有薗真代 「物語を生きるということ - 『性同一性障害』者の生活史から」 (2004)


 

 この論文についての要約とコメント。なお、前の記事からの続きでもある。


概要

 
 本稿は、「社会的に予め周縁性を付与された人々が、日常生活で直面する困難や痛みにそのつどどのように対処していくのか」 という問いに迫るために、セクシャルマイノリティの生活史を分析するものである (:55)。事例としてあげられるのは、「身体が男性で性自認が女性の、所謂 『性同一性障害』 である」 Kさん。Kさんは、自身を 「男性同性愛者」 と規定することで、男性同姓愛者の運動体 (A団体) に参加するようになった (:56)。
 このKさんの生活史を分析するにあたり、本稿では (セックス/ジェンダー/セクシャリティといったものを、非一貫的であり 「実践によって構築される」 ものとして把握する) バトラーの議論に目配せをしつつも、「物語療法」 における実践分析を分析枠組みとして設定している (:58)。表現内容 (物語) が経験の仕方を形作るという前提に立つ物語療法において、自己の物語とは 「行為の参照枠」 となるものである。そしてまた、それは行為によって書き換えられもする (:58)。この分析枠組みに立ち、自己物語と行為の関係の変容プロセスを明らかにしようとする点が、本稿の眼目であるといえよう。
 では、実際にKさんはどのような物語を展開するのか。Kさんは、教師やおばさんによる個々の排除の経験から 「自分で自分のことがわけ解らなくなってきて、苦しくなる」 と感じていた (:60)。その気持ちは、医学的なパラダイムと出会うことで和らげられる (「先生が、あなたは女の子のあたまを持っているのかもね、と言ってくれて」)。排除されて社会的な意味づけを失っていたKさんにとって、医学的パラダイムは、その位置づけを与えるものであったのだ。それは 「自分は女なのだ」 という漠然とした感覚を再構築し、裏付けを与えてくれるものだったのである (:61)。最も、それは 「Kさんが他者から押し付けられたカテゴリーを、正当化する役割を担っただけ」 であり、「Kさんの 『病』 はこのような共犯関係の上に成立した」 のだが (:60)。
 この時期のKさんは、常に 「病気」 という地点から自分の 「女らしさ」 を確認した (:61)。とくに会話のなかでは 「女の子のあたま」 という言葉が頻出した。「女の子のあたま」 だから人生に失敗したのだ、と。Kさんにとって医療システムは、「自分の生活史のなかにある女性的な要素を探索し、これを時間軸に沿って配列することによって 『女』 としての物語を作ること」 と同時に、「自分が 『病』 であることを決定的に確信させ」、「これを 『人生の失敗』 へと接続させる」 という両義的な機能を有していたのである (:62)。人生の課題をうまくこなせない主体であるとする病の物語が、Kさんのドミナント・ストーリーとして、Kさんの生を支配してしまったのだ。
 これに対して、医療的言説を含め、「自身に付与された特殊性を肯定的に変換する」 ための技法を豊富にストックするのがA団体である (:63)。そこでは医療的言説ですら、「生をデザインするための一助」 として把握されていた (:64)。また、「パートタイム女装 / フルタイム女装」 といった新しい言葉を生み出す試みは異性装への欲望の意味を転換していく。KさんはこのA団体に参加することで、「過去の自分のなかに女性性を探索する」 のではなく、「現在のなかで可能性を探そうとする」 方向へと自己語りを変化させていく (:65)。
 この変化は、Kさんが 「平日は男として、週末の夜は女として」 社会的役割を獲得したことで、さらに強化された。この二つの性を確保することで、Kさんは男としての身体を 「女」 を演出するための道具として意味づけるとともに、自らの内に 「女」 という場所を確保することに成功するのである (:67)。Kさんは、「セクシュアル・アイデンティティの獲得を、生活過程のなかの諸問題をクリアにしていくなかで遂行的に達成」 したのだ (:68)。



