もう一度「キンプリ」を見てください ― 演出とテーマから語るキンプリ (2) (*ネタバレあり)





*よまないほうがいいかもよ。*

*以下、『キンプリ』と同時に『プリティーリズム・レインボーライブ』のネタバレを含みます。

*どちらかといえばプリリズファン向けの記事です。また、不愉快になる可能性のある内容を含みます。ご注意ください。(当初はもう少しキラキラした感じで書こうと思っていたのですが、正面から真面目に書きます。人によっては乱暴とか偉そうという印象を受けるかもしれません。先に謝っておきます。申し訳ありません。)

*「熱狂的なファンが『ガルパンはいいぞ』と同じような形でよくわからないままに騒いでるだけじゃないか」「あの映画のどこがプリティーリズムなのか根拠を示しながら説明してみろ」といった批判も最もだと思ったので、それに応答することを目的の一つとしています。




 長くは書きません。これを書いたらおそらくしばらくは『キンプリ』については書きません。

 まず感想を書くにあたって、叩き台とする意見をいくつか並べておきます。あるレビューサイトで、低評価をつけていた方の感想です。

・『キンプリ』で掲げられる「仲間」という要素は、プリティーリズムRLのテーマから連続していない。プリズムショーを支えるのは「きらめき」だったはず。
・なぜシンがみんなを笑顔にさせられるショーをできたのか説得力がない。(なにか凄いことが起きていると描写されているにすぎない)
・アレクたちのダンスバトルは本筋に関係ない。

(その他いくつか書かれていますが、[皮肉ではなく、記事の一貫性のために]とりあげる必要はないと判断し、これらを検討することにします。)

 この感想、一見したときは「へぇーこういうこと書く人もいるんだー」程度に思ったのですが、現在見る限りでは意外と高く評価されているようです。つまり、この感想に共感した人が多いということなのだと思います。

 私は以下でこれを叩き台にして話を進めますが、別に作品の唯一の解釈とか、ただしい解釈を述べようとするわけではありません。むしろ逆です。紹介記事を書いた当初から、私の目的は「プリティーリズム」の語りにくさを語ることにありました。ここでは『プリティーリズムRL』『キンプリ』をネタバレしながら、改めてそれを書いておきます。


◎『プリティーリズムRL』のテーマとは何か。/ プリズムの煌めきとは何か。

 手短に書きます。「仲間」がテーマではないというのは誤解です。RL1話表紙コンテには「7人の仲間が集まれば世界だって変えられる」とデカデカと書いてあります (『オールスターセレクション アニメ公式ガイドブック』p.119 あるいは監督のツイッター)。

菱田監督 いや、それをだから、書きましたよ第1話のコンテの表紙に。「あっという間に過ぎていく青春時代に出来た親友は一生の宝物だよ」と。(…) 7人集まってね、奇跡を起こしたっていう、今回はそういう物語なんですよ。(前掲,p.119)


 ただし、これをもって「きらめき」がテーマでないと判断したり、「きらめき」=「仲間」だと判断するのは早計です。同じインタビューのなかで、監督は最終回のなるについて次のように述べています (前掲,p.117)。

菱田監督 あの話で、結構言われたのが、なるが踊れなくなった時のこと。みんなの姿が浮かんで、立ち上がるのがいいんじゃないかと。でも、そうじゃないんですよ、あれは。プリズムショーの神の力みたいなものを信じる心があるから、立ち上がれるような感じなんですよ。
―― だから、「いつも隣にいる」と。
菱田監督 そう。ただ、そこを踏み込んで説明すると宗教ぽくなるので。
坪田さん (シリーズ構成) 物語を通して、ずーっとそれがテーマだよね。「煌めきはあなたのそばにある」って。ジュネも言ってたじゃん。「見えないものだから信じるしかないんだ、その力が強いものが勝つんだ」って。
菱田監督 そこをあえて語らずにいくと、ああいうふうになったんですよね。


 なるは、仲間の姿を思い浮かべたから立てたのではなくて、「神の力みたいなもの」、見えない「煌めき」を信じる心があるから、立てたのです。

 したがって、「仲間」と「きらめき」は、どちらもRLのテーマだといえます。それらはどちらも作品の要素であるし、相反する概念ではない以上一つの作品のなかに包含されえます。

 さらにいえば、この二つだけでもないのです。プリリズRLには多くの要素が含まれています。私はストーリー紹介記事のなかで、プリリズは個々に価値観の違う人物がそれぞれ行動する様を描いているから、単線的なストーリーになっていないし、語りにくいということを述べました。改めてそれをここで強調しておきます。プリリズは、一つの要素や一つの観点から単純に読み解ける物語ではありません。だから、「Xという要素が触れられていない」ということだけをもって切り捨てることができるような作品にはなっていないのです。多面的な解釈ができるからこそ、プリズムを通じて放たれる虹 (スペクトル) のような美しさをもっているのでしょう (一つの面しか見せてくれないのであれば、それは「プリズムのきらめき」でもなんでもありません)。

