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おてぃんてぃす描いてください

※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありませんし、実際はソープランドとセックスは関係がないものです。




「おてぃんてぃす描いてください」

初対面の僕に、白色のシリコン製スマホケースを差し出してきた女性。それが、葵さんだった

*

 2018年11月20日。鶯谷にある、東京キネマ倶楽部。ソフト・オン・デマンド運営の風俗情報サイト、カクブツが主催する『テメェらのフェス2018~暴発リフレイン~』というフェスイベントで、著書の物販をさせてもらった。その十日前の11月10日。はてなブログに投稿していた風俗レポの文章を編集してまとめた『昼休み、またピンクサロンへ走り出していた』というエッセイ本の出版日だった。

 本の元になったはてなブログのブログ名は『25歳素人童貞のブログ』というのにしていた。好きなポエトリーラッパーのひとりである狐火さんの歌の中に「27才のリアル」「28才のリアル」「29才のリアル」というタイトルの、その年齢時点での自分の人生のリアルを泥臭く叫ぶような歌があって、そんな自己表現の仕方に憧れて、年齢を入れたものにしようと思って付けたブログ名だった。 

 ブログを開始した当初は、大学のときのゼミの教授に対する復讐のような気持ちで風俗レポを書いていた。大学の頃に所属していたゼミの教授は学問に関してすごく寛容な人だった。所属している学部のことなんて関係なしに、どんなことでも自分の関心に沿ってゼミのテーマとして取り上げてもよいと言ってくれた。研究室も24時間鍵を開けっ放しにしてくれ、本は読みたい放題で借りたい放題だった。そんな自由な空気の中、僕は自分の興味関心に従って、哲学のことを勉強していた。というより、第一に理解したいのはこの自分という存在のことであり、そのために哲学を学ぶのが近道だと思ったのだった。

 毎週月曜日のゼミが終わると教授は、ほとんど毎回のように居酒屋に飲みに連れていってくれ、古びれた居酒屋でホッピーを飲みながら、ゼミの場とはまた違う砕けた雰囲気で、身近な人間関係のことや恋愛のことを学問の言葉を使って議論させてくれた。飲みの場では、身近な物事と学問的なことを結びつけて話せる人が称揚される雰囲気があった。例えば、居酒屋に向かうために電車で移動した日のこと。大学の最寄り駅の改札が全て電子決済可になっていることに気づいた先輩が「ジョージ・リッツァが『マクドナルド化する社会』って本の中で言ってるんですよ。人間は効率性を求めると、その分、他者への想像力がなくなってしまうって。こういう改札の電子化も、マクドナルド化する社会のひとつであって、スムーズに改札を通れない人間に対して、我々は苛つくようになっていってしまうんですよ。世の中は、スムーズに改札を通れる人ばかりじゃないのに」なんてことをぶつくさと言うと、「おぉ~、お前も一端の社会学者みたくなってきたじぇねぇか」と、少し茶化しながらも褒めるような教授だった。そうした教授の価値観に影響され、僕も学問と身近な物事を結びつけて考えられるようにならなければと思い、何かに憑りつかれたように本を読んだ。

 大学生の時期に憑りつかれていたのは、何も学問だけではなかった。僕は池袋のピンクサロンに多いときは週に三回ほど通っていた。あるとき、キャストの女性に顔の上に乗ってもらったら、性器からチーズの腐ったような臭いがしたことがあった。若かった僕はその童心から、たとえ初対面の女性であっても、というよりかは初対面の女性だからこそ、女性器がどんな状態であってもクンニをするのが愛であると疑わず、鼻息を止めながらクンニに没頭した。数日後、カンジタになった。初めての性病だった。お風呂に入って半日も経たないうちに、男性器がおりものだらけになって、赤くなるし痒くなるしで辛くて仕方がなかった。病院でもらった軟膏をお風呂あがりに亀頭に塗ったあと、蒸れないようにドライヤーで亀頭を乾かすことをルーティンにしてなんとか症状は出なくなったのだけど、それ以来、体調不良やストレス過多なときはカンジタを発症しやすい体になってしまった。カンジタというのは本来は性行為に関係なく、一般的に女性の体で自然発生的に発症するものなのだけど、男性である自分もクンニを通して女性と似たような身体構造に変化してしまったことに純粋に驚き、「僕の体は、ピンサロで女性からカンジタを貰ったことで、おりものが出やすくなりました。これは、僕の体が少し女性的になったとも言えます。哲学者のジル・ドゥルーズが言う『生成変化』というやつですよ!」と飲みの場で教授に言ったら、「ピンサロなんてくだらねぇとこ行ってんじゃねぇよ!」と、ナチュラルにキレられてびっくりした。教授は学問はどんなことをも対象にできると言いながら、性に関してはかなり保守的なところがあり、性風俗の話に哲学の話を結びつけても身体的に拒絶してキレてしまう人だった。そのほかの部分ではいくらでも自由に話したいことを話すことができたけど、教授がキレるから風俗の話はできないと思って話すのを止めにしてしまった。こうなると、自分の中で学問から得た知識や考え方と風俗で遊んだ経験の結びつく部分のアウトプットができなくなり、体の中に膿のように風俗体験が溜まっていってしまった。大学を卒業して池袋のIT企業に就職し、教授から離れたタイミングではてなブログを始めようという気持ちが生まれ、それまで人前でアウトプットすることのできなかった風俗の話をブログに書くことにした。

 そんなきっかけで、平日の仕事終わりや休日に風俗レポを書いてひたすらブログに投下していたところ、遅れてやってきたヒッピーみたいな見た目の編集者から急にTwitterのDMが届いて、本にしてもらえることになった。本の宣伝方法を考える中で、知り合いのソフト・オン・デマンド社員に協力してもらえないか相談したところ、今度の風俗のフェスイベントで物販していいよ、と言ってもらえ、イベント会場の入り口のところで物販をする運びとなった。

 『テメェらのフェス2018~暴発リフレイン~』というのは、風俗嬢60人が出演するライブイベントだった。お笑い芸人の鬼越トマホークさんとセクシー女優の市川まさみさんが司会で、関東圏の有名な風俗嬢がステージに立って大喜利をしたり、生着替えをしたり、ランウェイを歩くイベントだった。
 2010年代中盤。音楽業界ではライブ興行の売り上げが目覚ましい成長を遂げていた。そうしたライブ興行の流行りが少し遅れて風俗業界にもやってきて、その流れの中で一番の大きいライブイベントがこのイベントだった。もともと風俗業界は横の繋がりがないと言われていて、風俗関係者が一同に会するイベントは変な熱狂に包まれていた。物販で早めにイベント会場に入っていたので、風俗関係者が入場してくるのを間近にすることができた。私服姿の風俗嬢が、ガチガチにスーツで決めた男たちを引き連れて入場してきた。男たちはお互いをけん制するように、目配せしあっていた。

 会場の東京キネマ倶楽部は、観客席が一階から三階まであった。一階は一般観客席。二階はカクブツに月額一万円を支払っているプレミアム会員の席。三階は風俗関係者席という、カースト制度を想起させるような座席構成だった。観覧ゲストとして招待されていたお笑い芸人のさらば青春の光の森田さんなんかは、有名人だから三階の関係者席で出番待ちの風俗嬢と絡んでその場で予約なんかしちゃって人生をエンジョイしていたみたいなのだけど、無名の僕が出入りを許されたのは、入り口付近の物販スペースと、一番下の一般観客席だけだった。一般観客は数百人いたから、物販を終えてから会場に行ってもイベントを遠くから眺めることしかできなかった。
 結局、担当編集者と一緒に近くのファミリーマートで買ってきたストロングゼロを飲みながら、ほとんどの時間を入口の物販スペースで過ごすことにした。イベント中は、十分に一人くらいのペースでお手洗いやコンビニに向かう人が前を通る程度だった。目の前に女性が通れば、出演女性の写真が掲載されたプリント用紙と照らし合わせながら、いま目の前を通った人はこの店のこの人なんじゃないか、という答え合わせをするのが唯一の楽しみだった。途中、コンビニから帰ってきた金髪の切れ目の女の人が「あの人たち、ストロングゼロ飲みながら本売ってるんだけど。やばっ」と、遠巻きに笑顔でディスってくれたのが嬉しかった。手元にあったプリント用紙と照らし合わせると、どうやら千葉の栄町のソープ嬢のようだった。千葉の風俗嬢はキャバ嬢みたいな人が多いとは聞いたことがあったけど、その一端に触れたような瞬間だった。

「えー、おもしろそう。これください」

顔を上げると、目の前に女性が二人立っていた。片方の女性が、本をひとつ手に取って声をかけてくれた。白い頬を丸くして子どもみたいに笑う、黒髪ボブの綺麗な人だった。今日はイベントに出演されるんですか、と聞くと、ソープランドで働いてるけどイベントに出演するわけではなく、同じお店の女の子が出演するから、関係者として遊びに来たとのことだった。

「サイン書いてくださいよー」

もともと僕のことを知っていたわけでもないのだから、サインを求めるのも変わっていると思った。だけどそう言ってもらえたから、本の裏表紙にサインを書かせてもらった。

「お名前は、なんて書けばいいですか?」
「葵、でお願いします」
「本名ですか?」
「源氏名ですよ」

不躾な質問にも変わらない笑顔で応えてくれる人だった。僕はこのとき二十六歳になっていたので、本の裏表紙に「葵さんへ 26歳素人童貞」とサインを書くと、

「おてぃんてぃす描いてください」

白色のシリコン製スマホケースまで差し出してきた。持っていた黒色のマッキーは油性で簡単に消せるものでもなかった。スマホケースなんてそうそう買い替えるものでもないと思ったから「え、本当に描いていいんですか?」と戸惑っていると、「うん、描いて描いて」と、こちらの心配をよそに平気そうな顔で言ってきた。白いスマホケースの内側、スマホを嵌めたときに隠れるところに黒のマッキーで簡単に男性器の絵を描いて、そこにも「26歳素人童貞」とサインをした。

「わー、お兄さんのおてぃんてぃすだー」

葵さんは無邪気に笑いながらそのケースにスマホをはめ込み「ありがとうございます」と言うと、踵を返して階段の方へ歩き出し、三階の風俗関係者席の方へと上っていった。

*

 葵さんとの再会は、新宿二丁目の和食居酒屋だった。元のきっかけを辿れば、Twitterで知り合ったデリヘル経営者の小田倉と飲んでいたときに遡る。

 本の出版日の翌週、新宿のロフトプラスワンで出版記念イベントをすることになった。人前に出るイベントなんてしたことがなかったから、インターネットで過去のロフトプラスワンのイベントがどんな感じなのか検索してみることにした。その結果、とりあえず登壇人数を多くして笑っていれば盛り上がっているイベントに見えるということがわかったので、風俗関係者で登壇してくれる人をたくさん集めることにした。
 すぐに思い浮かんだのが、Twitterで知り合ってから二回ほど飲んだことのあるデリヘル経営者の小田倉だった。小田倉は、女性とのコミュニケーションが苦手な男性向けに、言葉を発しないアンドロイドというコンセプトで女性を派遣する『アンドロイドデリヘル』を歌舞伎町で経営している男だった。『アンドロイドデリヘル』はその尖ったコンセプトが面白いうえに人気なお店であり、小田倉は飲んでみてすごく口の達者な男だったから、イベントに出演してもらえたらお客さんが楽しめるのではないかと思った。ノーギャラでのイベント出演とその日の夕飯を奢ってもらうことを目的に、小田倉に飲み会を設定してもらった。

「何か好きな本とかあんの?」

その飲みの場での、小田倉からのなんてことのない質問だった。

 大学生の頃に影響を受けた作家の小説がひとつ思い浮かんだ。1999年に刊行された、木村渉の『分裂』という小説だ。
 主人公の橋爪慎吾は、社会学を専攻している大学三年生の男だった。年末に実家に帰省して大掃除をした際、廊下にある押し入れの奥の方から段ボールにびっしり詰められた古いノートを発見する。そのノートを開くと、歌舞伎町で風俗嬢として働いている女が、自分の客であった既婚者の男に口説かれ結婚するまでの日記が書かれていた。誰か実在する人間の日記か、フィクションか、読んでいる間はわからなかった。というより、薄々気づきながらも考えないようにしていたのだが、「山下さんが奥さんと別れたから結婚しようとプロポーズしてくれた。っていうか、山下さんの本当の苗字、橋爪って初めて言われたんだけど!笑 私、橋爪さんと結婚しようと思う」という文章を発見し、その日記に書かれていることが自分の母と父の馴れ初めで、日記の筆者が自分の母だと確信することになった。それから橋爪慎吾は自分の出生の秘密を探ろうと、大学院の社会学研究科に入学し、歌舞伎町の性風俗店をフィールドワークすることにした。歌舞伎町の風俗店にお金を払って一般の客として利用し、性行為は一切せず、そこで働く風俗嬢がなにを理由に働き、どんな体験をしているのか、インタビュー調査をすることを試みた。その調査は論文のための素材としては一定の成果を収めたものの、自分がやりたいことは本当にこういうことだったのかと自問している折、歌舞伎町の学園系店舗型ヘルスで、母親も熟女店で働いているという女性、ハツネと出会う。ハツネに継続してインタビュー調査をする内に、ハツネの中に自分と相通ずる部分を見出し、ハツネのことをもっと知りたいと関係を続けるうちに、セックスをし、そのままハツネの実家に住むことになる。ハツネと、シングルマザーで熟女店で働くハツネの母キョウコとの三人での共同生活を送るなか、自分の出生について考え悩む橋爪慎吾が静かに狂ってゆく様を描いたのが、木村渉の『分裂』という小説だった。性的で、泥臭く、正直で、俗っぽく、それでいて、どこか形而上的な響きのある作品だった。

 大学生のころの僕は、まとめサイトで「大学生の内にこの小説だけは読んでおけって小説ある?」というスレのまとめを見て「時代もあるかもしれないが、この内容でミリオンセラーはさすがにやばいw 木村渉だけは、マジで奇才」というレスと共に、木村渉の『分裂』のことを初めて知った。家の近くにあったブックオフで買った『分裂』を読み終わったとき、僕はワンルームの部屋で木村渉のフルネームをひとりで叫んだ。この作品はフィクションではあるけれど、この作家が作家自身のことを描いているに違いないと思った。そしてそこには、僕の話が書いてあるとも思った。そういった作品に出会えたとき、その作家のフルネームを叫びたくなる衝動が自分に起こるのだということを教えてくれた作品でもあった。

「木村渉の『分裂』だけは、大学生のころに凄い影響受けましたね」
「え、まじ?」

突然、小田倉の様子が変わった。

「俺、木村先生とよく飲みいくんだけど、今度会ってみる?」

まさか、デリヘル経営者の小田倉から木村渉の名前が出てくるとは思わなかった。話を聞くと、木村渉は小田倉のお店に在籍しているキャストの本指名客の一人であり、その女の子を経由して紹介してもらってから、親しくしているということだった。

「会えるなら会いたいですけど、影響受けてるからと言って、作家本人となにか話したいことがあるかというと、微妙ですけど」
「まぁ、会うだけ会ってみればいいんじゃない。でもどうだろうなぁ~。木村先生、めちゃくちゃ人見知りだからね。誰か人を紹介しても、全然仲良くなんねぇーの。人見知りすぎて風俗店に電話かけられないから、俺みたいな風俗経営者と仲良くして、直接LINEで連絡してくるぐれぇだもん」

 翌月の平日。20時ころ。小田倉からLINEが届いた。

「木村先生と新宿で飲んでるけど、よかったら来る?」

東池袋にあるオフィスから、南池袋のアパートまで歩いて帰っている途中だった。「行きます!」とメッセージを返したあと走ってアパートまで帰り、電動自転車で明治通りを滑走して急いで新宿まで向かった。池袋から新宿は下り坂が多くて楽だったのだが、新宿はあまり来たことがなかったから地理がよくわからず、都合のよい駐輪場を見つけるのに苦労した。とりあえず目についた新宿区役所の駐輪場に自転車を止めてスマホの地図を見ると、思ったよりも新宿二丁目は遠く、全力で走ってお店まで向かうことにした。

