「街が記号的である」とはどういうことか。あるいは景色の「それらしさ」について。(短文)


 前回の話に関連して、沖縄の景色について書きたい。今回の記事はその準備のための内容。

 今日沖縄は日本国内でも随一の観光地となっている。海に囲まれているため一年中気温も安定しており、旅行先に選びやすい。戦跡も多いため修学旅行先などとしても選択肢に挙げやすく、台風の多さに目をつむれば観光地として抜群の魅力を有している。

 しかし、(いくら沖縄がリゾート地として開発しやすい素養をもともと有していたとしても) 観光地というのは自然に出来あがるものではない。いうまでもなく、誰かが作り上げるものである。そして、例えば一定の時期に大規模な開発が行われるとき、その開発は大抵なんらかの思想に支えられている (多摩ニュータウンについてはここで書いた)。もちろん、何か考えがあれば野が拓かれ街ができるというわけではない。特定の考えがそのまま街の形になることなどまずないのであり、開発はその土地にあわせてその時々で進められることとなる。どれほど技術が発達しても、どれほど山を削り人工の街を一からつくれるようになったとしても、その点は変わらない。だが、それでも大規模な開発が無秩序の乱開発を避けようと試みるのであれば、そこには大なり小なりの共有された考えが存在している。

 そして、そうした「考え」のいくつかに対して、「記号的な街づくりである」と評したくなることがある。この「記号 (性)」という概念をどのように定義付けすれば良いのか悩むのだが、以下で簡単に定義づけを試みてみよう。


 ある事物が記号的であることの要件として、第一に「操作が可能であること」、つまり「恣意的であること」を挙げることがある。例えば、「もともとの地形を無視して恣意的に街が作られること」を指して、それを「記号として街がつくられる」と評することがある。しかし、「恣意性」は概念を定義する要素としてはかなり弱い。第一にそこが人の住む場所である以上恣意的ではない景色など存在しないのであり (高畑勲は『おもひでぽろぽろ』のなかでこのことに触れている)、また逆に全くの恣意によって街を作り上げることは前述のとおり不可能である。

 だから、もう少し定義を絞る必要がある。ある程度まで「恣意的であること」を定義の要素に含むとしても、それはどのような性格の恣意性なのか。ここで注目すべきなのは、記号とは必ず複数の要素のセットから成り立つものであるということだ。言語の特性などにまでさかのぼると話が長くなるのでやめるが、例えばディズニーランドはディズニーらしい何か単体によって成り立っているわけではない。アトラクションの一つやキャラクターの一つによってその存在が支えられているわけではなく、それらの総体が「ディズニーらしさ」を演出する。都市に関して記号という視点から何かを語る際にディズニーランドがよく例に挙げられるのは、あれが「入口から出口まで徹底的に “ディズニーらしさ” にこだわり、その “らしさ” を持たないものは排除された」空間であったからであろう。その「“らしさ”」というものが何かを説明するのは難しいのだが、確かにそうした感覚があり、そうした感覚を想起させるために街が構成されているときに、その街を記号的であると評したくなる。

 なお、この定義に則ったとき、例えば多摩ニュータウン開発を「近隣住区論という思想にもとづいて行われたから記号的だ」ということはできず、逆に「スイスらしい景色」を作り上げようとしていくつかの要素を配置した軽井沢ニューレイクタウン開発は「記号的な開発であった」と評することができる。実際には、作られた街が本当に誰にとってもその “らしさ” を感じさせてくれるかはわからないのだが、とりあえずその “らしい” ものを演出するために要素を選択して景色をつくろうとしている。その点をもって、その街づくりは記号的であり、景色が記号性を帯びていると、そう評することができる。

 さて、では沖縄の景色はどういった点で記号的なのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?