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キスの前の歯磨き。あるいは、トマト缶を美味しく食べる方法

 トマト缶ほど怠い食べ物もない。

 最近、YouTuberの某イタリアンシェフにハマっている。そのシェフがYouTubeに投稿している、生トマトを使ったパスタと、トマト缶を使ったパスタの、両方を作ってみた。それで、生トマトを煮詰めて作ったパスタの方が、断然に美味しいと思った。

 生トマトとトマト缶の味の違いを言葉にするのは難しい。それは、そもそも生トマトの美味しさを言葉にするのが難しいところにも依っていると思う。甘味と酸味、フレッシュさと奥深さ、そうした一見相反するような要素が、トマト缶よりも生トマトの方では調和している。しかもそれは、トマトという個体の中だけで完結しているのではなく、トマトを口に含み、咀嚼し、飲み込むという人間の一連の動作の中で、その度ごとに様相を変化させながら、しかし食べ終わったあとには口の中に一つの調和が残っているという、そういう美味しさであると思う。

 トマト缶で最も失われているものがあるとすれば、そうした意味での調和だ。トマト缶にだって、程度は違えど、酸味もあるし、甘味もあるし、フレッシュさもあるし、奥深さもある。しかし、それらはどこか調和しないまま並列していて、口に含み、咀嚼し、飲み込むという人間の一連の動作の中で様相の変化はあまり生じず、自分の身体とは無関係に均質な味が胃に流れこんでゆく感じがする。生トマトを食べているときは味に没入できる意識は、トマト缶を食べているときにはどこか身体と解離してしまう。僕がトマト缶を使った料理を食すときに過去の怠い記憶を思い出してしまうのも、きっとそのせいだ。

 高校生のころ。僕はテニス部に所属していた。通っていた高校の運動部の中で、最もやる気がない人間が集まるのがテニス部だった。顧問は一年に一回くらいしか顔を出さないし、コーチもいなかった。いくら練習してもいいし、いくら休んでもよかった。テスト前には部活を休みにして勉強に集中することもできたから、他の部活の人に比べて比較的楽に成績を伸ばすこともできた。「大学生のテニスサークルみたいな部活だな」と、まだ大学のテニスサークルがどんなものかも知らない仲間たちと口にしていた。

 そんなテニス部に入った理由は、少しの運動と、『運動部所属』という肩書きが欲しかったからだ。体育会系の人間の方がでかい顔をしている高校だったから、運動部に所属している方が日常生活の摩擦は少なかった。
 いや、本当はそんなスクールカーストのようなものは自分の中だけにあった幻想だったのかもしれない。それを痛感することになったのが、文化祭の日だった。

 一年に一度の文化祭では、文化部は部活ごとに出し物や展示があった。その他はクラスごとに出し物や展示があり、運動部として何かするということはなかった。文化祭の日の文化部の人たちの展示物のレベルの高さというのは素人目に凄いものに見え、普段は目立たない(というよりも自分たちが注目していなかっただけだが)文化部の同級生の顔の輝きを見て、どこか居心地の悪さを感じた。目を向けたくなかった事実に直面せざるを得なかった。勉強も運動も適度にこなして器用に生きている、と思いこんでいる自分たちだけ、なにも打ち込めることがなく、ダラダラと時間を浪費しているだけなのだ。そのことを痛感させられた。怠いな、と思った。認めたくなかったからかそんなことを直接口にはしなかったけど、テニス部で仲の良かった友人三人で「なんかつまんないね」と言って、文化祭のほとんどの時間を部室の中で過ごすことにした。

 部室に置きっぱなしになっていた誰のものかわからない漫画を読んだりゲームをしたりしながら時間を潰した。友人と顔が合えば「なんか楽しいことないかな」などと言い合って、結局その日は、文化祭が終わってから近くの公園にある遊具の中に友人三人と籠って缶チューハイを飲み、体育祭で踊らされるその高校独自の体操をバカになりながら全力で踊るという、高校という国家に対する歪んだナショナリズムを発露する結果に終わった。