 呼び出された場所は、新宿二丁目の和食居酒屋だった。指定された個室に入ると、座敷の上の机を囲むように、小田倉の対面の席に二人の男が座っていた。ひとりは三十歳前半くらいのグレーのスーツ姿の男で、もうひとりは五十歳くらいのパーカーにジーンズのラフな格好の男だった。年齢的に、ラフな格好の男の方が木村渉だとわかった。木村渉だけ姿勢よく正座をしていて、奇妙だった。

「おうっ、来たか」

タバコを吹かしながら振り返った小田倉が言った。

「こっちは、新宿の『ピーター・パン』ってソープランドの代表やってる光本さん」

「おー、よろしくぅっ!」若い男の方が言ってきた。顔も赤く、だいぶ酔っているようだった。

「そんでこっちが、木村先生」

木村先生が会釈もなにもせず、どこを向いてるのかイマイチわからない爬虫類のような目をこちらにジッと向けてきた。

「こいつブログで風俗レポ書いててさ、この前それが、本になったんだよ。木村先生の『分裂』が好きって言ってたから、一回先生と合わせてみようかなと思って」

小田倉が光本と木村先生に僕の紹介をしてくれると、「ここ座れよ」と、自分の隣の空いている席を指差した。

「こっち座りなよ」

小田倉の隣に座ろうとする僕のことを静止するように、木村先生が自分の隣を指差しながら言った。机を挟んで一対三になるからなんとも不自然だけれど、言われるがままに木村先生の隣に腰を下ろすと、先生は正座のまま、体ごとこちらに向けて口を開いた。

「ブログ書いてて本になるなんて、一番かっこいいことだよね。じゃあ、君の文章は相当面白いんだ」

表情は真面目で、すごく柔らかい口調だった。でも、少し意地の悪い聞き方をしてきていると思った。

「あー。面白いっすよ」

尊敬する作家の目の前に座った緊張からか、それともその聞き方に棘を感じたからか、少し挑発するような返事をしてしまった。そんな尖った感じに言う僕があまりに滑稽だったのか、無表情だった木村先生は思わず鼻から息を吹き出すように笑った。勝った、と思った。

「俺も木村先生の『分裂』は好きなんだけど、お前はどこがいいと思ってんのー?」

ソープランド経営者の光本が、木村先生の背中越しに、酔っ払い特有の投げやりな声で聞いてきた。あぁ、この光本っていう人は、こういうタイプの男なのね、と思った。自分より年下でコミュニケーションが苦手そうな男が目の前に現れたとき、こいつはいじってもOKという判定を即座に下して、いきなり投げやりに絡んでくるタイプの奴。少し気に障ったけれど、木村先生の『分裂』に関しては本当に好きな作品であるし、木村先生の目の前の状況での質問であったから、正直な言葉で返そうと思った。

「何かコンプレックスを抱えた主人公が、自我を確立するために他人と衝突する、という作品はいくらでもあるし、そういうものの大半は、他人と衝突することで成長できたというオチになるけど、木村先生の『分裂』は、そういう安易なオチになってなかったから良かったです。この作者じゃないと、こういう展開にはならないという、唯一無二の話だと思いました」

正直な感想を述べた。尊敬する作家の前で作品の感想を言うだなんて、これ以上に恥ずかしく緊張することもなかったから誰の顔を見ることもできず、テーブルの上の黒い丸皿に一つだけ残されていたししゃもの唐揚げに視線を合わせながらでないと言えなかった。言い終わったあと、場がしんと静まりかえった。おそるおそる木村先生の顔を見ると、口を閉じながら微かに頷いているようだった。その表情を見ても、自分の正直な返しが正解だったかどうかはわからなかったが、自分の思いを正直に伝えられたことに後悔はなかった。それから木村先生は黒目だけをしばらく天の方に向けたかと思うと、また口を開いた。

「君もさ、本を出して、人前に出るようになったわけでしょ? それで、自分にとって何が一番よかった?」

尋問みたいなコミュニケーションをしてくる人だなと思った。正直、本を出版することは、自分の人生にとって大きなことではないと思っていた。自分にとって文章を書くということは、なにか自分の人生の中に気づきや変化が感じられる経験があったときに、言葉でその出来事の一回性を掴むための運動であり、それ以上でも以下でもなかった。その運動の場は、はてなブログで十分に機能していた。ブログの記事を再編集した本を出すということは、文章のパッケージの仕方や流通経路に変更を加えるだけのことであって、それは自分が文章を書く目的から考えると、些末な意味しか持たないと思っていた。しかし、見せ方を変えただけで他人から紹介されやすくなり、こうして人生で一番影響を受けた作家にまで出会えてしまったのだから、本を出した結果としてはそのことが自分にとって一番幸運なことだと思った。文章の流通経路の変更は、そのまま人間関係の流通経路の変更でもあった。

「こうして木村先生に会えたことが一番嬉しいですよ。会えるような存在だとは、思ってなかったので」
「おまえ、不気味だなぁっ!」

先生がいきなり大きな声を出した。顔を見ると、なにか面白いおもちゃでも見つけたかのように僕の方を見て笑っていた。よかった。たぶん、先生は喜んでくれているのだと思った。

「じゃあ木村先生は、今までたくさん作品を書いてきて、何が一番嬉しいですか?」

先生の笑顔を見て、不躾なことも聞ける雰囲気だと思った。こんなことを聞ける機会ももうないと思い、質問をぶつけてみた。

「読者の人に作品の感想を言ってもらったり、作品を通して、こうやって人と繋がれることが嬉しい。ここにいるみんな、作品がなかったら出会えてない人たちだから」

ゆっくりと、落ち着いた喋り方だった。本心だと思った。ミリオンセラー作家で年長の人が、こんなに腰が低く素直なのかと驚くほどだった。小田倉も光本も、先生が話し終わると静かに深く頷いていて、いい話を聞いたみたいな雰囲気になっていた。なんだかその雰囲気が変に儀礼っぽく、嘘くさいと思った。ひとりの青年が自我の透明さを泥臭く追究する『分裂』のような物語を描いている木村渉の前で、こんな嘘くさい空気が流れてよいものかと思った。先生が小説の中で描いているものとは、真反対の空気だった。それに、先生も作品の感想を言ってもらうのが嬉しいと言う割には、僕が感想を言ったときはほとんど無反応で終わらせてきて、こっちはあんなに緊張したのに自分だけ澄まし顔でなんなんだ、という不満まで湧き上がってきた。目の前の空気の全てを壊したくなって、先生のことをいじり返してやろうと思った。

「じゃあ、さっき僕が先生の作品の感想を言ったとき、先生はなんか黙って澄ましてましたけど、僕が作品の感想を言ったの、本当はすごく嬉しかったんですね」
「おまえ、不気味だなぁっ!」

先生はまた同じ言葉を使って、同じように大きな声を出し、同じように笑った。よかった。僕が作品の感想を伝えたことは、先生にとって嬉しいことだったのだな、と思えた。仲良くなれるかもしれないと思った。全てのコミュニケーションがコントロール外で、一秒ごとに気分が浮き沈み、どう転ぶのか全くわからなかった。あまりにも尊敬している人を目の前にすると、コミュニケーションというものは全てが博打の様相を呈するのだと思った。

「あのー、僕のお店の女の子、ここに呼んでいいですか? 凄くいい子がいるんですよ。人気の子なんですけど、珍しく今ちょうど空いてて。次のお客さんの予約入ってるんで、一時間も居れないくらいの短い時間にはなっちゃうんですけど。この子です」

光本が木村先生にスマホの画面を見せた。

「可愛いね」

木村先生が言うと、光本がスマホの画面を僕の方に向けてくれた。シティヘブンの女性プロフィールページが開かれていて、名前の欄を見ると「葵(24歳)」と書かれていた。プロフィール写真の目線にぼかしが入っていたが、白い頬を丸くして笑っている、黒髪ボブの女性だった。スタイルの欄を見ると「T165・83(C)・56・85」。身長の高さからしても、フェスイベントで話しかけてくれた人で間違いないと思った。

「僕、たぶん、この人とこの前のフェスイベントで会いましたよ」
「え、そうなの?」
「本の物販してて、本を買ってくれたんですよ」

「可愛かった?」と木村先生が無表情で聞いてきたので「はい、すごく綺麗でした」と返すと、「いいじゃん、呼ぼうよ」木村先生が光本の方を向き直した。光本がLINEのメッセージを入力しながら「十分くらいで来ると思いますわ」と言うと、ちょうど十分ほどしたところで、個室のドアが開いた。フェスイベントで会った葵さんが立っていた。二度目に会っても、やっぱり綺麗な人だと思った。少し緊張しているような笑顔をしていた。男だけが四人もいる席だし、自分のお店の代表の光本もいるし、そりゃ緊張もすると思って、少し心配になった。

「葵ちゃん、そこ座ってよ」

光本が小田倉の隣の空いてる席を指差しながら言った。

「いいよ、俺が移動するから、こいつの隣に座りなよ。二人は、会ったことあるんだろ?」

木村先生はわざわざ立ち上がって小田倉の隣に正座をすると、葵さんが僕の隣に座るように誘導した。

「お久しぶりです」

隣に腰を下ろした葵さんが、軽く会釈をしながら挨拶をしてくれた。自分は見た目も性格も一度会っただけで覚えてもらえるような人間ではないと思っていたから、覚えてもらえていることが嬉しかった。

「さっき話してたんだよ。この前のイベントで会って、綺麗な子だったって」

木村先生が言うと、「えー、本当ですかー? ありがとうございます」と、葵さんの左頬が丸くなったのが横目に見えた。隣だと近すぎて、顔を見ることはできなかった。

「こちらが小説の『分裂』で有名な、木村先生」

光本が葵さんに先生の紹介をすると、

「あっ、このまえ光本さんから先生のこと教えてもらって、ちょうど昨日Amazonで先生の作品を買ったので、家に帰ったら届いてると思います。読みますね」

葵さんが社交的なトーンで言った。「おてぃんてぃす描いてください」といきなりスマホケースを渡してきたイメージしかなかったから、こういう社交的な会話もできるのだと、変に感心してしまった。葵さんに作品を読みますねと言われた先生は「いやいやいや」と、声にならないような声を出して恥ずかしそうにお辞儀をすると、一転して真顔になって「お酒は飲めるの?」と葵さんに聞いた。

「はい。さっきもお客さんと一緒にビール飲んでたんで」
「えぇ、お店でビール飲めるの?」
「ソープランドはお酒タダなんで、いくらでも飲めますよ」
「そうなんだ。じゃあ、なんでも飲みたいの頼みな」

葵さんがビールを頼んだ。

「では、葵ちゃんとの出会いに、乾杯!」 

光本が音頭を取って乾杯をし、皆が一口ずつお酒を口にすると、木村先生が口を開いた。

「葵ちゃんは、何歳なの?」
「今年で28歳になりました。お店では24歳になってるんですけど」
「そうなんだ。なんでソープで働いてるの?」
「前は池袋の学園系デリで働いてたんですけど、学園系って客層が悪かったし、本番交渉とかの問題も面倒くさくて。よくよく考えてみれば、わたし別に挿入が無理とかのタイプじゃなかったから、だったらソープの方がいいかなと思って」
「ちょいちょいちょい、危ねぇこと言うなよ葵ちゃん。うちは一応、お風呂屋さんってことでやってんだからさ」

光本が鉄板のソープランドジョークですよ、みたいなノリで口を挟んだ。先生は表情を変えず、インタビューもののアダルトビデオのように淡々と質問を続けた。

「週どのくらい働いてるの?」
「鬼出勤してる時は週6オーラスで働いてましたけど、最近は週4とかが多いです」
「えっ、なに、オーラス?」
「あっ、オーラスは、オープンラストの略です」
「そうなんだ。それで、やっぱ稼ぎがいいんだ?」
「今のお店は単価も高いですし、普通のお店よりはいいですね」
「彼氏はいるの?」
「いないです」
「プライベートでセックスはするの?」
「全然しないですよ、相手もいないんで。仕事だけです」
「家族はこの仕事のこと知ってるの?」
「知らないと思います。でも、お母さんが勝手に部屋の掃除してきて、お店の名刺を片付けられていたことがあるので、もしかしたら知ってるかもしれません」
「お母さんは何も言ってこないんだ」
「そうですね、何も言ってきません」
「お母さんとは仲良いの?」
「普通に仲良いですよ、よく一緒にご飯とか行きますし」

風俗で働いている女の人に初対面でどこまで質問をしていいのかわからなかったから、木村先生が遠慮なく質問してくれるのが聞けてよかった。葵さんは28歳で、僕より二つ上だった。年上だけど壁を感じさせない、フラットな性格の人だと思った。

「あっ、すみません。私そろそろ次の予約のお客さんの時間なので、帰りますね」

三十分くらいの怒涛の質問タイムが終わったところで、葵さんが席を立とうとすると、

「連絡先交換すればいいじゃん」

木村先生が僕と葵さんの方に手を向けながら言った。少し間ができると、「ね、いいよね?」と、木村先生が葵さんに畳みかけた。

「えっ、逆にいいんですか?」

葵さんがスマホを取り出した。断る理由がなかった。「じゃあ、私が読み取りますね」という葵さんにQRコード画面を差し出して、読み取ってもらった。

「俺も交換しようよ」

木村先生もジーンズのポケットからスマホを取り出して、葵さんとLINEの交換をした。その様子を眺めていると、「お前も」と言ってくれたので、僕も木村先生とLINEの交換をした。

「ブスカワみたいで可愛かったね」

葵さんがいなくなってからの第一声で、先生が言った。何がブスカワだ、と思った。ストレートに可愛いだろ、と思った。

 葵さんがいなくなると、場がとつぜん弛緩した雰囲気になった。一人の女の人が30分くらい来ただけで、緊張感が変わったからか、一本の映画を見たあとみたいな気怠い感じがあった。先生も同じ気持ちだったのだろうか、「じゃ、そろそろ帰ろうか」と言って財布を出すと、ご馳走してくれた。先生は領収書をもらってから店を出ると「また飲もうよ」と言ってくれた。有名な作家である先生が本当にまた飲んでくれるのか信じられなかったけれど、その言葉を聞けて嬉しかった。

 翌朝。出社のためにスーツに着替えながらスマホの通知を覗き込むと、葵さんからLINEのメッセージが届いていた。

「葵です。昨日はありがとうございました🙏また機会があればよろしくお願いします!よかったら、お店に遊びに来てくださいね🥰」

営業のLINEだった。ふと、昨夜の飲み会のことを葵さんは写メ日記に書いているのかが気になって「ヘブン ピーター・パン 葵」で検索し、葵さんのプロフィールページにアクセスした。最新の写メ日記の欄を見ると『サプライズ☆』というタイトルの日記が見つかった。時間を見ると、早朝に書かれたようだった。

12/17 4:34
サプライズ☆
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こんばんは、葵です✨

昨日お遊びしてくれたお兄さん方、ありがとうございました❤️本当は葵がお兄さん達を癒す側なのに、いつも逆に癒してもらっちゃって、感謝です😭

昨日は仲良しのお兄さんも会いに来てくれたし、初めましてのお兄さんも会いに来てくれて、楽しい一日でした。それに、昨日はサプライズな出会いもあって、葵は幸せでした💕

葵は最近、木村渉さんの『分裂』という本を読み始めました❗舞台設定になっている1990年代の新宿の雰囲気が凄く伝わってくるし、人間関係のドロドロがリアルよりリアルすぎます🥺すごく面白くて、先が気になって寝れなくなっちゃって、寝不足確定です💦葵の明日のシフトが飛んでたら、起きれなかったと思ってください🤣笑

