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母について

母は、昭和10年神田神保町2丁目生まれ、実母と実姉が幼い頃に亡くなり、実母の妹が後妻となり母を育てた。その後、私から見て叔母2人と叔父が1人が生まれている。

祖父は丁稚奉公から母の実家の古書店で働いており三人姉妹の長女と結婚した。
曽祖父からそれを許されるくらいだから目端が効いたのだろう。実際大陸で従軍し帰ってからも商才を生かして古書店を何店舗か増やしたりしている。

義理の母に育てられたと言っても、長く勤めているお手伝いさんがいて、羽振りの良いプチブル家庭で火垂るの墓のようなことは一切なかったはずだが、母には
「私は悲劇の可哀想な主人公」
という考えが骨の髄まで染み付いている。

集団疎開が辛かった私は可哀想、派手なことが好きで歌舞音曲に興じ留守がちだった義母のかわりに妹弟の世話をした私は可哀想。
多分祖父は忘れ形見として可愛がったろうにそれを他の兄弟からどう見えていたかは考えもしなかったろう。

錦華小学校で友達の前でおどけていて「変わったお子さん」と教師に親に言いつけられたその可哀想な母だが、
中学校は大学まであるK女子大附属中学に受かり進学する。親からすれば箱入り娘にふさわしい選択である。
そこでは一生の友も得るのだが、やがて女子校特有の世界の狭さを感じるようになり、「エスの契り」(Sisterの略で互いにお姉さま妹の関係になる今で言う百合)などを目にするに至り危機感を感じるようになる。
「これではダメになる(異性と知り合えない)」

一念発起、猛勉強に励み親の反対も視野に入れどうせならと志望したのが当時日本一難しかった都立H高校だったのだがなんと受かってしまう。
(ちなみに私の夫も同窓だが凋落時代なので次元が違う)
学友は皆東大京大に進学、卒業生にはノーベル賞の利根川博士、母がなぜ落第しなかったのかわからない。
案の定調子に乗った母は、W大学を受験するも失敗しさらに浪人までしている。
 金の卵と呼ばれ地方から中学を卒業し上京して働き、夜学校に通う若者もいる中、浪人できたという暮し向きのどこが可哀想なのだろうか。

結局C大学の英文学科に入るのだが、書店の顧客の教授の口添えがあったとかなかったとか・・・・
そして4年間、看板学部の法学部で苦学している学生たちのマドンナとして青春を謳歌し、実家の社員としてお小遣いをもらい(相続の時年金の過去帳で明らかに)、日本中を旅し、免許を取ってドライブ、スキーにスケートやりたい放題である。
そして就職結婚。

そこからいきなり山奥に転勤で飛ばされ、私を産んだり引っ越ししたり、祖父が亡くなったときには相続で揉めて実家と縁を切ったり、多少のことはあったかもしれない。
だが、家計を助けるために英語塾をやる中で知り合ったお宅が「家庭文庫」をやっており、母の本屋の血がうずいた。

病気で本ばかり読んでいた私には最初は都合が良かったが、そのうち活動にのめり込み、東京子ども図書館(石井桃子氏のかつら文庫、土屋滋子氏のふたつの土屋児童文庫、松岡享子氏の松の実文庫を母体として1974年に設立 https://www.tcl.or.jp/ )に通ってストーリーテラーの勉強に打ち込み、
家事そっちのけで幼稚園や保育所で保育士に読み聞かせの仕方などを教えて回るようになっていった。
父は何も言わなかった。
私も妹も定期的に夕飯当番があり、週に1日は居間が子どもだらけになる生活を強いられた。自分可哀想が承認欲求となって文庫活動にのめり込んだのもわからないではないが・・

そんな人のどこが可哀想なんだか。
すべて父任せで、亡くなった今途方に暮れて泣き言をラインしてくるが、私も妹も既読無視である。
なまじ、英文科でタイピングできるのでパソコンもスマホも87歳にして駆使してくる。


私と妹への教育方針は基本経験則に基づいていた。
まず、女子校はやめなさいと言われた。別に行きたくなかったが。
男兄弟もいなかったし異性を見極める目を養わせたかったのだろう。
当時女子は高卒で就職か短大、専門学校が多かったがモラトリアムは必要だと4大にしたほうが良いと言われた。
働きたくないからそれは都合がよかった。
ただ、自分は奔放に過ごしていたくせに、門限はうるさかったしそのくせ適齢期になるとお見合いを持ってきた。
妹が付き合いだした男が気に入らなかった時は、なんと後をつけて見に行ったらしい。立派なストーカーである。
日頃何をやるにも極端だとは思っていたがあれには驚いたし姉妹ともども親離れに必死になるきっかけになったのは確かだ。


他力本願で、世界が自分を中心に回っていて、何かあると被害者面。
相続で揉めた時、すぐ下の叔母には長年子供ができなかった。その下の叔母は結婚適齢期をとっくに過ぎていた。その下の長男は祖父から継いだ新宿東口の店舗を経営破綻させて三峰にとられるという後継にはとても無理な頼りなさがあった。
継母が自分の子を守ろうとしたことは察するに容易であろうに、他者の立場になるということができないのだ。
その上別に何ももらっていない訳ではないのである。


・・・だが、その血が私にも流れている。
たまにそれに気づく時、ハッとして猛省する。
親の因果が子に報いとはこのことである。


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