 トマト缶の料理を食べると思い出すのが、文化祭の日に直面した、自分たちの生き方にへばりついていた「怠さ」だ。トマト缶の中のトマトに、高校生のころの自分を重ねてしまうのだ。偏差値のような均質的に評価された力だけを器用に身につけて、精を出す場は持てず、周囲との調和も生まれない。果たして自分が生トマトほどポテンシャルのある人間だったのかという話は別として、高校生のころの自分はトマト缶の中のトマトだった。

 「どうにかトマト缶を美味しく食べたい」と思ったのは、そうした過去の自分を、怠さの中から救いたいからかもしれない。

 トマト缶を美味しく食べようとまず試したことは、新宿伊勢丹のシェフズセレクションでトマト缶を買ってみることだった。美味しいと人気のモンテベッロの有機トマトホール缶と、その隣に置いてあったアルチェネロの有機トマトホール缶を買ってみた。1缶400円もしたから、近くの肉のハナマサで買った100円もしないトマト缶と比べると、かなり高めだ。

 帰宅して、トマト缶をそのまま味見したりしながら、パスタを作ってみた。確かに、美味しいと言われているトマト缶はそのまま食べても美味しいし、もちろん調理に使っても美味しかった。それでも、トマト缶を食べると思い出す「怠さ」を克服したいという目的においては、トマト缶の優劣はあまり大差ないもののように思えた。美味しいトマト缶も、やはり生トマトに比べると、自分の身体との調和は生まれない。どこか均質的な味が流れ込んでゆくだけだった。伊勢丹に並んでいたのはオーガニックなトマト缶ばかりだったが、オーガニックなトマト缶と非オーガニックなトマト缶の違いは、田舎で怠く生きてる高校生か、都会で怠く生きてる高校生かくらいの差でしかなく、怠いことに変わりなかった。そもそも、僕は田舎で生きてきたから、僕自身がオーガニックなトマト缶の中のトマトだったのだ。オーガニックなトマト缶を買ったところで、その怠さが克服されるはずもない。

 隘路に陥りそうになっていたときに救いの手を差し伸べてくれたのは、YouTubeのリコメンド機能だった。チャンネル登録していたイタリアンシェフの投稿動画の中に、プロがやっているトマト缶から作るトマトソースの仕込みを紹介している動画があり、それがリコメンドされてきた。

 多めのオリーブオイルに、みじん切りにした玉ねぎ1個とニンニクを入れ、塩を振り、加熱する。玉ねぎから旨味が出たあと、400gのホールトマト缶3缶分を裏ごししたものを加え、強火にして水分を詰めてゆく。トマトの重量が半分くらいになるまで煮詰めたところでボウルに移し、1%の塩を入れて冷やす。これが、あらゆる料理に汎用的に使える、プロ仕込みのトマトソースということだった。

 その動画の中で、シェフが恍惚な笑顔を浮かべる瞬間があった。そのシェフによれば、トマトソースの仕込みにおいて特に気をつけなければならないのは、玉ねぎを入れすぎないこと。玉ねぎを入れすぎると、それはトマトソースではなく野菜ソースになってしまう。あくまで目的は美味しいトマトソースを仕込むことにあり、トマトの味がメインでありながら、しかし旨味を付与するという目的のためだけに適量の玉ねぎを入れる。「この塩梅が大事なんですよ」と言いながら、そのシェフは恍惚な笑顔を浮かべていた。

 調理中にそうした恍惚な笑顔を浮かべるところが、このシェフの好きなところだ。知識として美味しい料理を知っている、ということに留まらず、その身体が確かに美味しさを知ってしまっている。そのことが漏れ出てくるような笑顔をするシェフの言うことは、信頼してしまう。
 実際に、そのシェフのレシピでトマトソースを仕込んでみた。確かに、玉ねぎの旨味が付与されて美味しくなった。しかし、あのシェフの恍惚の笑顔が自分の身体の上に浮かんでくるほどではなかった。まだ自分は、美味しいトマトソースを仕込むことができていないのだろう、と思った。