こんな小説を書けちゃう人の頭の中って、どうなってるんだろう🤔もうそれだけで、尊敬しちゃいます🥰

もし読んだことあるお兄さんいましたら、ぜひ語り合いしましょう❤️


朝から愕然とした。愕然としている自分に気づき、自分が葵さんに好意を抱いているということに気がついた。自分の本を買ってくれたうえに、「おてぃんてぃす描いてください」と白色のシリコン製スマホケースまで差し出してくれた綺麗な女性に好意を抱かない方が、僕には無理なことだった。が、『分裂』を読んでいることをアピールしている写メ日記を見るに、葵さんは木村先生の方に靡いているようだった。ミリオンセラー作家には、やはり人を惹きつける力があるのだ。その巨大な力の差は、埋めようもないものに思われた。葵さんからの営業LINEには、白いうさぎがグッドマークしているスタンプひとつを返すだけにした。

*

 平日。いつものように勤務時間中にはてなブログ用の文章を書いていた。一か月前、渋谷のM性感で、技術力の高さで評判のM性感嬢にお尻を責めてもらった。事が終わったあと、「お兄さん、すごいお尻でイっちゃってたね」と言われたことが妙に引っ掛かった。僕としては、お尻を責められて気持ちよかったとは思うけど、イった、という感覚まではなかった。盛り上げるために声を大きくだしたりお尻の中を動かしたりしたから、それをいいように解釈してそう言ってきたのかと思ったけど、でも、経験豊富なM性感嬢がそう言うのだから、もしかしたら僕はお尻でイっていたのかもしれない、とも思ってしまった。イッたかイッてないか、ということでこんなに悩むことができるのは、男性器の場合ではあり得ないことだから、なんだか面白いと思った。射精は、白い精液が出れば、誰がどう見てもイっていると解釈する。精液が一つのエビデンスとなり、客観的に「イク」が成立する。射精をしてるのにも関わらず「僕、イってないよ」と言うと、狂った人間だと思われる。しかし、お尻でイクということは、射精よりももっと複雑だ。イったときに、何か精液のようなエビデンスがあるわけではない。痙攣や発汗などの身体症状からの推測や、お尻を責めてる側と責められている側の知識や経験の有無などの複合的な理由により「イク」ということがかろうじて成立する。経験豊富なM性感嬢が「すごいイってたね」と言っても、責められている側の僕が「イってないよ」と感じることが充分に成り立ってしまう点が、射精との最も大きな違いだ。射精=イクというのはほとんど解釈の余地ゼロの自然科学的な事実のようなものだが、お尻でイクということは、双方の経験や知識を総動員した上での合意によってしか成立しない、非常にコミュニケーション的な要素の大きいものなのだ。という趣旨の内容の文章を、しっかり綺麗に整理してブログに載せようと思った。

 勤務中にこんな文章を書くことができるようになったのも、CatMemoNoteという、アプリ自体の不透過率を0%から100%まで1%単位で調整できるメモアプリを見つけたからだ。ディスプレイの目の前にいる自分が注視してギリギリ見える程度の不透過率10%に設定して、CatMemoNoteのアプリをコードの書かれたエディタに重ねるように立ち上げると、外からはエディタ上でプログラミングをしているように見える状態で、堂々と文章を書くことができた。もし後ろから急に同僚に声を掛けられても、アプリのウィンドウの外ならどこでもワンクリックするだけでCatMemoNoteの起動が終了するから、勤務中に文章を書くためにこれ以上に適したアプリもなかった。参画している複数のプロジェクトのそれぞれのリーダーに「今は他のプロジェクトの仕事がちょっと忙しいです」と言えば、三時間くらい暇な時間を簡単に創り出すこともできた。そういう風に文章を書く暇な時間を作り出して、書く。こんなことをしていると、システムエンジニアとしてのスキルが身につかず将来困るのかもしれないが、今の僕にとっては、お尻でのオーガズムというものをどう理解すればよいか考えることの方が大切であると思った。射精=イクという考え方でいた自分は、今まで世界の豊かさをかなり見落として生きてきたのだと思ったし、ここで考え方を変えなければ、死ぬまでずっとその豊かさを見落とし続けるのではないかと考えると、恐ろしくて仕方がなかった。
 
 夕方。LINEのポップアップ通知がデスクトップ画面右下に浮かんだ。表示されたのは「木村渉」の名前。木村先生からのLINEだった。画面を同僚と共有して仕事することも多いから、メッセージが他の人に見られないようにLINEのデスクトップ通知は名前だけ表示に設定してある。自分の後ろに誰も歩いてないことを確認し、木村先生とのトーク画面を開いた。

「今日の17時から、この前一緒に会ったソープランドの経営者の光本君と歌舞伎町で飲むので、よかったら来てください。何時でも、ご自身のタイミングで大丈夫です。お店は、最初に会った場所と同じです」

まさか、本当に木村先生から飲みに誘ってもらえるとは思わなかった。

「すいません、仕事終わるの18時なんで、18時半には到着できると思います!」

仕事のせいで飲み会に開始から参加できないことが歯がゆかった。17時59分になったところで、タスクバー右下の時計のところをクリックし、秒数まで表示される時計のウィンドウを開く。56、57、58、59、Windowsの時計アプリが18:00:00の文字列を示した瞬間に席を立ち、急いでオフィスを出る。帰宅時はエレベータが混みやすく、下手したら五分以上も待たされることがあるから、オフィスのある十階から階段を一段飛ばしで急いで降りる。明治通りでタクシーを拾い、新宿二丁目まで向かった。他人と飲みに行くためにタクシーを使うという選択肢は今まであり得なかったが、先生と会える時間は何ものにも代えがたいと思い、一刻も早く到着したかった。

 以前と同じ個室に入ると、木村先生と光本がいて、先生はまた姿勢よく正座していた。机の上には、サッポロ黒ラベルの瓶ビール。

「よく来たね。光本くんの隣座りなよ」

光本の隣の席に座ると、僕の席に用意されていたグラスに先生がビールを注いでくれ、「おつかれ」と乾杯をしてくれると、

「君のピンクサロンの本、読んだよ」

すごく真剣な表情だった。

「読んでくれたんですか、ありがとうございます」
「うん、面白かった。最後の女の子の紹介文の分析みたいなのは面白くなかったけどね。やっぱ最後って、読者が読んだときにどう思うか、大切なところだから。でも、そのほかは全部面白かった」

最後の終わり方は面白くないと言われたことについては少し悲しかったが、文章の順番を決めたのはヒッピーみたいな見た目の編集者だったから、編集者が悪いと思うことにした。それよりも、先生が自分の本を買って全部読んでくれ、そのうえ感想を伝えてくれたという、そのこと自体の嬉しさの方が何倍にも勝った。イロモノのエンタメ本以上の何物でもない扱いを受けることが多い本だけど、感想を言ってくれたときの先生の真面目な表情を見るに、エンタメ本というもの以上に僕の生き方が反映された文章として読んでくれたように思えた。ミリオンセラー作家の先生が、自分のような汚れの人間の本まで真面目に目を通してくれるなんて、その腰の低さが怖ろしいとも思った。とりあえずこの嬉しい気持ちを落ち着かせようと思い、テーブルの上にあったタコのから揚げに箸を伸ばすことにした。

「で、木村先生。新人の子で、ももちゃんって名前の、すごく性格の良い子がいるんですけど、今度はこの子とかどうですかね。性格がすごいピュアな子なんですよ。風俗で働く子って、やっぱり仕事に慣れてくると、お金に関する考え方が荒んできたり、お客さんのこと見下したりしちゃう子って、まぁ出てくるんですよね。最近だと、Twitterとかにお客さんの悪口とか書いちゃう子もいて、そういうのは売上に繋がらないのはわかりきってるから困ってるんですけど。ももちゃんは入店当初からずっとピュアなままで、お客さんの悪口とかも全然聞いたことないし、性格の根本がいい子なんですよね。先生の作品の中に出てくる女の子ってピュアな子が多いですし、ももちゃんみたい子が先生と相性いいかなって思うんですけど」

おそらく僕が来たことで中断されていたであろう話の続きを、光本が木村先生にし始めた。このあいだ聞いた話では、光本はもともと人材派遣会社のリクルートで営業職をやっていて、プライベートで歌舞伎町のソープランド『ピーター・パン』を日常的に利用していたところ、経営者と仲良くなって雇われることになり、そのまま三年でお店の代表まで上り詰めたとのことだった。その経歴を納得させるほどのプレゼン力、というか、わざわざ酒の場で酔っぱらった状態でもプレゼンをしてしまう、病的なプレゼン男だと思った。

「しかも、ももちゃん、プレイのときは絶対にウエトラ使わないって言うんですよ。私は誰に対してでも濡れる!って言ってるんすけど、でもそれ、お前が濡れやすい体質なだけだろって、思うんですけどね」

光本がひとりで歯を食いしばりながら、シッシッシッシッと、息とも声とも言えない音を出しながら笑い始めて不気味だった。木村先生は全く笑っておらず、僕の方を向いて口を開いた。

「最近ね、光本君と飲んで、お店の女の子を紹介してもらってるんだよ。光本君に紹介された女の子と遊んで、そのあと、こうやって一緒に飲んで感想を伝えるまでがセットなの」

遅れてきた僕が状況を理解できるように、わざわざ注釈の言葉をくれた。先生は孤独を知っている、優しい人だと思った。

「あ、そうなんですね。ってことは、今日も遊び終わりってことですか?」

「うん、そうだね」と、先生はタコのから揚げをひとつ口に入れて草食動物が草を食べるときのように口元をモソモソと動かした。

「へぇ~。今日はなんて名前の女の子と遊んできたんですか?」
「葵ちゃん」
「え」

思わず大きな声を出してしまった。先生は今度は少し顎をあげて、目元に微笑と皺を浮かべながら「葵ちゃん」と繰り返すと、口角をあげて綺麗な白い歯を覗かせた。ショックを悟られないように「あ、そうなんですね。いいっすね」と、先生の目を逸らさないように淡々と返すと、

「うん。俺ね、脚フェチだからね。葵ちゃん、すごく脚が長くて、白くて、綺麗でしょ。それが、すごく俺の性癖とマッチしたんだよね。人間って、得ている情報の9割近くが視覚からって言うでしょ? やっぱ、眺めていて綺麗っていうのが大事だからさ。もう、葵ちゃんの脚を眺めながら、自分で手コキするだけで満足できちゃうんだよ」

どうしてそんなことをわざわざ僕に嬉しそうに話すのか、と思ってしまった。この前は二人をくっつけようみたいなノリで接してきたのに。もしかして先生は、こういうマウンティングみたいなことが趣味なのだろうか。いや、僕はまだ葵さんと二回しか会っておらず、ろくに話をしたこともないのに、お店で遊んだ先生が目の前にいるというだけでこんなことを思ってしまう方がどうかしていた。と考えたところで、先生の『分裂』に出てくるシーンのひとつを思い出した。
 主人公の橋爪慎吾は、店舗型ヘルスで働くハツネにインタビューをしたあと、風俗を利用する男性にもインタビュー調査する中で、ハツネの本指名客である男と出会った。自分がインタビューをしたハツネという女性の本指名客にインタビューができるなんて、取材としてこんな面白い展開はないと思い、橋爪はその男に対し根掘り葉掘り質問をした。どうしてハツネのことを指名するのか、ハツネのどこが魅力的なのか、ハツネはどんなセックスをするのか、もしハツネがいなかったら自分はどうなっていると思うか、風俗嬢だからハツネのことが好きなのか、もし風俗以外のところで出会っていたとしてもハツネのことを好きになってたか、ハツネとお客さん以上の関係を持ったとして上手くいくと思うか、どのくらい責任をもってハツネのことが好きなのか。文字起こしのためにインタビューの録音を聞き返しているとき、ハツネの客に対して自分が敵意にも近い嫉妬の感情を向けて質問をしていたことに、橋爪は驚いた。
 いま僕が先生に対して抱いている嫉妬という感情は、既に『分裂』の中で細やかに描かれているような感情だと思った。だから、そんな作品を描いた先生はきっと、僕の中にもこうした感情が発生することを見越しているに違いないと思った。そのうえで、僕に対して葵さんの脚がどうだったとか言ってくるのだから、それは単なるマウンティングであるはずがなく、もっと深い意義があって言ってきているに違いないと思った。

「やっぱ葵さんって脚が綺麗なんですね。いいですね」

平気な振りをして、会話を進めることにした。というより、先生が相手であれば、自分の中の嫉妬の気持ちなんて、取るに足らないものにも思えた。嫉妬を抱きつつも、同じテーブルを囲いたいと思える男の人に出会ったことなんて今までなかったから、嬉しいことだった。

「お前も、うちの店を使いたかったら、光本スペシャルでお願いしますって電話してくれれば、四割引きになるからな。お店の取り分はなしで、女の子のバック料金だけで遊んでいいから、そうしたい時は光本スペシャルで、って電話で言ってくれよな。店長もスタッフの子もみんな知ってるから」

光本が気を遣ってかそう言ってくれたが、「いや、使うとしても正規料金で使うので大丈夫です」と断った。お店の人の知り合いという形で遊ぶのは、苦手だなと思った。「あんたも素直になればいいのにね」と先生は言うと、続けた。

「今日は予定があって無理みたいだったけど、今度、葵ちゃんも一緒に飲んでくれるって言うから、一緒に飲もうよ。また、誘うからさ」
「まじっすか、ありがとうございます」

また葵さんと会えるのだと思うと、嬉しかった。

「そういえば先生って、16時から女の子の予約してくれること多いっすけど、その前はいつも何してるんですか?」

なにかを思い出したように光本が言った。

「日によってやることは違うけど、今日は、いま書いてる連載のための取材に行ってた」

小説を書くために取材に行くんだ、と思った。「へー、小説書くのに、取材とか行くんですね」と、気になったことをそれとなく聞いてみた。

「うん。取材は毎回するね。あんたが好きって言ってくれた『分裂』のときも、歌舞伎町の風俗店に片っ端から取材に行ったし、実際に風俗で働く女の子の家まで行って、一緒にしばらく生活までさせてもらったりした。あんたの文章なんか読んでると、まだ書く対象と自分との距離が近すぎるよね。自分が経験したこと、ほとんどそのまま書いてるじゃない? そこが、まだまだだなぁと思うよ。もっと対象と距離が取れるようなものが書けるようになると、いいんじゃない」

思わず息を飲んでしまった。自分は風俗に行ってノンフィクションの文章を書いているだけだけど、先生は世界観のしっかりしたフィクションの文章を書いている。その違いがどこにあるか探りたくて、取材に行っているという話がヒントになると思い質問してみたら、僕が質問をしたくなった意図まで見越して、知りたかったことの全てを一辺に応えてきた。すごい人だと思った。

「すごいですね、ひとつ質問しただけで、聞きたかったこと全部に応えてもらえちゃいました」
「うん。俺、頭いいからね」

片側の口角だけ上げて、先生がにやりと笑った。かっこよかった。

 この日は、先生が家に帰ってからまた文章を書く、と言って飲み会は早めに終わった。お酒を飲んでから文章を書くのがまたいいんだよ、と言いながら飲み代を奢ってくれると、先生はタクシーで去っていった。

 まだ終電があったから、副都心線で池袋まで帰ることにした。家に到着して寝床についてから、葵さんが写メ日記に何を書いているのか気になった。スマホでブラウザを開いてURLのところに「葵」とだけ文字を打つと、シティヘブンの葵さんのプロフィールページがサジェストされるようになっていた。葵さんのプロフィールページにアクセスして今日の出勤時間の欄を見ると「16:00~17:00」の一時間だけだった。木村先生のためだけに出勤していたのか、と思った。出勤表の下にある、最新の写メ日記をタップする。

1/26 19:34
緊急出勤☆
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こんばんは、葵です✨

今日は突然の出勤となりましたが、予約して来てくれたお兄さん、ありがとうございました❗

脚が白くて綺麗ってずっと褒めてもらえて、恥ずかしかったですけど、すごく嬉しかったです🥰✨もっと綺麗にできるように、頑張りますね!