 一つの要素だけからプリリズを判断することは、プリリズのもつ可能性を不当に縮減することになりかねず、更には作品を楽しむ気持ちを忘れさせてしまうという点で、非常に残念な見方だと私は思います。もし一つの価値観からこの作品を評価し、ある価値観の存在に触れていないことをもって他者の感想を攻撃し切り捨てるような態度を取る人がいるなら (悲しいことに実際にいますが[上で引用したレビューのことではありません])、そういった人よりも多様な解釈を維持したまま「プリティーリズムを見てください」と言い続ける人のほうが、作品に対して誠実だとすら私は思います。

 繰り返しになりますが、私はプリティーリズムは語る価値のある作品だと思っています。これは、一つの答えを発見するために語るべきだといっているわけでは断じてありません。多様な解釈がありうるからこそ、語る価値があるということです。

 もちろん、解釈の幅を無闇に狭めて視野狭窄に陥りそうなときは誰にでもあります。私自身、しばしば一つの解釈を強調したくなってしまいます。そういうときは一度深呼吸をしながら、もう一度はじめてプリズムショーをみたときのことを思い出して、落ち着いて作品を見てほしい / 見ていきたい。いくつかの感想を読んでいて、そう切に思いました。

(*なお、インタビューを引用したのは、「ファンだったらインタビューくらい読んどけよ」とか言いたいわけではありませんし、インタビューで話されたことが絶対だとは思いません。ただ、「熱狂的なファンが根拠もなく擁護している」と言われるのが嫌なので、確認可能な形にするためページ数まで含めて表記しています。)


◎「仲間」という要素を出すことに意味はないのか / アレクとカヅキのダンスバトルは話として意味をもたないのか

 プリリズRLのガールズのストーリーは、仲間を見つけるまでが折り返し地点。そして、その仲間の支えを感じながらも個としてステージに立つのがラストになっています。べる様は中盤で仲間の愛を発見しましたが、それはまだ中盤でしかないのです。最後は自分の人生をたった一人で背負い、ステージに立たなければならない。孤高の女王として、一人で立つのです。

 これに対して、ボーイズのストーリーはRL本編では仲間を見つけるというところで終わっていました。別にここで終わったからダメというわけではなく、まだこの先の話を書くことが出来るということです。

 そこで、今回の『キンプリ』では、オバレが解散しそれぞれが個としてステージに上がらなければならないときが来たことまでが書かれています。あえて序盤で「仲間」を強調したのは、(新世代に自分たちのような関係をもってほしいという思いを託すと同時に) この別れを強調する意味をもっていたのでしょう。

 そして、いうまでもなくアレクとカヅキのダンスバトルは、カヅキがエーデルローズを離れ、(冷の下で?) 修行を始める理由になっています。仲間と一緒にいるだけでは、この先のプリズムキングカップでは勝てない。そのことを予感したカヅキは、冷の下に赴くのです (たぶん)。

 もしこのシーンがなければ、コウジだけが離れて、ヒロとカヅキが残ってしまうことになります。それでは意味がありません。AD終盤でMAR'sが解散し個人戦に向けてお互いライバルとして個々に練習することになったように、オバレも個人戦であるプリズムキングカップに向けて一度バラバラになっておく必要がありました。そしておそらく、一人でステージに立ったとしても、仲間と重ねた「時」は彼らの力となってくれるのでしょう。この、〈仲間を見つける → 個人戦でライバルとして競う〉という流れはプリリズで繰り返されてきたプロットです。そして、今回の『キンプリ』はそのプロットの前半にあたるものなのだと思います。(これは同時に「オバレ」の物語に一つの決着をつけたということでもあります。)

 以上のような理由から、少なくとも私は非常にプリリズらしいストーリーだと思いました。感想です。


◎ シンは突然すごいことができるようになったのか

 冒頭でプリズムのきらめきを感じ取り、コウジとのバトルでその心の中の思いをジャンプにする方法を知り、終盤でそれを発揮する。オバレの物語は「仲間」の物語ですが、シンの物語は「きらめき」の物語です。

 オバレがプリズムショーに必要だといった「仲間」という要素がシンのショーのなかに見つけられなくても問題はありません。「仲間」が必要だというのはあくまでオバレたちが見つけた答えなのですから。そして、シン自身は、OPのシーンから一貫して「きらめき」を追うストーリーのなかにいました。

 もうこれ以上書く必要はないでしょう。プリリズのストーリーは単線的ではありません。価値観の違う個々のキャラクターが、それぞれの価値に沿って行動しているのです。


◎ まとめとお詫び

 以上から、この映画には「仲間」という要素も「きらめき」という要素もありましたし、まさしくプリティーリズムらしいストーリー展開だったと私は考えています。また先の記事で書いたように (過剰な表現などに翻弄されがちだけど、真面目に見ても) ほとんど無駄なシーンのない作品であったと評価しています。根拠なくべた褒めしているわけではありません。真剣に見た評価としてそう思っています (もちろん続編まで見なければ評価を固められないという部分はありますが)。

 ……すいません、ほんとうはこんなことを書くつもりはなかったのです。前半の記事と同じノリで、楽しい作品をただ楽しかったと言いたかったし、「見てください!」と言いたかった。でも、それではダメだという方に正面から向き合うために、このような内容にしました。

 最後に、記事のタイトルを回収しておきましょう。もし自分の思ってた作品 (RL) と違う!と思ったとしても、いまの自分が視野狭窄に陥ってないかを振り返り、もう一回『キンプリ』を見てください。繰り返し見て、咀嚼してみる価値のある作品だと、私は思います。


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