「社会を語ること」の難しさについて:「社会学」は何が難しいのか。②


3. 社会学の困難① : 「社会学で社会がわかること」 それ自体に既に問題がはらまれている。

 (1) 私たちには何が見えていないのか
 さて、以上の内容を引き継ぎつつ、以下の二節では 「概念と観察」「内部記述と観察者の観察」といった視点から社会学の困難を記述していくことにしよう。
 まず、本節では 「概念と観察」 というところに焦点を当てる。先に社会学の第一歩は 「ある特定の概念によって、ある特定の仕方で 『(自身の知る) 社会』 を記述すること」 であるとまとめた。このことは確かに 「社会学がわかる」 ことの初歩である。だが、同時に社会学の困難が始まる地点であるようにも私には思える。

(a) 社会学は特定の概念Xを通じて特定の仕方で 「社会」 を記述する。
(b) すると社会学は、「あるXという概念を通じて社会を見たからこそ、ある場面がそのように観察されてしまったのではないか」 という疑問からは逃れられないということになる。これをもう少し強く表現すると、観察視点 (どう見たのか) と観察対象 (何が見えたのか) を切り離すことはできない、という話になるだろう。

 こうした困難を引き受けてみると、やはり 「社会学がわかる」 とはどういう事態なのかがわからなくなる。山本は 「社会がわかる」 と 「社会学がわかる」 を一度分けたうえで、社会学がわかっても社会そのものは謎として残りうると論じてみせる (p.8)。実際そのとおりだと思うのだが、では 「社会学がわかった (特定の概念で特定の出来事が上手く説明できたように思えた)」 ときに、我々は一体何をしていることになるのだろうか。むしろ、わかってしまえることに、一種の不気味さがあるようには思えないだろうか[注2]。


[注2]この不気味さを上手く表す言葉が見つからないのだが、「『当事者よりも社会がわかる』『当事者よりも広く社会を捉えている』と思えてしまうことの不思議」といったところだろうか (もちろん、そういう不遜な想定をしない人もたくさんいるのだが、それはそれで2節で見たように「社会学とは何か」という謎が残る)。特定の視点に立ったからこそ、上手く社会が説明できてしまうことの不思議さ。もちろん、これを気にしすぎたら社会学などしようがないのだが、この問題を織り込まずに何かを記述するのは不誠実であろう。そして、織り込む方法として、以下では「自己言及」という話をしていく。



 
 (2) この困難を踏まえたうえで、どのように 「社会学」 をするのか。― 自己言及と論理の重要性
 以上の困難を引き受けるならば、社会学では、「ある概念に沿ってある対象を記述する」 場面では同時に、「その概念を使うことで、何を見ることができて、何を見ることが出来ないのか」 に自己言及することが求められるであろう。(そのためにも、まず「社会学」は、自身がどのような概念を用いて対象を記述するのかを明確にしなければならない。)
 そして、見ることができないものの記述は、想像のなかでしか為されえない (見えないのだから)。それゆえに、社会学では論理の力が重要になる。ある概念がどのような論理と結びついているのか、そしてそれゆえに何が見えないのか (例えば「主体」という概念はどのような論理と結びついており、それゆえどのような観察を導くのか。どのような観察を導かないのか)。それを記述することが必要なのだ。
 まとめると、社会学においては、「対象を記述する力」と同時に「論理を道具にして、今自分が何を見ていて、それゆえに何が見えていないのかを自己言及する力」が求められるということになる。繰り返しになるが、自分が観察に用いているレンズ (観察視点) に言及しない場合、そこでは何が明らかにされているのかがわからなくなる。それゆえにそうしたものは、もはや「何かを明らかにする」ための研究としては成立しないのである。「今何が見えたのか」を語るためには、「今何が見えないのか」を語らなければならない。



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