さんは、誕生日も退院も同じくらいもうすぐだって言ってたで、びっくりしちゃった」
「あぁまあ、俺も退院はもうすぐだと思う」
「えぇ!?」「びっくり」
隣でちゃっかり話を聴いていたちーちゃんも驚いていた。ますますわからなくなってしまった。
……夫婦の間でわかるものなんだろうか? このお父さんとお母さんの時間感覚がちょっと不思議なんだろうか──
「そうなんだぁ、うーん」
「まあもうすぐというよりは、全然待てるというか、待ち遠しいが……そんなに遠くない気でいられる──というかな」
「待てるかぁ……」
「それならわかる、かもしれない」
ちーちゃんも同じように思ったらしい。わたしはぼーっと天井を見ていたけれど、ちーちゃんは窓の外に目を向けていた。
そうか、というお父さんの低い声を最後に、車の中には優しいインストゥルメンタルだけが聞こえるようになった。メノウちゃんの曲の中でもけっこう前の曲。いい曲、と思うよりも先に、これを聴いていたいろんな時々のことが思い出される。
なんだっけな、あのときは──
──
─
なんだろうこの歌は?
曲名もわかる。メノウちゃんの曲。懐かしいけれど、聞き覚えがないというか、むしろ親しみ深すぎるというか──?
「フフフン、フフンフフンフフフ……」
スピーカーから流れる静かな曲に、鼻歌が乗っている。
自分が妹に寄りかかっていることはすぐにわかったので、左腕に力を入れて体をすこし離した。顔と目を妹の方に向けると、窓枠にひじをついた左手の、人差し指だけを口の前に立てていた。
「フーフーフンフンフンフフン……」
──お父さんが鼻歌を歌っているのに気づいたのはそのあとだった。
へー、これ歌うんだ……と思っても口に出さず、油断すると自分も歌いだしそうになるのもひっこめて、その鼻歌に聴き入った。低い音程のハミングが、流れている原曲と調和していると言えなくもなかった。
「──ッ、と……」
ちょうど終わり際だったけれど、後奏の部分は歌わなかった。よく伸びた最後の一音を、たぶんオヤジくさいという感じの息のつき方で切り上げて、やりきっていた。
「……」
姉妹そろってなにも言い出さないまま、運転席の方をぼんやりと見つめている。お父さんもじっと進行方向を向いていて、わたしたちが寝ていると思っているようだった。
かけていたCDがループする。さっきまでのとよく似た曲調が流れ始めると、お父さんがぽつりと言った。
「もうすぐ誕生日か……」
ちーちゃんがほんのすこしだけ、改めてお父さんのほうに顔を向けたのを感じた。そのすぐあと、わたしたちの目が合った。
「そういうとこだよ」
「そういうとこだぞ」
声も合った。「あ?」とびっくりしたように、一瞬だけ横顔がこっちへ向いた。
「なんだ……起きてたんか」
「脇が甘いぞ、啓介」
「……もう着くぞ、いかにもなレストランだな」
左に曲がる。変わらずゆったりとした曲調が車内を包む。下ろしっぱなしの日差し避けを、低い夕陽がかいくぐっていた。
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