哲学オリンピック

課題文

人の体は父母をもとにし、天地を始まりとしている。自分の体は、天地・父母の恵みを受けて生まれ、養われている以上、自分だけのものではない。天地からいただいたもの、父母の残してくれた体であるから、慎んでよく養い、傷つけないようにして、天寿を長く保つべきである。これが天地・父母に仕える孝の原点である。
貝原益軒『養生訓』

貝原の立場:
自分の体は父母・天地の恵みのおかげで産み出され、苦労をかけて育て、大切にされた結果出来上がったものだから、自分の体に気を使って大切にするべきである

僕の論点:

天地からいただいたものという解釈についてはかなり当時の宗教的価値観に影響を受けている可能性が高く、「無生物の意思」のような僕には複雑すぎる話になりそうなのでここでは論じず、父母による自分の所有という点からこの言葉を批判的に再解釈したい。

そもそも人間を所有の概念に当てはめて良いのか?という問題はある。
当人の権利・自由を第三者が剥ぎ取り身体的・精神的に所有する。これは奴隷そのものではないだろうか。
仮に人間の所有は可能だったとする。
今回の「自分だけのもの」という表現から透けて見えるのは生産プロセスと所有を結びつける考え方だが、これは全くの無意味である。
皿を作ったのは陶芸師だが皿の所有者は購入者(皿を自由に扱うことのできる人間)である。
同じように自分を作ったのは父母だったとしても、自分の所有者は自分(自分を自由に扱うことの出来る人間)であっても何もおかしくない。

生命は双方の合意により作り出されるのではなく半ば強制的に産み出される。なのに責任が生まれるというのはおかしな話である。

そもそも人間は幸せになるために生きている。なのになぜこんなことをわざわざ言う必要があるのか?幸せになるために自分の体を大事にしたほうがいいというのは当然では?
↑これには意義を唱えたい。
当たり前だが幸せは決定的なものではない。なのでタトゥーを入れる幸せもあるし身体改造をする幸せもある。
ただ統治を行う上でそういう異常者がいるとやりにくい。あまりにも価値観が違う人間がいると一つの目標に向かって力を合わせづらくなる。
自分の体を大事にしたほうが良いというのは当然で絶対的な価値観ではない。自傷や暴走にも理解を示していくことが大事である。

俺が審査員だったら
こんな文章、絶対落とす

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