この前の日記で書いた、木村渉さんの『分裂』の話でも盛り上がっちゃいました😆好きな本の話で盛り上がれて、葵は幸せでした💕

また来てくれることをお待ちしてます❤️


先生のためだけに書かれた写メ日記だった。

 スマホの画面を消して目を瞑ると、瞼の裏に、先生と葵さんがセックスをしている映像が浮かぶようになってしまった。寝よう、寝よう、と思って頑張って目を瞑っても、瞼の裏に映像が映ってしまっては眠ることができなかった。寝る体勢を変えてみたり、照明の具合を変えてみたり、掛け布団を抱き枕のように抱いてみたり、枕の位置をずらしてみたり、どうにか眠れるようにならないか足掻いてみたけれど、瞼の裏に映る映像がうるさくて眠ることができなかった。ふと時計を見たときには、布団に入ってから三時間が経過してしまっていた。眠ろうとしても眠れないのは辛かった。瞼の裏の映像を消そうと、疲れた体を起こし、ズボンとパンツを膝のところまで下ろして、右腕の力だけで強引にマスターベーションをした。したいマスターベーションではなく、しなければならないマスターベーションだった。仕事だから無理に朝起きなければならないときのように、本能に逆らって体を動かさなければならないとき特有の怠さがつきまとった。途中、ティッシュを用意しておくのを忘れてたと思って、ベッドボードに置いてある箱ティッシュに手を伸ばしたら、中身が空っぽだった。わざわざベッドから立ち上がって部屋のどこかの棚に置いてある新しいティッシュを探す気力も湧かなかったから、空のティッシュ箱の中に出しちゃえばいいや、と思った。空のティッシュ箱を左手で持ち、右手でコントロールしながらティッシュ箱の真んなか目掛けて射精すると、精液の半分くらいは箱の中に入って、もう半分くらいは透明のビニールのビラビラした部分に飛び散った。そのティッシュ箱をゴミ箱まで持っていくのも面倒くさかった。精子は床にこぼすと後々取りづらい汚れになるから、精子が床に垂れ落ちないよう、ティッシュ箱を水平の状態に保ちながら、静かに床の上に置いた。今度は亀頭を拭かなきゃ、と思ったが、ティッシュは無いのだった。射精したあとは亀頭を拭かないと、翌朝にはパンツの中が生臭くなり、朝一番にトイレでパンツを下ろしたとき、その生臭いにおいを嗅ぐはめになるから憂鬱になるのだが、まぁ面倒くさいし、翌朝の自分が困ればいいやと思って、拭かずにパンツとズボンを上げることにした。パンツの一点に染みができた感覚があったが、気にしないことにした。いちど射精をしてしまえば、瞼の裏に勝手に映像が浮かぶようなことはもう起こらなくなって、目を瞑ればそこは真っ暗で、いつの間にか眠ることができた。

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 昼休み。池袋東口のグランドシネマサンシャインの二階にあるタリーズで、日暮里クンニ塾に関するブログ記事を書いていた。昼休みはいつもジョナサンで文章を書くことにしているけど、この日はタリーズにしなければならなかった。ジョナサンはテーブルも広いし、食事も安いし、ガストみたいにうるさい若者もいないし、電源もあるし、wi-fiの速度も良いのだが、難点として、インターネットの閲覧制限があり、18禁のサイトはアクセスできないことが多かった。タリーズはテーブルが小さく電源が無いところが欠点だが、インターネットの制限が存在しないという一点でジョナサンに勝っていた。この日は日暮里クンニ塾のサイトを見て調べものをしながら文章を書きたかったので、タリーズでブログを書くことにした。

 前の週の日曜日、鶯谷にある、正岡子規が晩年を過ごした「子規庵」というところで、若手作家七人によるトークイベントがあって、聞きにいった。自分ははてなブログを書いているだけで作家という自意識もないから、作家と呼ばれる人の文章との向き合い方なんて気にしたことがなかったけれど、木村先生に「まだまだだなぁ」と言われてから、作家と呼ばれている人がどんな風に文章と向き合っているのか、参考にしたいと思った。

 正直、木村先生の言うことには少し反発のようなものを感じていた。対象との距離が近く、自分に起こったことをほとんどそのままに書く文章の何が悪いんだ、と思った。今は誰でもブログが書けて、簡単に自分の経験を文章にできる。自分はそうした時代の流れに乗っているだけで、先生の時代はそうでなかった。ただそれだけのことではないか。要するに、先生の言う、対象との距離が近すぎない方が表現として優れているというようなことは、別に普遍性がある話なのではなく、単に生きている時代の違いによる考えの相違なのではないかと思った。自分の人生のノンフィクションな部分を切り売りするように文章を書いて、それが楽しく、世界の一端を掴めたような気持ちになれるのであれば、それでいいのではないか。もしかしたら同時代の若手作家と呼ばれている人たちも似たような感覚を持っているのではないかと思い、なにか参考になればいいなと話を聞きに行った。けど、トークイベントを聞いてみても、なんのタメにもならなかった。その作家の人たちの話がつまらなかったとか、参考にならなかったというわけではなく、作家のたった数時間のトークを聞いただけでは、自分の考えにてこが入るほどの影響は生まれないということがわかっただけだった。トークイベントのような遠い関係性ではなく、もっと近くで他人と関わらなければ、自分は何も考えが変わらないタイプの人間なのだと思った。

 トークイベントが終わってからすぐ、日暮里のラブホテル街まで徒歩で移動し、以前から利用してみたかった日暮里クンニ塾という風俗店を利用することにした。で、そっちの方が文章になるような刺激的な体験だった。結局、僕はいつだってこの身体に強く働きかけてくる経験からしか何かが生まれてこない人間なのだ。いや、そんなカッコいい話ではなく、単に性的な関わりでないと何も生まれてこない非常に俗っぽい人間というだけなのかもしれない。そして、やっぱり自分の性体験を切り売りするような文章を書きたくなってしまう。結局、これまでと何も変わらない結論になりそうだったから、もう少し踏み込んで、その性風俗での身体経験というものを疑ってみようと思った。

 どうして日暮里クンニ塾に行ったのか、ということについて考えてみる。半分は純粋な興味で、もう半分は、打算的な考え方だった。どんな打算かと言えば、日暮里クンニ塾はポリティカル・コレクトネス的にあまりに正しい風俗店で、文章にしたときのネット上のウケがいいに決まってることを見越しての利用だった。日暮里クンニ塾は、お金を払って、女性講師からクンニついて座学と実践で教育をしてもらい、最後に女性講師からクンニの点数評価がされるシステムの性風俗店だ。こういうのがTwitterやはてなブログ上で大いにウケることは火を見るより明らかだった。女の方が男より立場が上で、女が男のことを評価する。それに対して、男が金を払う。これ以上にわかりやすく女の方が上、男の方が下、という構図を作り出していて暴力性を感じさせない風俗店は他になく、それは今のインターネット環境と相性が良いものに違いないと思った。日暮里クンニ塾は誰のことも傷つけない風俗店であり、風俗界の、ぺこぱのような存在だ。

 こういった性と暴力性ということについて考えるときに思い出すのは、『聖なるズー』という本のことだ。ノンフィクションライターの濱野ちひろさんが、「ズー」と呼ばれる動物性愛者たちと共に生活をしたり取材をしたりしながら、その実態に迫ってゆく本だ。この本の中に、面白い指摘があった。濱野ちひろさんがズーと呼ばれる動物性愛者の人とコンタクトを取っていると、インタビューに快く応じてくれるのは、受けの人、つまりは、動物に犯されるのが好きだったり、動物が求めてくるからその手助けをしてあげていると主張する人ばかりで、動物に男性器を挿入する性癖の男の人は、取材を拒否したり、自らの動物とのセックスを赤裸々には語りたがらない人ばかりだったらしい。動物性愛の人のことを非難する人が想定しているのが、男性による動物への男性器の挿入にあり、そうした非難に曝されることを恐れて、動物に挿入する性癖の男の人はセックスについて語ることができないのではないか、ということだった。男性器の挿入だけが暴力的なものだとして語ることが許されないことも、受けの人が自らの動物との性行為は動物の支配とは異なる純粋な愛だと雄弁に語ることができることも、その両方が、男性器そのものを、あるいは、男性器を挿入するという行為に対して暴力性を見出す、あまりにも幼稚なミサンドリー(男性嫌悪)なのではないか、と濱野ちひろさんは問題提起していた。

 この男性器を挿入するという行為に暴力性を見出す感覚というものが、自分の中にも思い当たる節がありすぎるくらいにあった。はてなブログに上げる風俗レポの文章は、自分が受け身のネタばかりだ。M性感だとか、クンニ塾の話もそうだし、出版した『昼休み、またピンクサロンへ走り出していた』の中身のことを思い返してみても、本当にひどい。冒頭の文章で、小山のセクシービームという違法風俗店での真っ暗闇の中でのトラウマ的な挿入体験を書いたあと、ピンサロとか、オナクラとか、デリヘルとか、M性感とか、男の娘ヘルスとか、徹底して非挿入系風俗の話ばかりを書き連ねている。それも、過剰すぎるくらい過剰にユーモアで塗り固めた文体で。文章の内容も文体も、男性器を挿入することに対する強い嫌悪によって駆動されていると言っても過言ではない。

 で、それと比較して思い出すのは、やはり木村先生の『分裂』のとあるシーンである。ハツネの実家に転がり込み、ハツネとハツネの母キョウコと三人で共同生活を送ることになった橋爪慎吾。ある日、ハツネが深夜まで風俗の出勤がある日に、キョウコが泥酔した状態でひとり家に帰ってくる。「あんた、ハツネとばかりセックスしてんじゃなくて、私ともしなさいよ」と迫ってくるキョウコに引っ張られるように橋爪はベッドに招かれ、そのままキョウコとセックスをすることになる。まんこ舐めなさい、手マンしなさい、ちんこ挿れなさい。キョウコに言われるがままにセックスをし、キョウコが「イクッ…、イクッ!!!」とオーガズムに達しそうになった瞬間、橋爪は握り拳で思いきりキョウコの顔面を何度も何度もぶん殴る。キョウコが気絶したことを認識したあと、最後に思いっきり真上から拳を振り下ろしたところで、橋爪はキョウコの中に思いきり射精をする。

 これ以上にないほどの男性器の挿入に暴力性を見出す描写だと思った。こういった明け透けな暴力的なシーンが強いカタルシスを生み、木村先生の『分裂』はギリシャ神話のような世界観をつくる作品になっていた。フィクションの作品は、そんな風にノンフィクション作品では描けないような暴力を描けてしまえる点が強みであり、ノンフィクションでは表現できない深さを作品に与えることができる、と言えるのかもしれないと思った。それが、フィクションとノンフィクションの決定的な差だ。と、言えるだろうか。それがフィクションとノンフィクションの差のひとつの側面とまでは言えそうな気がするけど、フィクションとノンフィクションの差というものは、それが全てではないし、決定的と言えるのかも怪しい。少し、自分の悩みに引きつけて考えすぎたかもしれないな、と思った。自分はまだ、木村先生の作品が表現している世界の広さを理解できていないと思った。

 時計を見ると、12時55分になっていた。昼休みは13時までだから、タリーズを出なければならない。勤め人は、自分の中に考えるべき問いがあったとしても、昼休みの時間が終わりに近づくとその問いをいったん切り上げざるを得ない。フィクションとノンフィクションの違いなどという抽象的な問いよりも、午後の勤務を共にする飲み物を、おーいお茶にしようか、綾鷹にしようか、生茶にしようか、ほうじ茶にしようか、黒ウーロン茶にしようか、というような問いが前面にせり出してくる。抽象的な問いを深く掘り下げる時間が取れない歯がゆさがあるが、しかし、専業よりも兼業の方がかえってアイデアが出やすい、という話もある。結局のところ、どちらがよいのかわからない。木村先生と会ってから、自分の人生に付随する様々な問題が、どちらがよいのかわからない、というところで宙づりになるようになった。

 日暮里クンニ塾について調べたいことは昼休みに調べ終わったから、後は仕事をしてないと思われない程度には仕事を進めつつ、CatMemoNoteをエディタ上に立ち上げて不透過率10%のほとんど透明な文字でひたすらブログ記事を書くことにした。

 17時過ぎ。LINEのポップアップ通知で「木村渉」の名前が出てきた。先生のことを考えているときに限って先生から連絡が来るな、と思う。けど実際は、いつも先生のことを考えている自分がいて、ごくたまに先生から連絡が来るだけだ。客観的にはそうなのだとわかっているのに、先生からLINEが来ると、どうしても運命めいたものを感じてしまう。そして、運命の方に向かってゆくしか自分の人生の選択肢はなくなっている。

 後ろに誰もいないことを確認してLINEのアプリを開く。木村先生とのトークルームには二つ通知が来ていて「木村渉が写真を送信しました」という文言だけが見える状態だった。なんの写真が送られてきてるのかわからないから、職場のパソコンで開くのはさすがに気が引けた。席を立ってオフィスの外に出て、トイレの個室に入った。スマホでLINEアプリを開いて木村先生とのトーク画面を開き、送信された写真をタップして全画面表示にする。中華料理屋のようなところで円形テーブルを前に、木村先生と葵さんが体を密着させてピースサインをしている自撮り写真だった。写真のひとつ前に、メッセージがあった。

「葵ちゃんと歌舞伎町の中華料理屋で飲んでるけど、来る?」

今すぐに行けない歯がゆさなのか、木村先生が葵さんと二人でいることに対する歯がゆさなのかわからなかったが、胸のあたりにざわめきが沸き起こった。

「仕事中なので、18時半には着けると思います!」

その場でブラウザに「葵」と打ち込み、サジェストされた葵さんのシティヘブンのプロフィールページに飛んだ。出勤時間を確認すると「16:00~17:00」。今日もまた、葵さんは先生のためだけに出勤し、その流れのまま中華料理屋にいるのだということがわかった。

 17時59分になったところで、タスクバー右下の時計のところをクリックし、秒数まで表示される時計のウィンドウを開く。56、57、58、59、Windowsの時計アプリが18:00:00の文字列を示した瞬間に席を立ち、急いでオフィスを出る。オフィスのある十階から階段を一段飛ばしで急いで降り、明治通りでタクシーを拾い、歌舞伎町まで向かった。

 歌舞伎町の中華料理屋に到着すると、小さな円形テーブルの曲線に沿うように先生と葵さんが座っていた。「あんた、ここ座りなよ」と先生に言われれて、先生の隣に座る。正面には葵さん。

「お疲れ。飲みもの頼みな」

先生がメニュー表を渡してくれた。ドリンクのところを見ると、一番下のところに、もともと何かのメニューに上書きするように白いシールが貼られ、黒いマジックで乱雑に「タピオカミルクティー」と書かれていた。タピオカはもう流行りが終わりかけていたけど、飲んだことがなかったので気になった。

「タピオカ飲んだことないので、飲んでみたいですね」

「いいよ、頼みなよ」と先生が言うと同時に、

「私も飲んだことないから飲んでみたーい」

葵さんが先生の方に笑顔を近づけて言った。まるで付き合い立てのカップルのような甘ったるい声が、二人の距離の近さを示していた。「友達と飲んだりしないんだ?」と葵さんに聞いてみると、「うん、タピオカ飲みにいくような友達いないから」と言っていた。「お酒はいいの?」と先生が聞いてくれたので、先生がハイボールを飲んでいるのを見て「じゃあ僕もハイボールで」と言うと、「タピオカ2つと、ハイボール1つで」先生が頼んでくれた。
 
