読むことについてと書くことについての憂鬱

昔から、幼少期から、具体的には小学校三年生ごろから本を読むことだけが取り柄であり僕を僕たらしめるアイデンティティというやつであった。
アイデンティティを自分の才能や実績、人との繋がりといったものに対して見いだせないのがかなしいことだと言われてしまえばそれまでだが、テレビでは少子高齢化社会やら布教やらと陰鬱とした空気が漂っていた10年前ほどのこの国で、しかもインターネットとかいうものにどっぷり浸かり、自分より明確に格上の同い年、所謂”ギフテッド”をネットニュースで見ていた僕にとって、地区で一番歌が上手いとか一番足が早いとかそんなものは一切自分を認める理由とならなかった。(尤も、僕は歌が下手で足も遅かったが)

しかし、僕は本を読むのが早かった。これは生まれ持っての才能という訳ではなく、ものすごい量の本を読んでいくうちに”慣れ”で次第に目で文字を追う速度が高速化されていったというだけの話である。
そこで僕はこいつを自分の存在理由とした。ネットニュースに僕より本を読むのが早い子供が出てこなかったからだ。考えてみればそんなこと当たり前だろう。本を読むのがめちゃめちゃ早いガキがいたところでなんの話題性もない。インプット時のスキルというのはスキルとして映えないのである。

そういった流れで僕は小学校三年生ごろから、高校の3年ごろに至るこの約10年間を、「本を沢山読んできたし、読むのが早い。」これだけを誇りにして生きてきた。

しかし、高校3年生の春頃。迫りくる大学受験に対して臨場感が持てずにフワフワクネクネしていたころから、徐々にこの誇りは、アイデンティティは解体されていくこととなった。

理由は単純。本を読まなくなったからである。

20年間ギターを弾いていない元ギタリストが、「ギターが俺の魂であり、生きる理由です」と言ったら笑われるだろう。それと同じだ。

本を読まなくなったから、本を読むことを誇りにできなくなった。

では、なんで本を読まなくなったのか?


(ここらへん後で書きます)

そんななにものでもなくなった自分。いや、正確にはなにものでもないことを再発見した自分を、客観視して厭世の情に酔いながらまた眠りにつくのだ。

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