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社会学をすることとは、「つまらなさ」とぶつかり、それと向き合うことであるという話。- 卒論を書くとはどういうことか


 世の学生が卒論を提出する時期なので、「自分のときはああだったな」とか「論文を書くってこういうことだよな」ってことについてこのところ少し考えてしまう。考えていたら少しだけ言葉にできそうなことを思いついたので、手短に書く。ただし、難しいことを書く気力はないので、色々と語弊のある書き方になりそうだが勘弁してほしい。あと、なんか偉そうな文章ですみません。


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 先日友人から、「お前あれだけ自分の論文つまらないつまらない言いながら書いてたけれど、自分で読み返す気分になるの?」と聞かれた。なるほど、たしかに思い返してみると、本当につまらないしもう書きたくないと思いながら、何かに追い立てられるように書いていたと思う。

 何の本で読んだのか思い出せないのだが (多分ルーマンだと思う)、描くこととは不自由になることでもある。白紙のキャンパスが目の前に広がっていたとしよう。そこには比喩ではなく、本当に「無限の可能性」がある。画家は熟考の末、そこに筆を置き、色をつける。すると、何が起こるだろうか。筆を置いただけ、可能性が失われていくのだ。初めの内は引き返せるだろう。しかし、やがては可能性よりも不自由さが勝るときが来る。するともう、あとは完成に向かってひたすらに筆を動かすことになる。画家は描けば描くほど、不自由になるのである。あるいは、自由さを取り戻すために、書きかけの絵を捨てることを本気で考えてしまうことになるだろう。自分の腕のなさに苛まれ、一筆ごとに自由が失われていくキャンパスに絶望するかもしれない。

 これはあまりに悲観的な見方だろうか? 画家は最後の一筆まで、常に創発的で自由であると? 私はそうは思わない。というより、少なくとも私は、文章を書くときによくこの感覚に襲われる。ただひたすらに完成に向かって、不自由に駆り立てられるイメージ。だから、私にとって、書くことはいつも無性の喜びであると同時に、苦痛であった。これは別に私だけではなく、多くの人に理解してもらえる感覚ではないだろうか。


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 だが、ここまでの話は描くこと・書くこと一般についての話であって、「社会学」に特有の何かについて述べた話ではない。だから、もう少し社会学に近づけて話を展開してみよう。

 レポートでも、卒論でも、なんでもそうだったのだが、「社会学をする」ということもまた、私にとっては常に喜びであると同時に苦痛でもあった。そして、これは多くの人にとっても多分そうなのだとおもう (非凡な方は違うのであろうが)。

 例えば、何か資料を集めてデータにしてみたとする。量的でも質的でも良いのだが、何か調査をしてみたとする。調査をしているときは楽しいかもしれない。上手くいけば、何か「新発見」のようなものを得られるかもしれない。しかし、大抵の場合、手元に残るのは何であろう? 多くの人の手元には、「何の変哲もない当たり前の結果」が残るのではないだろうか。

 自分にとって興味があることを対象にしてみても、自分に厳しい目で結果を見直してみると、何の意味もない当たり前の結果を示したデータの羅列のように見えてしまう。何のためにこんなことをしたのかわからなくなり、いったい誰がこんな結果を見たいのだろうと悩むことになる。これは、果たして方法が悪いのだろうか。それとも、センスがない? もしかするとそういう場合もあるのかもしれない。しかし、私はむしろ、これこそが社会学の特徴なのだろうと思う。社会学である以上、この「当たり前すぎて何も意味がない」という苦悩に苛まれることからは、逃れられないのだろうと。

 なぜか。答えは単純だ。社会学は「社会」についての学問なのだから (ただし、話が長くなるので「社会」とは何かはここでは問わない)。例えば、日常生活における相互行為のあり方を見ていったとする。そこから全く当たり前ではない結果が導きだされたら、それこそ不可思議だ。あるいはもっとちゃんと考えてみると、次のようにいえる。社会で生き、社会について考えているのは社会学者だけではない。むしろ、当事者の方が、その当事者が生きる社会の事情に通じている場合がある。そういうとき、社会学者が生半可に何かを語ったところで、どんな意味があるのだろうか。「そんなことは知ってた」と言われてしまうのが関の山ではないか?