 テーブルの上に食べかけになっていた麻婆豆腐があったから自分の取り皿に移して食べていると、大きいグラスに入ったタピオカミルクティーが葵さんと僕の目の前に並べられた。緑色の太いストローの刺さったタピオカミルクティーを見ただけで、葵さんと二人でタピオカミルクティーを飲みながら若者が溢れる街並みを歩く映像が思い浮かんだ。歩いている街は、たぶん新大久保か原宿だったが、そのどちらにも行ったことがなかったから、自分が思い浮かべている街がどこなのかはよくわからなかった。とにかく、青空の綺麗な晴れた日の若者が溢れる雑踏を、タピオカミルクティーを飲みながら葵さんと二人で歩いていた。そしてその夢想は、タピオカミルクティーをストローでひとくち吸った瞬間にすべて消え去った。奥行の全くない薄い味のミルクティーに、カサカサになった人間の皮膚の塊のようなタピオカが入っているだけだった。喉を通った瞬間「おいしくないね」と反射的に口にすると、「うん、もうタピオカはいいや」と、葵さんも何かを諦めるような笑顔を浮かべた。

「おんぷちゃんも先生の本を読んだって、このまえ言ってたよ」

葵さんが先生の方を向いて言うと、先生が急いで僕の方を向いて、

「この前ね、光本君と、葵ちゃんと、それから同じお店のおんぷちゃんって女の子と、四人で飲んだんだよ」

と注釈をつけてくれた。あぁ、そうか。僕がいないところでも、先生は葵さんと会って飲んでいるのか。当たり前のことなのに、そんなことを想像すらできていなかった自分に驚いた。

「おんぷちゃんとさ、こんな小説書く人って、どんな初体験してんだろーって話になったの。先生の初体験って、どんな感じだったの」
「俺の初体験は、テレクラでした」

先生は天を仰ぎながら笑った。僕はそれを聞いて、自分の過去と未来を肯定してもらえたような気持ちになって、大笑いをしてしまった。やはり、都市の中で初体験を済ませた人は、こうして年を重ねても都市の中の性を生きてゆくのだと思った。

「さすが『分裂』みたいな小説を書くだけありますよね、先生。今もソープランドで葵さんを指名して、性を発散してるわけですもんね」
「こんな50歳になるとは、思いませんでした」

先生は見てる方が気持ちよくなるほどの自虐顔を浮かべながら、「葵ちゃんはどう思う? こういう50歳」と葵さんの方を向いた。

「えー、どうなんだろう。でも、私のお客さん、まじ気持ち悪い人多いから、先生なんて全然マシだよ。昨日なんて、プレイが終わってお風呂入ったときに、帰りたくない!って泣いちゃったおじさんいたもん」
「えぇー、それって何歳くらいの人なの?」
「ちょうど先生と同じ50歳くらい」
「そんな人いるんだねぇ」
「私のお客さんなんて、おじさんばっかだよ!」

先生が少し俯きながら「おじさんとか言うなよぉ」と、消え入りそうな声を発していたが、葵さんには聞こえていなかったようで、同じテンションのまま続けた。

「あっ、でも、おじさんだけじゃなくて若い人もたまに来るけど、若い人ほど、俺って若いから嬉しいでしょ? みたいな態度してきてうざいよ。若い人は触り方が下手な奴も多いし、たいしてお金も持ってないし、お客さんとしていいことって、あんまないよ。めちゃくちゃ痛い手マンされて、出血したこともあるし」

今度はまるで自分のことが言われているようで、僕が下を向いてしまった。自分の顔が引きつっているのがわかったが、顔の筋肉から力を抜くことができなかった。先生がどんな顔をしているのか気になって、横目で先生の方を見てみると、先生も横目で僕の方を見ていて、変な目の合い方をした。互いに互いの傷を癒すようでもあり、互いに互いのことをざまぁみろと思っているかのようで、目が合った瞬間に、お互い天を仰いで笑ってしまった。「ねぇ、私の客やばいよね?」と言いながら、葵さんが目を合わせて笑ってきた。よかった。みんな傷ついたときは笑ってしまう人なんだと思った。感情と表情がバラバラな人たちに囲まれると、安心した。

 それから一時間くらい飲み続けて酔いが深まると、先生と葵さんは目の前であからさまにイチャつくようになった。先生がトイレに立つとき、わざわざ葵さんの肩に手を置いたりし始めた。葵さんも、その先生の手にわざわざ自分の手を重ねたりした。その距離の近さは、セックスをした人間のそれ、というより、その手のやりとり自体がもうセックスだった。

「杏仁豆腐食べたいんですけど、頼んでいいですか?」
 
先生はデザートを食べる人ではないから、先生といるときはいつもデザートを頼まないようにしていたが、デザートでも頼まないとやってられないと思った。「俺はいらないけど、食べたかったら頼みなよ」と先生が言うと、「えー、私も食べたーい」と葵さんが言うので、杏仁豆腐を二つ頼むことにした。
 杏仁豆腐が来ると、先生は葵さんの方を向いて「一口ちょーだい、あーんっ」と、顔いっぱいの笑顔で口を開けた。葵さんは、「えー、どうしようかなーっ」と、わざとらしく焦らしはじめた。チャンスだと思った。僕は急いで杏仁豆腐をレンゲで掬って「はい、あーんっ!」と、先生の顔の前に差し出した。

「お前、めちゃくちゃ酔ってるだろ。普段はこんなことしないのにぃー!」

先生もかなり酔っぱらっている様子で、照れくさそうにしながらパクッと杏仁豆腐を食べて「おいしぃーっ!」と叫んだ。葵さんとイチャついてるときと同等かそれ以上の笑顔で食べてくれて、嬉しかった。葵さんの方を見ると「あーっ」と呟きながら頬を膨らませて、本当に悔しそうに僕の方を睨んでいた。可愛かった。先生の嬉しそうな顔も、葵さんの悔しそうな顔も、両方とも可愛かった。その二人の表情を見て、やっと呼吸ができたような気持ちになった。

「今から家に行こうよ」

先生の自宅で少し飲もうということになり、店を出ることにした。

 店を出て、タクシーを捕まえるために花道通りの方に向かって歩いた。歩道の両脇にはキャッチの男が溢れていて「お兄さん、お店お探しですか」「セクキャバどうですか」と、代わる代わる近づいてきては声を掛けてくるので、避けながら歩いた。ふと気づくと、三人で横並びに歩いていたはずなのに、隣を歩くのは葵さんだけになっていた。後ろを振り向くと、ガタイのいいキャッチの男の目の前で、子どもみたいな笑顔で突っ立っている先生がいた。来た道を戻って先生に近づくと、「おっぱいどうですか」と勧誘をするキャッチの前で、「いやいや、いいです、いいです。今から、行くとこがあるから」と、先生は律儀に断りの文句を入れているようだった。「小説のためにたくさん歌舞伎町の取材した人が、歌舞伎町初心者みたいにキャッチに捕まるなんてことあるんですか」と先生に声をかけると、「いや、いやぁ」と、悪いことをしてるのが見つかった子どものように苦笑いを浮かべるしかないようだった。「先生、行きますよ」と言ってキャッチから引き剥がそうとすると、「ごめんね。こいつと行くところがあるから。ごめんね」と、また先生がキャッチに律儀に断りの文句を入れたせいで「おっぱい20分だけでもいいんで!お願いしますよ、お兄さん!」さらにキャッチからの懇願が続いた。「先生、無視して大丈夫だから」と言ったところで、突然、腕を強く引っ張られた。引っ張られた方を見ると、顔いっぱいに笑顔を広げた葵さんが、右手で先生の腕を掴み、左手で僕の腕を掴み、花道通りの方へと引っ張るように歩いていた。先生の腕だけじゃなく、僕の腕も一緒に引っ張ってくれて嬉しかった。葵さんが先頭になって先生と僕のことを引っ張って歩くと、キャッチは歩道の脇から出てこなくなって、モーセの海割りのように目の前に真っすぐな道が開いた。このままずっと、どこまでも真っすぐに歩いてゆきたいと思った。

 花道通りに出たところでタクシーを拾うと「あんた助手席に座りなよ」と先生に言われたから僕は葵さんの腕から解放されて助手席に座った。先生と葵さんは、二人で後部座席に座った。「とりあえず赤坂の方に向かってください」先生が言ってタクシーが発車してしばらくすると、後ろからリップ音が響いてきた。先生の首の後ろに回る葵さんの白く細い腕、先生の首元に顔を埋める葵さんの横顔、先生の口角の上がった口と白い歯がバックミラーに映っていた。タクシーの運転手のおじさんも、こういうのばっか見せられて大変だなぁ、と思った。他人の心配でもしてないと、落ち着いていられることができなかった。

 タクシーが赤煉瓦のマンションの前に止まった。タクシーを降りると、先生が僕と葵さんを置いてけぼりにするくらいに速いスピードでマンションの中に歩いて入ってゆくので、慌ててその後ろをついていった。エレベータで三階まであがり、先生の家に入った。玄関のすぐ先は大きなリビングで、ダイニングテーブルの上には、出版社からの献本が茶封筒に包まれたまま山のように積まれていた。キッチンを見ると、料理をしている気配はなく、500mlのハイボールの空き缶が調理場を埋め尽くすように五十缶近く並べられていた。

 リビングの奥にある書斎に案内されると、本棚付きの大きな机に、デスクトップPCが置かれ、27インチくらいの大きさのモニター二台が横に連ねられていた。

「ちょっとこれ見てよ」

先生がパソコンの前の椅子に座ると、マウスを使ってエクスプローラーを開き、フォルダの中にある「登場人物.docx」という名のWordファイルを開き始めた。

「今連載してる小説の中で、今度、この子が出てくるんだよ」

画面に映されたWordファイルには、登場人物の設定や性格が細かく文字で書かれていて、黒髪ボブで丸顔の、背の高い女の子のイラストがいくつか貼られていた。明らかに、葵さんだった。

「このイラスト、どうしたんですか?」
「これはね、知り合いのデザイナーさんに作ってもらったの。小説書くにしても、こういうイラストがあると違うからね。人間の情報の9割は、視覚だからさ」

そう言いながら、先生はWordファイルをスクロールし、10枚近くある葵さん似の女の子のイラストを見せてきた。

「へぇ~、他のキャラはどんな感じなんですか?」

と言うと、

「なんですぐ他の見ようとするの」

すぐ後ろから葵さんの声がした。振り返ると、ちょっと誇らしげな笑みを浮かべながら僕のことを見下すような顔をしていて、憎らしい顔だと思った。

「あんたも、わかりやすいよねぇ」

小ばかにするように笑ってくる先生の顔も憎らしく、今すぐにでもこの二人の前から立ち去りたい気持ちになった。

「まぁまぁ、そこに座りなよ」

先生が書斎の隅にあったソファ席の方を指さした。僕は壁側のソファに座り、テーブルを挟んで反対側のソファに、葵さんが座った。先生はリビングの方から500mlのトリスハイボール缶を三本持ってくると、机に置き、葵さんの隣りに腰を下ろした。乾杯をして一口飲むと、先生は急に自身の左足のジーンズをまくり上げ、「俺は、ここに入れ墨が入っているんだ」と、左腿に掘られた入れ墨を見せてきた。すると今度は「葵ちゃんは、右腿に入れ墨が入っているんだよ」と嬉しそうに笑って、先生の左腿のすぐ隣にあった葵さんの右脚のショートパンツの裾に手を入れてめくりあげ、葵さんの右腿に掘られた入れ墨を見せてきたかと思うと、白い肌の顕わになった葵さんの腿を撫ではじめた。

「やだーっ、もうっ」

葵さんは先生の首元に飛び込んでキスをした。二人は、たいそう楽しそうだった。入れ墨がある人間は、入れ墨がない人間とは別の世界に住んでるとでも言いたげな親密さだった。三人の中で、入れ墨が入っていないのは僕の体だけだった。体がソファに釘打ちにでもされたかのように重くなり、表情は自由を失うばかりだった。そんな僕の顔を嘲笑うかのように、二人はイチャイチャしながらも、時折こちらに視線を飛ばしてきた。ツイキャスでセックスの配信をしているカップルでも見せられているような気分だった。

「じゃあそろそろ、終わりにしようか。俺、寝る時間だから」

ハイボールを一缶だけ飲んだところで、先生が言った。時計を見ると、23時だった。先生はその作風から奇才と評される人だけど、生活自体はルーティンがしっかりしていて、規則正しく早く寝る人だった。村上春樹も、早寝早起きとジョギングをしていると聞いたことを思い出した。作家として第一線で活躍している人は、健康を大切にしているという点は共通なのだと思った。

「これで、帰ってよ」

三万円を渡してくれた。僕と葵さんのタクシー代だった。

 先生の家を出る前に、アプリでタクシーを呼んだ。マンションの下に着いたときには、タクシーが止まっていた。葵さんと一緒に後部座席に乗りタクシーが発車すると、葵さんの白い手が僕の手の上に重なってきた。細くて長い指は、ひんやりと冷たかった。どういう意味なのかと思って葵さんの顔を見ると、いつもみたいに無邪気に笑っていて、暗いところで見ると笑顔に浮かぶ陰影がちょっと怖いと思った。タクシーが走り出すと、その冷たくて白い指が僕の太腿をズボンの上からゆっくりと撫ではじめた。アルコールで輪郭が薄れていた体は、葵さんに撫でられた部分だけくっきりと線が浮かび上がって、言葉が溢れだしてきた。

 僕は、先生と比較して自由な時間もないし、お金もないし、才能もなかった。先生は専業で文章を書いてそれで飯を食っているが、僕はやりたくもない昼職の隙間時間にお遊びのように文章を書いているだけだった。先生は取材をして小説を書くことで一つの世界を作り出しているが、僕は何の世界観も作り出せない、まるで男性器の挿入から逃避でもするかのような性体験の切り売りをブログに投下しているだけだった。先生に「まだまだだなぁ」と言われても、先生と自分の決定的な違いがどこにあるのか、見つけることができないでいた。こうして葵さんが隣にいるのも、先生がたまに一緒に飲みに誘ってくれるからであって、僕は自分から葵さんのことを誘ったことなんて一度もなかった。そのくせ独占欲だけは一人前に強くて、目の前でいちゃつく二人を見て勝手に何度も傷ついていた。葵さんに撫でられた僕の輪郭は、先生に対する絶え間ないほどの劣等感で成り立っていた。

「すいません、僕、そこの駅で降ろしてください」

「えっ、一緒にタクシーで帰ればいいのに」という葵さんを尻目に、「いいよ、なんか悪いから」と言って、赤坂見附駅の前で降ろしてもらい、東京メトロ線を乗り継いで池袋に帰った。

「昨日もありがとうございました🙏また機会あったらよろしくお願いします。お店に遊びに来てくれるの、待ってますよ🥰」

 翌朝。出社するためにスーツに着替えながらスマホの通知を見ると、葵さんからまた営業のLINEが届いていた。そのメッセージを読んで、やっぱり風俗は知人に会いに行くような場所ではないのだな、という思いを改めて強くした。自分のことを知っている人と一緒にいると、劣等感にばかり苛まれてしまう。お金を払ってまで、そんな思いはしたくなかった。匿名で知らない人とセックスができるから、風俗は素晴らしいところなのだ。匿名になることは社会からの逃避であり、射精することは意識からの逃避だった。その二つが揃って初めて、この自分ではない何かになれる気がした。

*

「オレ史上最高の飲み会をするから来ないか?」

 休日の昼下がり。光本からLINEが届いた。二週間後、歌舞伎町のガールズバーを貸切って自分のお店のソープ嬢20人と男性客40人を集めて、合コンイベントをするという内容だった。男性客の参加費はひとり一万円だけど、お前は後輩だからタダにしてやる、その代わり、乾杯の音頭を頼むぜ!という依頼も書かれていて、一番最後に、当日参加予定のソープ嬢のプロフィールページのURL一覧が並べられていた。その中には葵さんのものもあった。「ぜひ参加させてください、乾杯の音頭も頑張りますね」と返信をし、木村先生も誘っていいかと聞くと、もう既に誘ったけど、人見知りだから大人数がいるところには来ないということだった。