コメント


● 「女」 とは、学習と実践を通じて 「なる」 ものである。
 本稿は、(もちろん物語論の観点からも評価できるのだが) 「女になる」 ということは学習と実践の結果なのだということを、Kさんの語りを通じて描き出す。クィアにとって重要なのは、これが 「女である」 ことは性別 (sex) に規定されるものではないということを示唆するという点であろう。現に、Kさんは性転換手術等を行わないまま、「女」 として外部に働きかけ、自分のなかに 「女」 という居場所を確保するのである。


 
●「物語を生きる」 ことに伴う難しさ。
 さて、こうしたKさんの語りにはしかし、どこか賛同しがたさのようなものも残されている。例えば、Kさんの 「女として 『働く』 と、より女らしくなれます。……男として生活して、とくに外で働いたりするとどうしても男らしさを発揮しなくてはいけないから自分のなかに男が残ってしまうんですね」 という語り (:66)。あるいは、Kさんが 「例えば、受け身的な態度、知識をひけらかさないこと、あまり自分の意見を言わないこと、などが望まれるべき女性的特徴であることを学んだ」 ということ (:67)。こうしたKさんの語りが示唆するのは、「女になる (女として社会に通用する)」 ということは、女性のステレオタイプ (「女」 という物語) をなぞるということを意味するということである。「女に同化する」 ということを望むとき、その 「女」 のイメージはどうしても残されてしまうことになるのだ。

 では、ここで、例えば (ラディカルな?) フェミニストは何を言うことができるだろうか。Kさんの持つ女性像を、「ステレオタイプだ」 と批判すれば良いのか。あるいは、「そのように女性が抑圧されていることが問題だ」 といえば良いのか。そのようなことを指摘することは確かに正しい。正しいのだが、そこではKさんのアイデンティティの問題は、どうしてもないがしろにされてしまう。
 (先の記事でも触れたように) アイデンティティの主張はあらゆる場所において成り立つ。だから、例えば女性のステレオタイプや女性への抑圧を批判したりする人に対して、「(女性自身、あるいはKさんのような人が) そのような女性になる」 権利も、主張することができてしまう。我々は少なくともその可能性を無視することができないので、容易にKさんの女性像を否定して満足することなどできない。しかし、その女性像に隠された問題を無視することもできない。だから、どうしてもモヤモヤしてしまうのだ。このモヤモヤを、我々はどのように整理して記述しうるだろうか。


 
● クィア・スタディーズは何をするものなのか。
 ここでは準備的作業として、改めて社会学におけるクィア・スタディーズとは何を行うものなのかを考えてみよう。それは、① 先の報告で触れたように、個別の事例、当事者個々のアイデンティティに注目する傾向を持つものであり、② 本報告で触れるように、「実践」 へと注目する傾向を持つものである。
 アイデンティティへの注目は、先の報告で述べたように 「包摂 / 排除」 の区別を成立しにくくする。どのようなアイデンティティも、考慮すべきものとされてしまうからだ。先に挙げたようなモヤモヤの一部も、ここから生み出されている。
 では、実践への注目は何を意味するのか。それが行っているのは、観察視点に時間次元 (過去/未来) と社会次元 (自己/他者) を挿入することである。時間次元の挿入とは、「過去/未来」 との差異からなる 「現在」 におけるものとして、ある語りや行為を分析することを意味する。それによって、例えばある語りは 「事実」 ではなく、「過去をふまえた、現在における、やがて変化しうる」 ものとして扱われる。そしてまた、話者も 「過去の物語に閉じ込められる / 未来の物語に開かれる」 といった視点のなかで観察されることとなる。話者の時間パースペクティブにも注目が及ぶのである。
 これに対して、社会次元の挿入とは、「自己/他者」 の両方を視野におさめ、その関係のなかにおけるものとしてある行為や語りを分析することを意味する。これによって、ある人が 「病気である者」 として実体視されるのではなく、「他者に病名を名付けられること / 自己が概念の用法を変えたり、ある新しい概念を作ったりすることで、その意味づけを変えていくこと」 などに焦点が合わせられるようになる。あるいは、その語りがどの場所において語られたものなのかも考慮するようになり、それがインタビューにおけるものであるならば、「インタビュアー/インタビュイー」の関係性が視野に入れられることになる (最も、この関係性が語りにどのような影響を与えるのかまでもを分析のなかに含みながら語りを分析することはなかなか難しい試みにならざるをえないのだが)。
 このような視点はどちらも、例えば特定の行為の背景に 「男/女の魂」「病の原因」 があると想定するような本質論や、特定の時点での 「男/女」 としての語り・行為を静的なものとして捉えるような歴史観に対する反省として提出されたものであろう。こうした視点に則ることで、クィアは、「その時点の、その関係のなかの、その人だけの、具体的な語り・行為」 に着目し、それを描き出すのである。そうすることで、様々な情報を生み出していく [1]。


