敬白みなみなさま

「​──お姉ちゃん」
「ん?」

「ぐらきち」
「はい?」
「あれ?」

「……」
 二人、手帳やら書類やらをささやかに広げて、机に向かってなにか会議風な話をしているところを、澄んだ声が通り過ぎた。ほんのふた声のあと、不自然な間が空きこくった。
 声の主は勉強机に向かって座りながら、顔だけ静かに二人の方を向けて、見つめていた。おおむね固まっていた。
「えっ、なん、なんですか?」
「ちーちゃん呼んだ?」
 会話はごく自然に引き継がれていこうとした。
 であれば、このあとの返答も、誰の目にも明白にごく自然なものだった。

「……呼んだだけ」

 この台詞はこういう時に出るものなのか​──と、返答を発したとたんに思った。納得とか、感心とか、また自分が口についてその台詞を出せたということへの驚きとかがないまぜになった内心で、ほんのすこしまぶたが上がった。
「ええ〜〜? なんですか、かわいいことしましたね今?」
「そっかー」
 その眼に、気持ち身を乗り出して露骨にニヤつく金髪と、いつもどおりやさしく嬉しそうな表情をする姉が映った。
「どんどん呼んじゃってくださいね! できれば変なあだ名ばっかじゃなくて……」
 テンションの上がった投げかけがスルーされて、
「呼び方……って、どう決まるもの?」
 まごついた手から、新しい会話が始まろうとしていた。


(またなんかめんどくさいこと悩んでんなー?)
「なにか悩みごと? ちーちゃん」
 みんなでお休みの朝の日に差され、座布団に座るつばめと神楽のもとに、千羽鶴がとてとてと歩き寄っていくわずかな道すがら、姉の問いかけがあった。
「そう。トライナリーのみんなとか、クラスのみんなとか、誰の名前を呼ぶにしてもちょっと言い淀んでしまう」
 とす、と二人の前に静かに腰を下ろしてから、千羽鶴はそう返した。つばめは妹のほうを向いてぺたんと座っており、神楽は片肘だけ円机に乗せて、体と首をひねってやはり千羽鶴のほうに注目していた。
「そうでしたっけ? 普段べつにふつーに皆さんのこと呼んでるような……」
 神楽は気持ち首と眼を上にやって、思い出す仕草をして、続けた。
「アーヤさんのことなんて呼んでます?」
「……あやみん」
 いかにも装われた真顔と冷静さで千羽鶴は答えた。
「こないだあややって呼んでませんでした?」
「ぐ」
 身に覚えがあったらしい。
「ていうか最初の方アーヤって呼んでたような」
「うぐ」
 お互いよく覚えていた。
「私と同じで、思いつきのヘンなあだ名で呼んでるってことですか……他のみんなも?」
「……大体全員、三、四個の呼び名をその場で使い回してる、と思う。うづりーぬは特別もりだくさん」
 へっ……と面食らってまんざらでもなくしている神楽をよそに、つばめも話しかけた。
「名前で呼ばないの?」
「ん、そう、そこで悩んでいる……」
「でもいざってときは卯月神楽って呼んでくれますよねっ♪」
 特別視を受け入れ済みになった神楽が割り入る。
「るさい。記憶にない」
「またまた〜照れっこなしですよ」
「なかよしだね〜」
 このように、どんな会話をも即座に仲のよい方向に持ち込める団欒は、
「なかよしのよしみで、そんなお悩み今からなんとかしてみせますよ」
「名前呼ぶたびに詰まってたらよくないもんね、きっと」
 これからの団欒のために、いったんメリハリをつけることにした。


「アーヤさんからいってみますか。グループトークで挨拶してみましょ、どうぞー」
「……不自然じゃない? なんで急に挨拶……ふだんしてないのに。申し訳ないことに」
「じゃあわたしが先におはようアーヤさんって言うから、続いてちーちゃんもあいさつしてみるのはどうかな?」
「それですつばめさんナイスですよ!」
「ちょっ」

<おはようございますアーヤさん!(っ´ω`c)