 光本からラインが来たその日に、Amazonで乾杯の音頭に使えそうな小物を探した。「仮装 面白い」などのワードで検索し、表示された商品を片っ端から眺めていった。男性器を模した着ぐるみが目につき、タップして商品ページに飛んだ。頭から足まで全身を覆うようなサイズの着ぐるみで、大きすぎて嵩張りそうだから微妙だと思い、ひとつ前のページに戻ろうと思ったが「この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています」欄のところに、やけにリアルな造形の亀頭のマスクがあったのが目についた。その亀頭のマスク - Amazonの商品名で言うところの「ペニスのマスククリエイティブ人格特性ハロウィンコスプレパーティープレイシングおかしいいたずらコスチュームキャップ偽装トリックCockmask Headgeaマスク」- の商品ページをタップした。商品自体は二千円近くのリーズナブルな値段だったが、イギリスから配送されるものしか在庫がなく、送料を含めると一万円以上するようだった。その金額の高さが、かえって購買意欲を高めた。こんな精巧な亀頭のマスクを今まで見たことがなかったし、わざわざひとネタのために一万円以上を出す人もいないだろうから、このマスクにはおそらく新規性があり、被って人前に出るだけでウケるのではないかと思った。普通の飲みの場であればその造形のリアルさは気持ち悪すぎて引かれてしまうものだと思ったが、エロを生業としている風俗店の合コンイベントであれば、突き抜けたリアルさの亀頭マスクは爆笑に繋がると違いないと思った。それに、せっかくタダで参加させてもらえるのだから、このくらいの身銭は切ろうと思い、購入することにした。

 当日。亀頭のマスクをしっかりリュックの中に入れたことを二度三度と確認し、会場となる歌舞伎町のガールズバーへ向かった。区役所通りにある、大きなビルの四階だった。ビルの一階にあった看板を見ると、四階のフロアにはパブのような飲み屋や、いかがわしいエステのテナントが入っていて、そうしたお店と並ぶように会場となるガールズバーがあるようだった。エレベータで四階まで上がると、店のドアの前には男性客の長蛇の列ができていた。「ちょっと来て来て」と、店のドアから出てきた光本に誘われて部屋に入った。左手は一面がカウンターで、右手には真っ黒なソファとガラスのテーブルがいくつかあり、部屋の隅の天井には大きなディスプレイ、その下にカラオケがあった。部屋の中にはソープ嬢と思われる女性が数人いて、会場のセッティングをしていた。もう開場時刻が迫っているけど準備が間に合っていないから、各テーブルに缶のお酒と乾物を置くのを手伝ってくれと言われたので、手伝うことにした。カウンターのところで葵さんがドン・キホーテの大きい袋から大量に缶のお酒を出していて、取りに行くと、

「乾杯するんでしょ? 頑張ってよ」

と言ってくれた。文化祭みたいだな、と思った。開場時刻になると、続々と男性客と、それから遅れてきたソープ嬢たちが入ってきた。約40人の男たちがソファの席に座り、お酒や乾物が全てのテーブル席に行き届いて落ち着いたところで、僕はカウンターの内側に隠れ、リュックから出した亀頭のマスクを用意してスタンバイした。

「皆さん、本日はピーター・パン初の合コンイベントにご参加いただき、ありがとうございます。キャストのみんなも、参加してくれてありがとう。風俗店のこういうイベントって、女の子としては顔出ししたくないとか、身バレが怖いとか、いろいろ葛藤があって、それでも参加してくれる子がこんなにたくさんいるって、本当に有難いことなんですよ。だから、今日は来てくれた女の子のためにも、皆さんで最高の会にしましょう。それではさっそく、乾杯をしたいと思います。乾杯の音頭をしてくれるのは、こちらの方です。どうぞ!」

マイク越しの光本の声が響いてきた。亀頭のマスクを被り、目のところに入った小さな切れ込みから見える暗い足場を頼りに、カウンターの裏から歩いてみんなの前に飛び出した。てっきり、登場しただけで爆笑が沸き起こるものだと思っていたのだけど、マスクの小さな切れ込みから外の様子を見るに、男性客はこちらを見て黙り込んでおり、ソープ嬢たちは「なになに?」「え、なに?」「えっ」という戸惑いの声を漏らしているようだった。僕は、自分の身に何が起きているのかを一瞬の内に理解した。出オチのネタでこの反応をされたということはスベッたということを意味していて、この空気をこれから挽回する手段を自分は一切持ち合わせていないということを。こうして実際に人前でスベってみると、スベる可能性は事前に想定し、スベッたとき用の対策を事前に用意しておくべきだったと思うのだが、不思議なことに実際にスベッてみるまでそんなことは考えつかないものだな、と思った。でも、これくらいのスベりは別に平気なことだと思った。少しくらいスベッたところで、乾杯役は乾杯の音頭さえしっかりすれば、乾杯はそれっぽく終わるものだ。乾杯でなにかふざけてスベったとき、本人にとってそのスベりは凄く気になるものだが、存外、他の人からすれば、大して知りもしない誰かがスベッたことなんて記憶に残らないのが常である。ウケるとかスベるとかいうのは乾杯という行為にとっては些末なことにすぎず、乾杯の本質はやはり乾杯をすることにあるのであり、その本質さえ見誤らなければ何も問題はない。要は、切り替えが大事なのだと思った。僕はスベッたことなんて無かったことのように、堂々と大きな声を出した。

「えー、皆さん。本日は、お集り頂きありがとうございます。最近は風俗店の合コンイベントが流行ってますが、20人というたくさんの数のキャストの女性が集まる合コンイベントは、見たことがありません!」

と言ったところで、なにやらさっきよりも周りがざわついている気配があった。いったん喋るのを止めて、マスクの外の声に耳を澄ました。

「聞こえない、聞こえないよ」
「おい、何言ってるかわかんねーよ」
「マスク外せ、マスク」

男性客からの怒号ばかりが響いていた。亀頭のマスクで口も完全に覆われているから、マイクが僕の声を全く拾っていないようだった。亀頭の中の僕の声が聞こえるのは、亀頭の中にいる僕だけだった。想定外のことでパニックになり、急いで亀頭のマスクを脱いだ。脱いだ瞬間、みなが無言でこっちを向いて、場は完全にシラけきっていた。そりゃそうだ。マスクを外せば、どんな顔の人間が出てくるのか、人は否応なく期待してしまう。やくみつる似の顔の無名の男が出てきたら、誰だってなんの反応もすることができず、こんな空気になるに決まっていた。もう全てが嫌になって、

「すばらしいお店ですっ!乾杯っ!」

とだけ叫んだ。あまりにもパニックになって床を見ながら早口で言ってしまったから、誰ひとり乾杯についてこれなかった。「おいおい!」と突っ込みを入れてきた光本が「かんぱ~いっ!」と大きな声で言い直し、やっとみんなは綺麗に乾杯をした。

 乾杯の後は、ソープ嬢20人の自己紹介タイムだった。カウンター席の前に横並びになったソープ嬢たちが、ひとりずつ一歩前に出て、源氏名と、趣味と、好きなプレイを言い、男性客が拍手する流れが続いた。全員の自己紹介が終わると、ソープ嬢が客の座っているソファ席に散り散りになって座り、一人のソープ嬢が複数の客を相手に酒を飲みながら会話をする、キャバクラみたいな状態になった。僕は乾杯の音頭で失敗したこともあって、誰かと明るく過ごす元気もなくなっていた。カウンター席の一番隅の席で、ひとりで缶チューハイを飲むことにした。ソープ嬢と男性客が楽しそうに飲んでいるところを遠くから眺めながら飲むのも、悪くなかった。

「それでは、指名タイムのお時間です!」

しばらくすると、マイクを通した光本の叫び声が響いてきた。

「この場に来てくれた女の子の予約を今ここで宣言してくださった方には、お遊びの際に、コース料金から五千円引きさせて頂きます。そしてそれにプラスして、なんと、今ここで女の子からキスまでしてもらえるサービス付きです!」

破廉恥なゲームが開始されたようだった。光本が喋り終わると、40人の男性客の方にソープ嬢たちの視線が集まり、男性客はお互いの様子を伺い合っていた。誰が最初に手を挙げて指名に乗り出すのか、というプレッシャーの渦が沸き起こるなか、しばらくの重い沈黙のあと、黒縁眼鏡の恰幅のよい40歳くらいの男が、静寂を切り裂くように手を高く挙げた。

「うぉーーーーっ!!!」

会場が揺れるくらいの歓声が沸き起こった。光本がその中年男性のところに近づき「どの女の子を指名しますか」とマイクを口元に当てると、「葵さんでお願いします!」中年男性は声を張り上げて言った。葵さんは、やはり人気な人なのだと思った。黒縁眼鏡の男がソファから立ち上がると、葵さんがその男の前まで移動した。

「キースッ!キースッ!キースッ!キースッ!」

中高年男性たちの太く低い声と、ソープ嬢たちの高く力強い声の合唱が響き渡った。こういうときのソープ嬢の声の力強さというのは、目を見張るものがあった。腕を後ろで組んで棒立ちになる黒縁眼鏡の中年男に、葵さんがゆっくりと距離を詰めてゆく。

「キースッ!キースッ!キースッ!キースッ!」

二人の唇があと10cmくらいのところまで近づいたとき、葵さんの口から長いベロが伸びた。

「きゃぁーーーーーーーーーーっ!」

ソープ嬢たちの悲鳴のような声が響き渡った。それとは対照的に、全男性客は葵さんのべろちゅーを静かに身を乗り出しながら眺めていた。やったな、と思った。葵さんは、遠くからでもわかるようにベロを出してキスをした。生粋のエンターテイナーだと思った。
 その後も、十人ほどのお客さんがその場でソープ嬢を指名し、キスをしたり、ハグをしたりしてもらっていた。初っ端の葵さんの伸びる舌ほどの歓声が上がることはなく、指名タイムはどんどんと下火になり、皆それぞれの席でお酒を飲みながら会話をする元の状態へと自然に戻っていた。

 イベントが始まって一時間くらい経ったところで、入口のドアから、茶髪のロングヘアの女の人が入ってきた。合コンイベントに遅れてやってきたソープ嬢のようで、僕の隣に座ると、二重幅の大きな堀の深い目をこちらに向けてきた。

「今日さぁ、光本さんに呼ばれたから来たんだけど。私、他の女の子と一緒にいる空間とか苦手なんだよね。ここに来ても、ギャラが出るわけじゃないし。だったら、普通に出勤してた方がマシだよね」

初対面なのに、もう何年もの付き合いのバーのマスターに愚痴を言うみたいに話しかけてきた。年齢は、同い年くらいだろうか。やけに不貞腐れている人だと思ったが、乾杯でスベッた僕には、その不貞腐れ具合が丁度よかった。

「初めまして。なんてお名前なんですか?」
「あぁ、そうだね。初めまして。お店の名前? あまねだよ」
「ありがとうございます。あまねさんは、お休みの日とか、普段は何してるんですか」
「え、ニコニコ動画で歌ってみたとか踊ってみたの動画を投稿してる」
「すごいですね」
「再生数あるものでもないし、全然すごくないよ。マジ、踊ってる姿とかやばいから」
「え、じゃあ何か踊ってみてくださいよ」

「ここで?」といったんは躊躇したあと、「じゃあ、ちょっとだけね」とスマホをいじると、『涼宮ハルヒの憂鬱』のエンディングテーマ「ハレ晴レユカイ」が流れ始めた。

「ナゾナゾ みたいに 地球ぅ儀ぃをぉ 解きぃ明かぁしたらっ♪」

カウンターの席に座ったまま、あまねさんが歌いながら踊り始めた。その不貞腐れた感じからは想像できないほどの真剣なアカペラと、上半身の動きだけでもわかるキレのあるダンスだった。僕はあまねさんの歌とダンスに合わせて、体を揺らしながら手拍子を打つことにした。乾杯というクリエイティブな仕事で失敗をしたあとだったから、手を叩くだけの単調な仕事は天職のように思えた。

「時間の果までboooon!! ワープで~ ループな~ この想いは♪ 何もかもをぉ 巻き込ぉんだ 想ぉ像で~~~ あ・そ・ぼうっ♪」

と歌いながら、自分の頭をぺちんと平手打ちする振りつけを踊るあまねさんの姿を眺めていると、傷心した心がふっと軽くなった。

「イロイロ~ 予想が~ できぃそうでぇ できぃない ミライっ♪」

あまねさんの歌が二番に差し掛かったとき、視界の端の方から、明らかに酔っぱらった笑顔の葵さんがこちらに向かって勢いよく走ってくるのが見えた。そのまま減速する気配もなく近くまで走ってくると、僕が踏ん張らなければ椅子ごとひっくり返ってしまうくらいの勢いで後ろ向きに膝の上に乗ってきた。視界が葵さんの背中でいっぱいになった。葵さんの肩越しに、あまねさんが歌とダンスを止めてしまったのが見えた。

「ねぇ、いつお店来てくれるのー? 来てよー」

葵さんが腰を振りながら言った。揺れる黒髪ボブから、甘い香りが漂ってきた。

「知り合いの人のお店に行くのが嫌なんです」
「え~、来なよ。来ればいいじゃん」

そう言いながら、葵さんが僕の股間のところの何かを指先でつかむと、

「これ、亀頭?」

と言ってきた。乾杯で亀頭のマスクでスベッたことをいじってきているのかと思ったが、単純に質問として聞いているだけのようだった。自分でも何が触られているかわからなかったから、葵さんが触っているところを自分でも触って確かめてみた。亀頭じゃなくて、右の金玉だった。

「それは、右の金玉だよ」
「え、これ金玉なの。ってことは、おてぃんてぃすは左寄り?」

自分の男性器がどっちに寄っているのか、それは日によっても状況によっても変わるもので触ってみないとわからなかったから、触って確かめた。

「左寄りでした」
「えー、先生は右寄りだったよ」

先生のちんポジがどっち寄りかなんて、別に知りたくなかった。股間のところをいじっていたら自分の尿意に気がついたから「ちょっとトイレ行ってくる」と言って葵さんに上から降りてもらい、入口のドアのすぐ横にあるトイレの方に向かおうとすると、「私も行く」と葵さんもついてきた。トイレのドアを開けて中に入ると、洋式便器が一つだけある、一人用のトイレだった。葵さんも半分トイレの中に入ってきていたから、悪ふざけで一緒にトイレの中に籠ってやろうと思った。トイレのドアを閉めようとすると、近くにいたソープ嬢が「えーーーっ!!!」と大きな声をあげた。すると、すぐに力強くドアが開いた。顔全体が均一に真っ赤になった、光本が立っていた。

「お前、調子乗んなよ」

アルコールで体が受けたストレスを、全て僕のせいにするかのようなジリジリとした怒り方だった。

「乾杯の挨拶もスベりやがってさぁ」

なんだこいつは、と思った。後輩だからタダで参加させてやると言ってきたくせに、実際は乾杯でスベらないことまで求めてくるのかと思った。そんなのは奢りじゃなくて、交換だ、と思った。参加費をタダにしてやるからしっかり芸をしろなんて要求は、普通の売買と何ら変わらないと思った。光本は、本当の意味で他人に奢れる人ではないのだと思った。だいたい、最初の乾杯でスベったことをこのタイミングで咎めてくるのがおかしかった。咎めるタイミングは、他にいくらでもあったはずだ。光本という人は、女の人を自分の所有物にしたいという感覚の延長で仕事をしている経営者なのだと思った。僕が葵さんとトイレに籠ったことは、光本のその所有欲を傷をつけたに違いなかった。だから、このタイミングで何かと理由をつけてこんなに怒ってくるのだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