 
● ここで見えなくなるもの。
 さて、このようにまとめたうえで、改めて先ほど述べた 「モヤモヤ」 に取り掛かることにしよう。
 気になるのは、こういう視点と、その他の視点との間に見え隠れする齟齬である。例えば、「私的なこととは公的なものである」 とする (ラディカルな?) フェミニストのなかには、ある 「愛」 が実は差別的構造に則ったものであり、またそれがそうした構造を温存させていることを問題とする人がいる (先の報告におけるレズビアンと家父長制の話を思い出そう)。このとき、だれかを愛するという個人の気持ち (ひとまずそれを「主観的な意図」として名指しておきたいのだが、それ) は、女性を取り巻く差別的な 「構造」 という観点から問題とされてしまう [2]。ここでは、主観的意図を尊重するかどうかは、ある程度埒外に置かれている。「構造」を批判するような視点は、「例えそれが差別的な関係性であったとしても、私はその関係性のなかに入りたい」 という人を、上手く包摂することができないのだ。先の報告で見たようにある関係性が 「非標準的なセクシュアリティ」 として排除されてしまったということ、あるいはKさんの 「女性のステレオタイプに同化したい」 という気持ちがどこかフェミニズムのなかに位置づけがたいということは、こうしたことの証であろう。
 逆に言えば、あるアイデンティティを考慮しそれを否定しないという立場は、アイデンティティと対立するような形で存在している差別的構造のことを、上手く視野に入れることができない。我々がKさんの語りを簡単に否定することができないように。
 すると、ここでは不幸な対立の発生は避けられないということになるのだろうか。


 
● 対立は避けられないのか。
 こうした問題に対して 「人権」 といった価値を持ち出してもあまり意味はない。女にならないことも、女になることも、「権利」だという話になるだけであろう。より収まりが良いのは 「自由 / 強制」 という区別を持ち出すことだ。「自分の恋愛対象や性別、自分の立場を自由に選べること / ある形を強制されること」。この筋で問題を立てれば、「性別や恋愛対象に対するKさんの悩み」 と 「家父長制に対するフェミニストの批判」 は両立しうるように思える。どちらも自己の在り方を選択する自由が侵害されているのだから、同質の問題であるといえるかもしれない。しかし、結局のところ 「Kさんの選択の自由」 がどこかで 「フェミニズムの掲げる自由」 と齟齬を起こすことになるであろう。
 では、「主観的意図 / 客観的構造」 というジレンマを排してみるのはどうだろうか。例えば、構造は個人の意図の寄せ集めであるとしよう。そうしてみたところで、今度は全体の構造にとって悪となるような意図を排除しようという話になるだけではないか。要するに、「良い構造に寄与する意図 / 悪い構造に寄与する意図」 といった形で、「許される意図 / 許されない意図」 という区別が紛れ込んでしまうことになるのではないだろうか。
 あるいは、「公/私」 の区別を持ち出し、私的な領域であればどのような関係も許されると考えてみればよいのだろうか。私的領域であれば、何を選んでも自由であると。しかし、それは 「私的なことは公的なことだ」 とするフェミニズムの公理に逆行する。