 「社会」として当たり前に成立している場面を見ていけば、大抵の場合は当たり前の結果が導き出されることになる。だから、「自分の書いているものに意味はあるのか」とか「何も新しいものが見つからない」という悩みからは基本的に逃れることはできない。その点で、社会学をやることとはいつも、無意味さという苦痛と向き合うことを意味するのだ。


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 しかし、絶望する必要はない。喜びが開かれうるのもまた、この地点からであると、私は思う。わたしたちは当たり前の結果を前にして初めて社会学をすることができるのだから。社会学とはどういう営みであったかを思い出してみよう。それはやはり、語弊はあるかもしれないが、当たり前を問い直す営みなのだと私は思う。問い直し方はいろいろある。当たり前だと思われているがそれが齟齬なく成立しているのはなぜか。あるものが、なぜ「当たり前のもの」として人々の意識に上がらないままで有り続けるのか。当事者たちのなかでは「当たり前」のものである行為が、その当事者が参加するコミュニケーションにとってどのような機能を有しているのか。様々な方法があるが、とにかくこのようにして人は「当たり前の結果」を前にリサーチクエスチョンを練り直すのである。

 すると、社会学をすることとは、「当たり前」をデータの形で明確にしてから、そのあたり前のなかに隠された「新奇さ」を探し出すことだといえるかもしれない。このことは、データを集めるだけではなんにもならないということも意味している。データを集めるだけではなく、そのデータを前にして、それへの見方を幾度も変えていく。こんなつまらないものは捨ててしまいたい、失敗した、何のためにやっているのかわからない、といった諸々の苦悩を前にしながら、それでもデータと向き合い、それを何度も解釈しなおす。それを繰り返すことで、まさに「当たり前に成り立つ社会の不思議さを見つめる」という社会学の営みが可能になるのだろう。

 だから、データの集め方が上手いだけではだめなのだ。もしかすると、普段接触できないような集団に接触し、そこで見聞きしたことを外部の人間に伝えれば、それで新奇さが満たされると考える人もいるかもしれない。しかしそれだけではただのルポである。あるいは当事者の声を伝えることに意味を見出す人もいるかもしれない。しかしそれはあなたが当事者の代弁者になっただけだ。新しい史料を見つければ良いのか。いや、あなたは蔵書整理係ではない。これらは、ただそれだけでは意味を持たないのだ。

 それゆえに、データを集めること以上に、それと向き合い徹底的に自分の頭をつかって考え抜いていく息の長さが必要になる。無意味さへと身を投げ、そのなかでもがき、意味をひねり出すことができるかどうか。それが勝負どころなのだろう (そして、大抵の人はそれを一人ではやりきれないので、偉大な先人の肩を借りて行うことになる)。それができなかった人は、「失敗した」という気持ちだけを抱えて、舞台を降りることになる。


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 漫画『ちはやふる』のなかで、国語教師が「生みの苦しみを知りなさい」という場面があったと思う。頭のなかでよく、この言葉を繰り返してしまう。

 生むことは、(それを本気でやったことのない人にはわからないだろうが) 苦しみなのだ。それはつまらない自分や、ダメな自分と向き合うことであり、基本的には辛いことなのである。データと向き合うのも一緒だ。自分のセンスがないのではないか、自分は無意味なのではないか。そういう疑問との戦いになる。だから、そこから逃げてしまう人も多い。結局のところ、全く勝負をしないまま、「卒業論文」という名前だけの何かを出していなくなってしまう人もいる。提出できないままになってしまう人も、たまにいる。

 しかし、苦しみとの格闘に身を投じてこそ、人は初めて「社会学をする」ことができるのである。だからもし卒業論文で初めてそういう苦しみとぶつかった人がいるならば、それはその人が卒業の間際に、初めて「社会学をした」ということなのだろう。その証をもって卒業を出来るのであれば、そんなに素晴らしいことはないと思う。

 そして、苦しみのなかにこそ、喜びがある。考え抜いて、絶望して、それでも考え抜いて、ようやく突破口が見つかる。これまで灰色に見えていたデータが、突然意味のあるものに見えてくる瞬間がある。そこにこそ、無性の喜びがある。その喜びと出会えたときに、人は「学問をする」ということの虜になるのだろう。

 まとめよう。書くことは苦しい。でも、苦しみぬいた先に喜びがある。卒論を通じてこの喜びにたどり着いた人は、本当に社会学をやり抜いた人なのだ。だから、もしそこにまで辿り着けた人は、それを誇りに思って、大事にしてほしいと心から思う。




 …という偉そうな文章でした。卒論出した人たちお疲れ様です。



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