怖かったから平謝りしてトイレの外に出ることにした。もう、光本が面倒くさいからお店の女性と絡むのはやめようと思った。冷静になって会場を見渡してみると、ソープ嬢はソープ嬢同士で、お客さんはお客さん同士で固まっている席もチラホラあった。ソファ席の隅の方で、四十代から五十代の中年の男三人が固まって話しているテーブルがあり、席が一つ空いていたからそこに座ろうと思った。その中のひとり、四十代くらいの太った男と目が合った。前髪が少し後退していて、赤ちゃんのようにやけに綺麗な白い肌をしている男だった。

「さっき、葵さんがお兄さんの膝の上に座ってましたよねぇ。んふんっ。あなたの、膝の上に。んふぅ、羨ましかったなぁ。んふふふふふっふん!んふふふっふん!」

漫画やアニメのキャラクターでもあり得ないような鼻息の吹かし具合だった。

「いやいや、葵さんは、みんなにそういうことをする奔放な方じゃないですか」

本心の言葉を返したが、葵さんが自分の上に座ってくれた優越感のようなものがあったことも本当だった。

「葵さんみたいな子は、なかなかいないですよね」

黒ぶち眼鏡で狐目の、四十代くらいの浅黒い男が淡々とした口調で言うと、「そうでふねぇん。んふっ!んふふんっ!」と、太った男が鼻息を重ねた。狐目の男の口調が、葵さんのことをさも理解しているような物言いだったから「葵さんとよく遊ぶんですか?」と、聞いてみると、

「指名したことが何度かある程度ですね。まぁ、ハマッてはないんですけどね。ふふふふふふふふふっ」

狐目の男は狐目の男で「ふ」を連発する奇妙な笑い方だった。

「わかりまふぅん!葵ちゃんって、別にハマりはしないんですけど、いい子なんだよなぁ。んふっふんふ!んふふぅ!」
「わかります、わかります。ちょうど、ハマりはしないんですよね。ふふふふふふふふふ」

「ふ」と「んふ」の交錯が起こるなか、「これは内緒なんですけどね、」と、この中では唯一、話し方になんの癖もない、白髪交じりですずめの巣のような髪型の、縁がシルバーの眼鏡をかけた初老の男が、静かだがよく通る声で続けた。

「葵さんって、すごく人気な女の子じゃないですか。ランキング1位にもよくなりますし、お店のエースレベルですよ。でもこれには一つ理由があって、皆さんはなんでかって知ってますか? 実は、葵さんの裏には、電通の男がついていて、全てプロデュースしてるんですよね。プロフィール写真とか、写メ日記の文章とか、全部その電通の男にプロデュースしてもらってるんですよ。いつその電通の男と付き合ったのか明確にわかる時期があって、2019年の3月からプロフィール写真とか写メ日記の質が変わるんですよ。次の月の2019年4月から、ランキングに乗り始めたんです。どう思いますか? ずるいですよね。電通って副業禁止だから、僕はタイミングが来たら電話してやろうと思ってますよ」

葵さんの裏に電通の男がいるなんて聞いたことがなかったし、葵さんの写メ日記は裏に有能な人の影が見えるような内容でもなかった。この老年の男は、ホスラブかしたらば掲示板に書いてあることをそのまま鵜呑みにし、電通陰謀論に加担してしまっているのかもしれなかった。さすがにこの男の陰謀論に対しては「ふ」も「んふ」も飛んでくることはなく、二人はきょとんとした表情をしていた。
 その悪い空気の流れを打破しようとしたのか、狐目の男がいちど周囲を伺ったあと、ガラステーブルの中央に向かってスマホをスッと滑らせた。液晶は煌々と光っていて、なにか一枚の写真が全画面表示で映っているようだった。よく見ると、葵さんとその狐目の男が、どこかの大衆居酒屋でビールジョッキ片手にツーショットの自撮りをしている写真だった。葵さんはビールの横で、いつもと変わらないとびきりの可愛らしい笑顔をしていて、ビールのCMの一コマみたいだった。その写真を見た狐目の男が口を開いた。

「んふっ!? こ、これはぁ~? い、いい写真でふねぇん! んふっ!えぇ、すごい!んふふふんっ!」
「いえいえ、ありがとうございます。ふふふふふふふ」
「こ、こんな写真持ってるんんでふねぇ!じゃ、じゃあ、私も、とっておきの見せちゃおっかなっ。んふ!んふふふんぅ!」

太った男の口からガラステーブルの上に唾がたくさん飛び散った。そんなこともお構いなしに、太った男は白く太い手を使って、狐目の男と同じようにガラステーブルの中央にスマホを滑らせた。スマホの下敷きとなった唾の粒が引き延ばされて線状に拡がったが、太った男はそのことも気にしていないようだった。スマホから手が離れると、細かい粒状の手汗がカラフルに照らされた画面に映っていたのは、ディズニーランドでミッキーの帽子を被りながら、太った男と葵さんがピース写真をしている自撮り写真だった。太った男の薄い前髪はペチャンコで目も潰れていて、その濡れた髪と水滴を厭うような目元が、その男が汗まみれであることを伝えてきたのだが、その隣で葵さんが男と頬を合わせながら、一滴の汗とも無関係そうな可愛らしい笑顔でいて、リトルグリーメンのカチューシャが似合っていた。

「い、いいい、いい写真ですね。ふふふふふふふ。つかぬ事をお伺いしますが、これは、プライベートで葵さんと一緒に行かれたんでしょうか? それとも、お店のデートコースを利用して行かれたんでしょうか?」
「んふっ! えっと、ごめんなさいごめんなさい! そちらさんが居酒屋いったときは、どうだったんでふか? んふぅ! プライベート? それとも、デートコース利用? んふふ、すいません! そんな風に聞かれると、ついつい気になっちゃったもんで、んふんっ」
「いえいえ、そんなに謝らなくても大丈夫ですよ。ふふふふふ。ですが、すみません、先に聞いたのはこちらの方なので、先にそちらから応えてもらってもよろしいでしょうか? 私の方はそちらが教えてくれたら、しっかり言うので、大丈夫ですよ。ふふふ。安心してください。ふふふふふふふふ」
「んふふふふっ!いやいや、別に私はいいんですよ、教えてもらわなくたって! んふっ! 別に私から教えてほしいなんて、一言も言ってないでふからねっ! んふふふん! ただ、そちらさんに聞かれたからちょっと気になっちゃったってだけの話で、別にこっちから言い始めたわけでもないんでふん!もしそちらさんが先に教えてくれるなら、私の方も教えても別にいいですよっ、て話なだけでふ!本当に!んふんふんふ」
「そうですか、はい、わかりました。わかりました。では、私の方から言いますね。いいですか? 言いますよ。私が言ったらそちらも言うっていうのは、さっき約束しましたからね。お願いしますよ。約束だけはお願いしますよ。ふふふふふ。私は一応、プライベートで葵さんとデートさせて頂きました。お店を通さず、です。ふふふふふふふふふ」
「んふぅ!そうなんですね!プライベートですか、いいでふねぇ。んふぅん! では約束なので、私の方も応えさせてもらいまふね。自慢ではないんですけど、まぁ、でも言わなくちゃいけないってことにどうしてもなってしまったので、まぁ言わせてもらうと、私ももちろん、プライベートでディズニーランド行きました! んっふふふふっ! 葵さんがディズニーランド行きたいって言ってきたんでんふ! 偶然、チケットが手もとにあったんで! 誘ったら簡単に来ました! んふふふうふふんっ!」
「あぁ、そうだったんですね。ふふふふふふふふ」

「では、私も一枚」

太った男と狐目の男が熾烈なバトルを繰り広げるなか、電通陰謀論者の老年の男が、皺だらけの手でガラステーブルの中央にスマホをスッと滑らせた。スマホに映された写真を見ると、どこかの和風旅館のベランダ。後ろには崖いっぱいに広がる紅葉したもみじと、その下には川が流れていて、葵さんと二人で浴衣姿で部屋のベランダで撮ったツーショット写真のようだった。ここでもやはり、葵さんはとびきりの可愛らしい笑顔で、青色の花模様の浴衣姿が似合っていて綺麗だった。

「んふんっ!こ、これは旅館ですかぁ!? え、お泊りでふか!? 日帰りですか? そこが気になっちゃうなぁ、んふふっんふぅ!」
「こ、これは凄いですね。ふふふふふふふふ。確かに、お泊りなのか、日帰りなのか。それから、プライベートなのか、デートコースなのか、そこが気になるところですね。ふふふふふふふふふ」

太った男と狐目の男があからさまに焦った表情をしていると、老年の男が、

「お泊りなんですけど、私の場合は、お店のお泊りデートコースを利用させてもらっただけなんですよね」

と、黄色くなった歯をわざとらしく食いしばりながら、悔しそうな表情で言った。

「あっ!そーなんでふね!んふっ!んふふっ! なんだぁ、お店を通してのデートコースの話でしたかっ!となると、我々の話とはちょっと違った話になってきまふねぇ!んふ! お泊りデートコースとなると、相当お高いんでしょーねっ!あれって、一緒に時間過ごすだけでも、何十万とかするんじゃなかったでしたっけ? いやぁー、凄いなぁー。葵さんと一緒にいたいってだけでそんだけお金払えるのも、一つの能力でふよ!んふふっふっん!」 
「ふふふふふ。葵さんをデートコースで利用する方って、確かにいますよね。まぁ、葵さんは可愛らしい方で、性格も魅力的な女性なので、他の人よりもたくさんお金を支払うことで店外のデートしたくなるって考えは理解できますよ。ふふふふふふ。それはごくごく自然な気持ちだと思いますので私は否定はしませんが、たまに葵さんと遊ぼうかなと思ってお店に電話すると、その日は貸切りだからって断られて、困ることあるんですよね。ふふ。本当は貸切りじゃなくて葵さんが当欠してるだけなんじゃないかと疑っていましたが、いやあぁ、本当に貸切りしてまで葵さんに会ってる方がこんなところにおられました。会えて光栄です。ふふふふふふふふふふ」

ソファが揺れるような勢いで太った男と狐目の男が安堵の言葉を次々と吐き出すと、老年の男は今度は一転して真顔になり、

「うっそーん。本当はプライベートで2人で旅行に行ったンゴ」

と言い放った。場は一瞬にして静寂に包まれると、あとは乾いた笑い声が響くだけだった。

「んふぅん!んふふうふふふ!んふんふ!ふ!」
「ふふふふふふっ、ふふっ、ふふふふふふふふ」

なんだこの地獄の鼎談は、と思ってしまった。こんな気持ち悪い人たちと長い時間は一緒に居たくないな、と思い「ありがとうございます、またどこかで機会ありましたら」と挨拶をして、席を立つことにした。

 いつの間にか予定の終了時刻の22時も過ぎていて、会場の雰囲気はだいぶ変わっていた。光本は自分のお店のキャスト四、五人に囲まれながら、ソファの席に肩をかけ、偉そうにお酒を飲んでいた。「あいつ、私の名前間違えやがって」と、他のソープ嬢に怒っているソープ嬢もいれば、「今日だけで三人から指名されちゃった」と他のソープ嬢へのマウンティングに精を出しているソープ嬢もいた。男性客はどんどんと帰宅していて、あまねちゃんは気の合う友達を見つけられたようで、他のソープ嬢の女の子と二人で「ハレ晴レユカイ」のカラオケを歌いながら全力で踊っていた。

 なんか疲れたからもう帰ろうと思って、部屋を出て、一階まで降りるためにエレベータに乗った。狭いエレベータの中でひとりになると、さっき同じテーブルを囲った気持ち悪いおじさん三人の地獄の鼎談のことを思い出した。僕の葵さんへの好意の気持ちの行く末が、あの地獄に通じているのかと思うと、とても現実を受け入れられない気持ちになった。でも、あの気持ち悪いおじさんたちが受け入れられるなら、葵さんは僕のことも受け入れてくれるのではないか、と思ってしまった自分がいるのも事実だった。自分の歩んでいる先が地獄だと知った瞬間には、もう地獄に一歩足を踏み入れているような気持ちだった。

 エレベータが一階に着いてドアが開くと、ペットボトルの水がたくさん入ったコンビニ袋を持つ、葵さんがひとりで立っていた。目が合った葵さんの顔は、真顔だった。初めて見る表情だった。ひとりでいるときの葵さんは、こんな顔をしているんだと思った。えらく寂しそうに見えた。誰かといるときの葵さんはいつも笑っているから、そのぶん真顔が寂しそうに見えるのかもしれなかった。

「もう帰っちゃうのー? もっといればいいのに」

真顔のまま葵さんが言った。「明日も仕事あるから、帰る」と返すと、葵さんが真っすぐ近づいてきて、黙ったまま倒れこむようにハグをしてくれた。右足を一歩後ろに引かないと支えられないほど、なんの躊躇もなく全身を預けてきた。誰かといるときの葵さんではなく、ひとりでいるときの葵さんがそのまま胸に飛び込んできたように思えたけど、ハグをしたときにはもう顔が見えなくなっていたから、本当のところはわからなかった。「水もっていきなよ」と葵さんがペットボトルの水を渡してくれた頃には、もういつもの笑顔になっていた。「ばいばーい」と小さな声で呟いた葵さんがエレベーターに乗ると、ドアが閉まり終わるまで頬を丸くして微笑みながら、顔の高さの位置でずっと手を振ってくれた。

 家に帰ってから、葵さんからもらった水の残りを飲み干し、布団の中に入った。アルコールが体中を巡るなか、葵さんのことについて考えていた。合コンイベントで出会った気持ち悪いおじさん三人のスマホの中に、まるでPhotoshopで合成したみたいに可愛らしい笑顔の葵さんが遍在していた。正直、それは僕の理解を越えるものだった。葵さんは、もっと人を選んでいるものだと思っていたし、あんな気持ち悪い人たちとプライベートでデートしている理由もよくわからなかった。

 何か葵さんのことを理解できる手がかりがないかと思い、シティヘブンの葵さんのプロフィールページを開き、写メ日記を確認しようと思った。更新日が2日前になっている、最新の写メ日記を開いた。

2/24 19:12
明日消します
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こんばんは、葵です。

写メ日記にこんな愚痴を書くべきではないことはわかっているのですが、限界なので書かせてください。あとで消します。

最近、仲良しさんから立て続けに「外で会おうよ」と誘われて、悲しくなります。葵は、遊んで頂いてる時間を仲良しさんたちと楽しく過ごせるように、一生懸命頑張ってるつもりです。もし満足頂けなかったのなら、私の力不足です。ごめんなさい。でも、「もう外で会おうよ」とか言われると、私がやってきたことはなんだったんだ、私にはお店で会いたいほどの魅力がないんだ、って悲しい思いになります。他の子はプライベートでも会ってくれたよ、なんてことをわざわざ言ってくる人もいます。だったら、その女の子と遊んでください。このお店には、私より魅力的な女の子がいっぱいるのはわかってます。

LINEでプライベートな連絡をしてくるのもやめてほしいです。予約のLINEを頂けるのは嬉しいですが、今なにしてるのとか、仕事の後にご飯行こうよとか言われると、困ります。仲良しさんたちの中には、そんなことを一切言わずにお店の中だけで綺麗に遊んでくれる方たちもいます。誰か特定のお客さんを特別扱いすることは、その方たちを裏切ることにもなりますし、したくありません。

しばらくはLINEでの予約はやめにしようと思います。返事しませんので、これからは予約はお店を通してお願いします。この日記はあとで消します。

葵さんのことが、余計にわからなくなってしまった。わからなさすぎて、頭の中に言葉が浮かんでこなくなった。どうすればいいのかと思った。一つずつ、自分がわからなくなっていることを整理しようと思った。

