私を私が見つめている、に足りないもの ―谷山浩子「神様」について (執筆中)


 わたしを見てるそのわたしを 誰かが黙ってみつめてる
 ほんとの名前知らないけど たとえばそれは神様


 谷山さんの曲には時折離人症めいた感覚が登場する。たとえばわたしの体がわたしを離れていってしまうかのような不安を歌った「空に吊るされた操り人形」。わたしを見ているわたしが、いつの間にか月になってわたしを動かしている「わたしじゃない月のわたし」。そして、代表曲の一つである「神様」もまた、こうした感覚に裏打ちされた曲であるように思える。

 この記事では「神様」の歌詞について触れながら、この曲を貫く「わたしがわたしを見ている」という感覚、そして歌詞の最後に現れる「神様」について少し考えてみたい。

 なお「神様」は川上弘美「神様」のラジオ版のテーマ曲として作られた曲である。こちらの小説も読んだことあるがなにぶんもうけっこう前のことで記憶も曖昧なので、この小説と曲との関係についてはとくに触れないことを先に断っておく。


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 試みに「空に吊るされた操り人形」と「神様」を聴き比べてみると、両者は全く異なる毛色の曲であるように感じられるだろう。前者は聴くものに強い不安感を与える。突然私が私でなくなってしまうような、空中で身動きがとれなくなってしまうような息苦しさ。これに対して後者は、一聴する限りでは落ち着いた音色と歌詞をもった曲であるかのように感知されるはずだ。


 しかし、実は「神様」には、この「空に吊るされた操り人形」に近い不安が潜んでいる。

 わたしは浮かぶ道の上 地面にとどかないつま先
 誰かが見てる夢の中で 自由に遊ぶ夢を見る

 いま、ここにいるわたしとはあくまで「誰かが見てる夢の中」のわたしなのである。そしてその存在の曖昧さに対応するように、わたしのつま先は「地面に届かない」。ここに、この曲の不安がある。この不安を敢えて単純な言葉で表現してしまうなら〈わたしというものの不安定さ〉といえるだろうか。誰かの夢の中のわたしとは、そもそも実在のものなのかすら定かではない。

 ただし、「空に吊るされた操り人形」とは異なり、こちらは「自由に遊ぶ」。この点では少しだけ明るいイメージを「神様」から受け取ることができるかもしれない。しかし、ここには二重の仕掛けがあることを見落としてはならない。(1) わたしは誰かが見てる夢のなかで自由に飛ぶ存在であると同時に、(2) わたしは自由に飛ぶ夢を見ているのである。この二重の仕掛けによって、夢の所在の徹底的な曖昧さが立ち現れる。「〈誰かが見てる夢の中で自由に遊ぶ夢〉を (わたしが) 見る」のか、それとも「誰かが見てる夢の中で〈自由に遊ぶ夢を (わたしが) 見る〉」のか、あるいは「〈誰か=わたし〉が見てる夢の中で自由に遊ぶ夢を (わたしが) 見る」のか。そして、このように夢の所在が徹底的に曖昧であるのと同様、「自由」という概念も曖昧なものに留まることになっている。「〈自由に遊ぶ〉夢を見る」とは、わたし自身が〈私の意志で遊べる〉ことを意味するのか、それとも〈私の意志で遊んでいるような夢を (私が / 誰かが) 見ている〉のか。この答えが出ることはない。

 このようにしてこの曲では、わたしという存在やわたしの自由な行動の存在は、不安定で曖昧なものとして表現されている。


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 そして、この曖昧さを更に印象強くするのが、曲の冒頭から提示される「わたしをわたしが見つめてる」という状況である。

 日暮れの雨に濡れている わたしをわたしが見つめてる
 どこから来たのどこへ行くの その先どこへ帰るの



置き去りにされてしまう。

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存在の核を確かにするもの。=「あなた」

わたしはわたしを観察するだけでは、わたしの存在を確固たるものとして見つめることができない。

友達もみんな帰ってしまって、わたしはただ一人で、誰からも観察されることはない。

だから、声が聴こえる (声が要請される)

私は私の存在をようやく、かすかだが確固たるものとして認識することができる。



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