平和と蟹

「ハッピマリッジデーイトゥー……」
ぱっちぱっちぱっち、三拍子に合わせて柏手が鳴る。神に捧げられるでもないその音に、抑揚のない白い声が乗っていた。
「……アス?」
ぱち、と手を合わせて語尾を上げたのを最後に、響き渡る手と声の音は滞った。
「あなたにも歌ってほしいのだけど」
「語呂がよくなかったね」
「原曲が人口に膾炙しすぎてるのと、適当な即興の替え歌のせい。無茶言わないで」
ぱっちぱっちぱっちと手拍子が始まる。
「さんはい」
「ハッピマリッジデーイトゥーユー」
キリのいいところを見計らって、無茶に従い素直に歌うことにした。さっき既に一巡目が歌われたので、二巡目の音程を口ずさんだ。
「ユー?」
手拍子を絶やさず疑問をさしはさんだのに、自分は答えた。
「ひとまずユー」
「あぁ……なるほど」
腑に落ちた様子で、ともすればこの先まで察した様子で、ぱちぱちと手を打ち続ける。
「ハッピマリッジデーイディアちはーるー」
「ちはーるー……」
小さくも堂々としたような声色で、フェルマータについてきた。
「ハッピマリッジデーイトゥーユー」
「みー。おめでとう」
合唱と呼ぶにはあまりにも独擅場じみた唱和が行われると、ぱちぱちぱちとお決まりの喝采が、ふたり分の音のずれを耳に明らかにしながら、ささやかにこれを締めた。

「おいしかった」
と言って、ほどよく熱さが和らいだキリマンジャロを飲む。
「やっぱりいちごの……うん? なんて名前のケーキ?」
「ふつうのケーキ」
「……ふつうのケーキが美味しい。チョコレートなんかの方が、よりキリマンとも合いそうなものだけど」
怪訝な目つきを見せつけたあとそれを伏せて、ケーキが乗っていた自分の皿についたクリームを、フォークでかりかりと集めながらそう言った。
ふたりでひとつの小さなホールケーキを半分ずつ平らげたところだった。私によって、ショートケーキをひとりひとつのほうがなにかと都合がいいのではという提案はなされていたが、「これにする」というたっての希望が出て、そうなった。
その要望の根拠を象徴するものが、開かれたケーキの梱包に残されているものである。
「さて、では事前の取り決め通り、これをどっちが食べるか、お待ちかねの決闘を行う」
「かかってこい」
「うむ、その意気や良し!」
ふんっ、と不敵に意気込んだ顔で相手を認め、右手を構えた。

──おめでとう、と、この上なく衒いのない、ケーキ屋の店員さんという紛れもない赤の他人からの祝福の言葉が白く浮かんだ焦茶色の板。
「譲られるのもおもしろくないし、かといって分けるのもなんだか惜しい」
ということで、これの独占権を賭けて、一瞬にして無血で勝敗の決する闘いが始まる。

「じゃん、けん、どーん!!」
実のところ、私は彼女に勝てる由もなかった。
なぜならば、この平和な世界において、彼女は蟹のようにこの闘いが得意だったからである。

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