 誰か特定のお客さんを特別扱いしたくないと書いていることが、よくわからなかった。葵さんは、特定の人と店外デートをしているし、木村先生とも飲みにいっているのだから、どうしてこんな日記を書くことができるのだろうと思った。気持ち悪いおじさんたちと会っているときは、楽しいのだろうか。木村先生と一緒に会っているときは、楽しいのだろうか。本当は、嫌なのだろうか。葵さんの本当のところの気持ちはわからないけど、どこにいても同じようにとびきりの笑顔の葵さんがいた。だから、余計にわからなかった。というか、葵さんは、木村先生だからお店の外でも会っていたのだと思っていたのだけど、気持ち悪いおじさんたちとも普通に店外で会っているのが一番ショックだった。あの気持ち悪いおじさんたちと、木村先生は、葵さんの中では同列なのだろうか。なんか、何もわからないな、と思った。僕は、葵さんのことなんて何ひとつ理解できていないのだな、と思うしかなかった。

 葵さんのことを何ひとつ理解できていないということを一度認めると、自分の偏見の方がかえってクリアになってきた。葵さんは、力の強い者の方に靡く人間だから先生と仲良くしているのだと思っていたのだけど、それは、自分のことを葵さんに投影していただけだったのだと思った。木村先生のことを尊敬し、木村先生のことを好きだったのは、明らかに僕の方だった。葵さんは最初から、そんな理由で木村先生と一緒にいたのではないのかもしれなかった。

 どうして自分は、こんなに先生に囚われてしまっているのだろう。先生の作品は、間違いなく僕の人生に影響を与えていた。作者である先生に実際に会っても、その影響は薄まるどころか、強まるばかりだった。先生は僕と会う前から作品を通して僕に影響を与えていたけど、僕は先生に何も影響を与えていなかった。そういう一方的な状態で先生と出会った。その非対象さは、親と子のようなものだ。子が親のことを自分にとって必然な存在だと思うことから逃れられないように、僕は先生との関係を、あるいは、先生と葵さんと僕との三人の関係を、それが必然なものであると思い込みすぎているようだった。先生の『分裂』に浸りこんだ大学生のころのように、先生との飲み会という物語の中に浸りこんでしまった。その物語の中の登場人物の一人としてしか、葵さんのことを見ることができていなかった。僕は先生と会ってから、葵さんのことなんて何ひとつ見えていなかったのだ。

 体がポカポカとしてきた。ポカポカと温かい気持ちが血管を通して体中を巡り、体の隅々まで行き渡った頃にはもう世界中に飛び出していた。本棚の中で倒れている本に、アパートのすぐ下を通る酔っ払いの奇声に、窓の外で煌々と輝くサンシャインビルに、全てを照らす月明りに、世界の全てに体温が感じられるようになった。大学生のころに出会った、ドイツの哲学者ゲオルク・ジンメルの言葉を思い出した。

完全に知っている者は信頼する必要はないし、完全に全く知らない者は、当然のことであるが、信頼することなどできない

温かさの正体は、葵さんに対する信頼の気持ちなんだと思った。自分のことを投影して、葵さんのことを自分はよくわかっている、と勘違いしているときには湧きようのない感情だった。葵さんのことがさっぱりわからなくなって、葵さんのことを言葉で捉えることができなくなって、それでも葵さんのことを考えようとしたときに湧き出てきたこの温かい気持ちは、信頼の気持ちなんだと思った。

 葵さんとのLINEの画面を開いた。「お店に遊びに来てくれるの、待ってますよ🥰」そのメッセージを素直に受け入れようと思うことができた。ただの営業LINEだなんて解釈は、僕の思い込みに過ぎなかった。葵さんは、本当に僕のことを待ってくれているのかもしれなかった。ずっとお店に行かないと突っ張っていたのに、何度も連絡をしてくれてありがたかった。葵さんと、セックスがしたいと思った。葵さんはソープランドで働いているから、セックスをしようと思えばすることができた。僕がセックスをしたいかしたくないか、それだけが問題だった。これほどまでに純粋に自分の意志だけが問われるセックスもなかった。シティヘブンにアクセスしてお店に電話をし、翌日の葵さんの予約をした。

*

 副都心線で池袋から新宿三丁目駅に向かい、葵さんが働いているソープランドへ歩いて向かった。今から葵さんとセックスをするんだ、初めて知り合いの人とセックスをするんだと思うと、足がすくんで体が重くなる感じがあった。通りがかりにあった店舗型ヘルスに逃げ込みたい衝動にも駆られたけど、自分は葵さんのことを信頼しているんだということを思い出して、葵さんがいるお店の方に歩を進めた。

 『ピーター・パン』の玄関に入ると、スーツ姿のボーイのおじさんが迎え入れてくれ、靴を脱ぐと、控室に案内された。控室には一人掛け用の黒いソファと小さな机のセットがいくつも同じ向きに並べられていて、部屋の正面には十冊くらいの週刊誌が立てかけられているラックと、大きなテレビ一台が置かれていた。

「お飲み物は何になさいますか」

ひざまずいたボーイの男にコース料金を支払うと、ドリンクメニュー表を渡してきた。トマトジュースを頼むことにした。すぐに、黒服がトマトジュースと卓上塩をお盆に乗せて持ってきた。塩を振ったトマトジュースを飲みながらテレビの方に目をやると『真相報道 バンキシャ!』が映っていて、夏目三久アナが落語家の春風亭昇太の結婚を報道していた。おめでとう! と思った。自分にとって誰か信頼できる女性がひとりでもいるときは、ソープランドの控室であっても他人の結婚を心から祝うことができた。

 後ろの方で、階段を下るいくつかの足音がしたかと思うと、

「ありがとう。またねー。元気でね」

女性の声が響いてきた。僕よりひとつ前の客を送り出す、葵さんの声だとすぐにわかった。後ろを振り向いて、どんな客が帰ってゆくのかその姿を確認しようと思ったが、それはしない方が賢明だと思ってやめた。

 前の客が帰ってからしばらくすると、ボーイの男から名前が呼ばれた。案内される方についてゆくと、茶色の大理石の上に赤絨毯の敷かれた廊下が真っすぐに伸びていて、廊下の途中にあった上り階段の前に案内された。その階段の途中、二段か三段上ったところに、バニーガール姿の葵さんが立っていた。黒い布から伸びる白い肢体が綺麗だった。視線を上にあげて葵さんの顔を見ると、目が合った瞬間に口角が上がって頬が丸くなり、

「ウケるっ」

とだけ言うと、手を引いて、小走りで上の階の部屋まで連れていってくれた。

 葵さんが案内してくれた部屋のドアを開けると、十畳ほどの広さの部屋に、ピンク色のシーツが何枚も敷かれたベッドと石柄の浴槽があり、グレーのマットが部屋の隅に立てかけられていた。浴室の中にベッドがあるような部屋だと思った。

「ここ、座りなよ」

ベッドの上に手の平を向ける葵さんに誘われて腰かけると、隣に座った葵さんがその白く長い脚を僕の脚に絡めてきて、僕の手を取ると、葵さんの太腿の上に置いた。指に力を入れて葵さんの太腿を触ると、細い見た目から想像するよりもしっかりとした肉づきを感じた。葵さんは身長が高いから太ももがその分細く見えるが、触るとしっかりした肉づきがあるんだと思った。視覚というものは嘘をつくのだと思い、葵さんに少しだけ近づけたような気がした。

「本当に来てくれたんだ。えー、まじウケるんだけど」

悪戯な笑みを浮かべながら、葵さんがシャツを脱がせてきた。

「えー、脱ぎなよ。これも脱ぎなよ。これも」

葵さんがどんどんと僕の服を剥いでいって、下着も脱がされて、あっという間に裸になった。

「おてぃんてぃす、やっと会えたねー」

男性器を握りながら伏し目がちに葵さんが笑うと、キスをしてくれた。僕も葵さんのバニーガールの衣装を脱がせて、お互い裸の状態で、座ったまま抱き合ってキスをした。

「ウケる。ウケる。ウケる」

唇を離す度に、ウケる、ウケる、と笑いながら、葵さんが何度もキスをしてくれた。唇を甘噛みされて舌を軽く絡められた頃には、勃起した。知り合いの女の人の前で勃起できるのかわからなかったから、少し安心した。それから、葵さんが目を瞑りながら、唇の外側まで汚すようにどんどん舌を絡めてくれた。「葵さん、すごいキスがお上手ですね」なんて、わざと茶化すように言ってみると、「なぁにぃ~」と葵さんが笑った。茶化したことを言うと、その瞬間だけ飲みの場で見ていたときのような笑顔が出てきて、安心した。どういう顔をして、知り合いの人と裸でスキンシップをすればいいのか、わからなかった。

 葵さんを仰向けに寝かせて、またキスをして、初めて見る葵さんの裸体を上から眺めていった。白くて長い首。首元に陰影を形づくるように水平に伸びる鎖骨。重力で平べったくなった胸。細い腕は二の腕と前腕の太さが変わらなく、くびれのラインは自然だった。そのどれもが柔らかさを含んでいて、少年が大人の女性になったような体だと思った。女性器を囲う皮膚は毛穴もなくつるりとしていて、右腿には入れ墨。

「あれ。入れ墨、左腿じゃなかったっけ?」
「それは先生でしょ?」

脳裏に木村先生のニヤリとした顔が浮かんで、僕の男性器はすぐに小さくなってしまった。男社会における権力や優越性の象徴的なイメージとして男性器が比喩として用いられることがあるけど、先生の名前を聞いただけで文字通り男性器が小さくなってしまうなんて、僕の体は比喩も理解できないバカな体なんだと思った。あぁ、そうか。だから僕はこうして裸で葵さんの前にいるのか。イベントの物販コーナーで初めて会ったとき、「おてぃんてぃす描いてください」と白色のシリコン製スマホケースを渡されて、男性器の画を描いて渡した。僕の体は、その行為を比喩だと思えなかったのだ。僕の男性器おてぃんてぃすはあの頃からずっと、葵さんの手の中にあったのだ。

「なんで、おてぃんてぃす小さくなっちゃうの」

葵さんが飽きれるように笑いながら上体を起こし、男性器を口で咥えてくれた。

「葵さん、チューしてほしいです」

フェラチオは、なんだか葵さんが遠くにいってしまうような感じがして寂しかった。キスをすると、僕が葵さんの目の前にいることが確認できて、その間は、葵さんの見る世界の中に居れるような気がした。

 それからお互い前戯をしあって、ベッドの上で横になりながら、キスをしているだけの時間が続いた。ここで「セックスをしたい」と、葵さんにしっかり伝えたいと思った。ここはソープランドだから、このまま僕がベッドの上に寝そべっているだけでも葵さんの方から最後までしてくれることは想像に容易かった。でも「セックスをしたい」と、言葉で伝えたいと思った。それを言っても言わなくてもセックスができるソープランドという場所で、「セックスをしたい」と伝えたいと思える女性に出会えたことは、幸運なことだと思った。でも、その表現方法がわからなかった。これまで風俗でしか性行為をしたことがなかったから、セックスをしたいと誰かに伝えたことなんて人生で一度もなかった。どんな風に言えばいいのか見当もつかなかったけど、どうにかその言葉を口にすることが大切だと思った。信頼というものは、自分の中に秘めている間は得られることができないものだ。自分の内側を外側の世界に放り出して、自分では制御できない世界に曝されて初めて、信頼というものは成立する可能性に開かれるものだ。僕は、葵さんのことを信頼してここに来たはずだった。だから上手く言えなくても「セックスをしたい」と伝えようと思った。

「葵さん、おセックスがしたいでしゅっ」

言葉を発するだけで視界が曇ってしまうのは初めての経験だった。視界に暗い靄がかかるなか、葵さんは落ち着いた表情でベッドの近くにあったゴムを取り出して、口を使って装着してくれると、僕の上に跨った。
 
 葵さんが僕の胸に両手をついて、腰を上下させるように振った。葵さんの中は、温かかった。葵さんの顔を見ると、内巻きの黒髪ボブが顔を覆っていて、真剣な表情をしている鼻と口元くらいしか見えなかった。股を広げながら上下に腰を振る葵さんを見ながら、あぁ、セックスをしているな、と思った。けど、セックスをしたいということを、自分はまだ体で伝えることができていないな、とも思った。正常位にならないと、体に意志が宿らないように思った。上体を起こして、葵さんのことをゆっくりと押し倒し、正常位の体勢で腰を振ると、仰向けになった葵さんが僕の肩のあたりに強い力でしがみつきながら、聞いたことのないような大きな声をあげて、葵さんの体全体が痙攣しているかのように震え始めた。さっきまで葵さんの顔を覆っていた髪は後ろに落ちて、葵さんの顔が顕わになっていた。腰を振りながら、上から見下ろすように葵さんの顔を見ると、目は確かに開かれているけど、涙のようなもので光るその黒い瞳には、僕の姿は映っていないと思った。目の前にいる人間が、誰であってもいいようなセックスをする人だと思った。迷子のような気分になった。自分のいる物理的な場所は明らかであるのに、自分がどこにいるのかわからなくなってしまうような迷子だった。小学生のころ、似たような体験をしたことがある。家の近くの神社で、友達とかくれんぼをして遊んでいたときのことだ。神社の中にあった森の中の大きな楠の陰に隠れて周囲の木々の間を眺めていると、なんだか自分が消え失せてしまいそうな感覚に陥って、早く鬼が僕のことを見つけてくれますように、と祈ることがあった。葵さんの瞳を見て感じたのは、そうした畏怖の感情に近いものだった。
 そんな怖さに怯える僕とは裏腹に、男性器は葵さんの中で力強く勃起していた。それでいて、射精は全くしそうになかった。力強い勃起と射精感の欠如は、不思議と矛盾に思われなかった。自分の男性器が、なんの管も通っていない空っぽの真っ白い肉の棒になってしまったようだった。その肉棒を突き刺すように腰を振り、葵さんの顔をもう一度見下ろした。やっぱり、この瞳に僕の姿は映っていないと思った。こんなに真正面から、葵さんの顔を眺め続けることができたのも初めてだった。目が開いているのに眠っているようで、大きな喘ぎ声をあげながら静寂の中にいるようだった。綺麗な生き方をする人だ、と思った。それはそのまま、生きていてよかった、という気持ちでもあった。変な高揚感があった。ずっとこのままの状態でいたいと思ったその瞬間に、そのまま本当に時が止まってしまったかのような高揚感が、体全体に持続していた。

プルルッ!プルルッ!プルルッ!

甲高い電子音が部屋中に鳴り響いた。終わりのないセックスを中断させたのは、コース時間終了十分前を告げる受付からの内線の電話だった。

「お風呂入る?」

抱き合って何度かキスをしたあと、葵さんが聞いてくれた。うん、入るね。と返事をして、ベッドから降りて、石柄の浴槽の方に向かった。歩き始めると、眩暈がした。セックスのとき、呼吸を忘れていたのだと思った。湯舟に入ると、葵さんが白色の入浴剤を入れてくれた。僕が入浴している間、葵さんは洗面器の中に泡をつくり、シャワーから出た熱いお湯を風呂場全体にばらまいていた。

 ポンッ、ポンッ。長い手足を折りたたむようにしゃがんでいた葵さんがスケベ椅子の頭を叩くと、乾いた音が宙を打った。その音を聞いて、やっと現実に戻ってこれた気がした。音に導かれるように湯舟から出てスケベ椅子に腰を下ろすと、葵さんが洗面器いっぱいの泡を僕の体に塗りたくり、腕を僕の背中に回して上半身を密着させながら洗体をしてくれた。皮膚に触れた葵さんの体がスベスベだった。「スベスベですね」と言うと、「スベスベー?」と言いながら、僕の体の上で踊るように洗ってくれた。そうやって上半身を使って脚まで洗ってくれると、今度は葵さんが膝立ちになって、男性器にたくさんの泡を乗せた。泡に包まれた男性器を両手で擦るように洗いながら「イケなかったねー」と呟いた葵さんの顔の方に目をやると、口を開けっぱなしにして子どもみたいにへらへら笑う表情と、目が合った。




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