この社会の分断について


 ニュースを見ていると、自粛をよびかけ、家から出ている人を叩く一方で、自粛警察の行動が問題だと言われています。まだまだ経営している店があって客が来ていると、店まで行ってインタビューをし見せしめにする一方で、こんな危機のなかでも頑張って経営しているレストランがあると特集をしたりもしています。そんな、二律背反するようなメッセージを一つの番組内で流し続ける。長期休暇の間、そういう報道をずっと目にしてきました。メディアはまるで多重人格でも有するように、どちらのニュースも意義深く、大事なものであるかのように、まじめな表情で伝えてきます。

 こういう報道を見ていて、メディアによるマッチポンプであるかのように感じ、メディアを叩く人もいるでしょう。しかし、このようなメディアの多重人格状況の一因は、我々の社会が統一的な価値観を打ち出すことができず分裂しているというところにあります。我々は二つの死を目の前にして分裂しているのです。第一には、コロナによる死。第二には、経済的な死。この二つの死は容易に区別できるものではありません。例えば、経済的な死を避けたいと思っている人でも、コロナを恐れはするでしょう。このように分けられないものだからこそ、この社会のなかで複雑な感情を引き起こすのです。こうした分裂した社会状況が、それぞれ異なるニュースバリューを生み、相反する事柄のどちらも「報道すべきもの」として浮かび上がらせてしまう。少なくとも番組内でメッセージが分裂しないよう自身の価値を提示する、それすらできないメディアにも頼りなさと責任感のなさを感じなくはないですが、より根底の部分では、我々の社会が分裂してしまっていることをメディアは鏡として写し取っているだけなのだと思います。

 では、分裂している原因はなにか、ここまで分裂する前になんとかならなかったのか。そういうことを考えていくと、そもそも「自粛を呼びかける」という態度自体がやはり問題であったということになるでしょう。外出を制限し、経済面では強く補償をする。そのようにして、経済的な死の可能性を極力少なくしたうえで、コロナによる死に対抗することを第一に掲げる。そのような価値統一を図れなかったことに、この分裂状態の原因があります。政治というものがもし一時的にせよなんらかの統一性をもたらすものであるなら (もしそうすることが許されるものであるならば)、それは今のような時にこそ、明確な形で発揮されるべきであったのかもしれません。

 「自粛」という言葉は、問題を我々自身の倫理、心の内の問題にすり替えます。各種のメッセージが伝えているのは、「外に出たいという欲望を、自ら抑えるべきだ」という倫理観です。ここでは、「欲望を抑えられないことは罪である」として、自粛できない人は叩かれます。我々の社会は、どこかで「自分自身の欲望を抑えられない者は、立派な人間にはなれない」というメッセージをいつも伝達しています。学校教育などではとくにそうでしょう。(ちなみにこれは日本だけの話ではなくて、古代ギリシア等にまでさかのぼることができる考え方です。「欲望にしたがうものは獣であり、人間ではない」というやつですね)。だからこそ、それができない人間に対して「叱ってやらないといけない」という気持ちが湧き上がるわけです。飲食店に対しても同様で、「裁いてやらないといけない」という気持ちが湧き上がります。そして、どのような事情があって外出したにしても、あるいはそのような像に収まる行動履歴を捏造してまで、「わがままな人」を叩くのです。

 しかし、やはりさかのぼってみてください。そもそも「自粛」という形で、外出を自由選択と心の問題にしていることが、こうした非難を可能にしているのです。「自粛」を呼びかけるという曖昧な態度が、二つの死を境に様々な内的葛藤を引き起こしていく。同時に、(外出するにせよしないにせよ) 行動を個人の問題に変換していく。「自粛しない」という人を責めるよりも、そういう回路を形成し、社会を分裂させるとともにその責任を個々人に押し付けている、在り方の側に目を向けるべきではないでしょうか。どのような政治観を支持するかは個人の自由ですが、少なくとも「自粛」しか呼びかけられていないなかで個人を攻撃するのは誤りであると私は思います。



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