 
● どの視点も、何かを見落とす。
 こうした八方ふさがりの状況が示唆するのは、結局のところ、すべてのものを同時に見ることはできないという至極単純な結論である。ある視点はあるものをうまく考慮して、それを自身のなかに位置づけることができる。しかし、ほかの要素はうまく位置づけることができない。こういって良ければ、ここで挙げたようなフェミニストとクィアは、どこか互いにとって盲点となるような関係にあるのだ。少なくとも一つの話のなかで、二つを同時に、同じだけ考慮することは難しいのである [3]。
 だから、先の報告の繰り返しになってしまうが、クィアが深化させるべき差異の思考とは、(差異を強調しすぎて個別の事象の蒐集に嵌まり込んでしまうことではなく) ある区別によって何が包摂され、何が排除されるのか。ある区別によって何を見ることができて、何を見ることができないのか。そして、その区別同士はどのような関係にあり、例えばある視点からは排除されてしまう人と、どのような視点の下でなら連帯を築くことができるのか。問題の分断線をどこに引けば、より良い形で問題を把握し、解決への方策を考えることができるのか。そういった事を整理し続けていくことなのではないだろうか。むやみに差異の統一性を崩壊させては 「クィアは危険で悩ましい」 といってみせるような姿勢ではなく、上記のような姿勢で問題に向かうことこそが求められているのではないだろうか。


 
● 社会学の視点から気になること。
 そのうえでこれは蛇足なのだが、とくに社会学の視点からは、「個別のもの」への注目が、結局のところ全体に関わる理論にどのように貢献したのか / しうるのかが気になってしまう。クィアだけではなく、構築や物語など様々なものが手を取り合って研究領域を作り上げてきた。こうしたものたちは、結局のところ何をもたらしたのだろうか。もちろん、建前上は 「そうした個別の事象の蓄積が、大きな理論の修正を導いたり、新たな視点を生み出したりする。だから、大きな理論と個別のものに注目する研究は、分離されたものでもまして対立するようなものでもなく、互いを補い合うものなのだ」 とはいえる。しかし、それら個別な事象を一体どのようにしてまとめ上げることができるというのだろうか。個別な事象から大きな理論への道筋として、一体何が用意されているというのだろうか (例えば、「中範囲の理論」といったものを掲げてみればよいのだろうか)。
 個別のものに注目すること、一人ひとりの人生やアイデンティティに注目することは、あらゆる事柄を研究の対象とする。だから、社会学は研究対象には困らない。だが、その先にどのような 「社会」 についての学がありえるのかについては、不透明であるという印象がぬぐえないのである。



[1] (別に詳しいわけでは全くないのだが) ちなみに物語論をめぐる諸々の論点も、こうした視点から整理すればわかりよくなるのではないか。そして、その視点から大雑把に整理してみると、大抵のものはそもそも解決不可能であったり (というかそもそも問題なのかもよくわからないものであり)、解決不可能なように論点を提示して自分たちの居場所を確保したのに、なぜかそのことに対して悩んでいるだけだったりするようなものに見えてくるのだが、どうなんだろう…。

[2] 「異性愛が強制されている」といった言明をするとき、フェミニストの焦点は基本的にその「構造」に向けられているように見える。そして例えば、強制力を持つ構造に「女性個人の自由」が侵されてしまっていることを、問題とするのである。

[3] やや飛躍するが、そもそも物を書くことや事象を解釈することといったことは、基本的にこの問題から逃れられない。ある一つの事柄を、複数の筋に位置づけて解釈することは相当に難しいことであり、大抵の場合我々は「こういう見方も考慮した方が良い」とか「これは別に論じる」といった形でそうした要素を注 (すなわち本筋に位置づけられないもの) として記述できるに過ぎない。ある視点から何かを論理的に描き出そうとすればするほど、「ほかのように位置づけられた可能性」は少なく、そして見えなくなっていく。事象は不自由に絡めとられるのである (そして、だからこそ他者からの「このようにも読める」という指摘は、ときに行き詰まりを打開する自由を生み出すものとして、またときにそれに耳を傾けるとこれまで築き上げてきた全てを崩壊させてしまうような危険なものとして、衝撃を与えるのだろう)。何かを描き出すということは、この不自由と繰り返し直面し、この不自由を繰り返し問い続けるということである。もしあらゆる不自由から自由であろうとするならば、我々はカオスのなかで混乱し、そこから一歩も踏み出すことができなくなってしまうであろう。だから、すべての区別を同時に疑ってみせるといったことも、実際には不可能なのである。これについては、この記事でも触れた。

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