 歌舞伎町のラブホテルにデリヘル嬢を呼んだのは、それから数日後のことだった。

「ひとつ、わがまま言ってもいいですか?」

初めて指名したデリヘル嬢が部屋に到着するなり放った言葉がそれだった。「なんですか?」と返すと、

「一緒に、歯磨きしてくれませんか?」

えらく畏まった表情をしていた。確かに、イソジンのうがいが一般的だから、一緒に歯を磨こうとまで言ってくるデリヘル嬢は少数派だ。と言っても、そんなに少ないわけではないから、一緒に歯を磨こうと頼むことは何も変なことではない。だから、わざわざそんなに畏まった表情で言うほどのことでもないのに、などと思っていると、こちらのそうした考えを察したのか、返事をするよりも先にそのデリヘル嬢が弁明するように口を開いた。

「実はさっき、お客さんと一緒にタコスを食べてきたんです。口がにんにく臭いかもしれないから、歯磨きしたいな、と思って。でも、私一人だけで歯磨きをするっていうのは、私のプライドが許さないんです!」

真っ直ぐした目だった。正直な人なんだな、と思った。いくらでも客に歯磨きするように誘導する方法はあると思うし、そのためにわざわざ本当の理由を言う必要だってない。それなのに、ちゃんと理由を述べて「私のプライドが許さないんです!」とまで言うだなんて、正直な人なんだな、と思った。

 ふと、彼女の足下を見ると、床に置かれた手提げ袋の中に、食べかけになったタコスの弁当箱が乱雑に入っていることに気がついた。それを見て、この人は正直な人、というよりかは、起こった事に対してそのままの人なのかもしれない、と思った。

 一緒に洗面所に移動して、個包装の歯ブラシを袋から取り出した。ブラシに歯磨き粉を付けながら、

「歯を磨くのは私のワガママなので、タイマーは歯を磨き終わってからスタートさせますね」

と彼女は言った。歯を磨いて、タイマーをセットして、シャワーを浴びて、ベッドに入った。

 プレイの中盤。彼女がこちらの体の上に覆いかぶさって、キスをしてくる場面があった。わざわざタコスを食べたなんて言わなければこちらも気にすることはなかったけれど、そう言われたからには口のにおいの方に意識が向かってしまった。
 舌を絡めると、口いっぱいに歯磨き粉の味が拡がって、その中に彼女の口の中の味があった。さらさらとしていて、何の癖もなかった。ほんの少しだけ、注意を向けなければ気づくこともないくらいの酸味が含まれているだけだった。しばらくそのままキスを続けていると、彼女の温かい吐息が喉の奥からやってきた。その吐息は、ほのかな玉ねぎの甘い香りを運んできた。彼女はにんにく臭のことを気にしていたけれど、喉奥からやってきたのは、まだ新鮮さの感じられる玉ねぎの甘い香りだった。

 美味しい、と思った。キスを終わらせてしまいたくないと思った。歯磨きをしたばかりだから、彼女の口の中は人工的な歯磨き粉の味で均質的になっていて、その中に彼女自身の口の中の味が微かにあった。そこに、喉の奥から新鮮な玉ねぎの甘い香りがほんの僅かに、彼女が息を吐くときだけ、つまりは不規則なリズムでやってきて、均質な口の中の味に旨味を与えていた。塩梅だ、と直感的に思った。トマトソースの仕込みについてイタリアンシェフが言っていた「玉ねぎの量の塩梅が大事だ」というのは、こういうことなのだと思った。もし歯磨きをしていなかったら、口の中は玉ねぎの味に侵食されていただろう。歯磨きをしたことによって口の中の玉ねぎの味は洗い流され、あくまでキスはキスの味を保ったまま、喉奥からやってくる僅かな玉ねぎの甘い香りによって旨味が与えられたのだ。あのシェフの言うとおり、大事なのは塩梅なのだ。

「大丈夫?にんにくのにおい、しない?」

口を離して目が合った瞬間、こちらの顔の裏側を覗き込むかのように彼女が聞いてきた。

「大丈夫。美味しい味がするよ」

と言うと、「美味しいって、なに」と、少し訝し気な表情になってから、

「でもよかったぁ、歯磨きして」

と、安堵の笑顔が顔の真ん中に浮かんだ。



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