 ブ、という振動とともに、千羽鶴の持つ端末の画面に、綾水に向けられた素直な朝の挨拶が現れた。「はい続いてください!」
 急展開に急かされて、「おはようございます」「おはよう」「アーヤさん」「綾水」「綾水さん」「あやみん」などと、様々な意味要素が一瞬で千羽鶴の脳から発信されては、右手の指先に凝り固まっていった。早い話、千羽鶴はおおむね思考停止した。ほんの一部冷静な思考も、「このまま既読がついて、『おはようつばめ(^_^)』とでも返されてしまったほうが自然なのでは」とたいへん後ろ向きだった。
 しかし、自分の心境を慮ってなんとか​しようと──半ばむりやりな感じな気がするけど​──してくれているこの二人のためにも​──

│おはよう綾水>
│            さん>

 さん、とつぶやきながら、やや慌て気味に敬称に後を追わせた。くふっ、と息を漏らす金髪が隣にいた。

 ブ

<おはようつばめ(*^_^*)千羽鶴

「……なるほど」
「おぉ〜……」
 つばめが一層笑顔になってもう一度おはようございますアーヤさんと文字を打っている横で、千羽鶴はふぅ、と一息つき、神楽は小さく手を合わせて千羽鶴の手元を見ていた。
「つばめさん、おはようはもう言ったでしょう?」
「え? あれっ? そうだったぁ」
 えへへ、と指を動かすのをやめて、照れたように返事をするつばめだったが、その笑顔には照れではない心がよく表れていた。
「さんづけで呼ぶんだねー」
「さんづけときましたね〜」
 ふたりともにまにました目を千羽鶴に向けてそう言った。
「……しっくりこない」
「きませんね、いくらちーちーが後輩にしてもなんだか、ちーちーとなると」
「あ、あれ? まだ決まってない?」
 深刻化する、というかだんだん本質に迫ってくる事態に、つばめの部屋ではさまざまな思いが交錯しはじめた。
「よっし、つぎ行きましょ。まだ起きてないみやびさんにもご挨拶ですよ!」
「え……まだ続けるの?」
「アーヤさんにだけ急に挨拶してる方がヘンでしょう! いきますよつばめさん!」
「おー!」
「うぅえぇ」
 したたたと文字打ちを始める姉の横で妹はいよいよ困り果ててきていた。

<おはよう

 つばめが打っている間にガブリエラからメッセージが届いた。
「……どうしてこんなことに」
 はぁ、と重い息をつきつつ、千羽鶴はなんとか指を動かし出す。
 もうおはようとだけ言った方が自然なのでは、と考えながらも、律儀に呼称を考えて打ち出していく。そうしてほんの数十秒後にできあがった、ひとりの人間の冒険譚の一部とも言える会話のログを、卯月神楽はひっそりとスクリーンショットした。


「なるほど、そういう事情だったのね」
「了解してくれて助かる」
 その日の神楽坂トライナリーで、バイトの時間を同じくした千羽鶴と綾水が話していた。
「他人の呼び方って難しいのかもしれないわね。うーん……そう考えると、年上でいられてよかったかも。思い切ってふんぞり返れたりして……私も悩んでたかもしれないわ。つばめ、さん……逢瀬さん? 恋ヶ崎さん……んー」
「今から悩むことない」
 ぶつぶつとひとりでに考え込みはじめる綾水に千羽鶴がつっこんだ。

「おーい何してる、仕事があるぞ」
 私語を楽しんでいたふたりに、真幌のお呼びがかかった。
「はーい! しまった、行くわよ千羽鶴」
 慌ててそのもとへ走り出す綾水に続いて、千羽鶴も駆け出しながら、
「あっ、アーヤ​──」
 名前を呼んだ。
「ん、なに?」
​ ──東雲先生とか、お姉ちゃんとか肩書きがあれば呼びやすいと思う。段位とかとってほしい​──
 千羽鶴は思いついてそんなことを言うつもりでいたが、今は私語をするべき状況ではない。
 そのため​──

「​……呼んだだけ」

 会話はここで、ごく自然に打ち切られることとなった。

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