駄文 ―「まばゆい いのち 治癒 ゆめ」。



 つい先日、永井均さんがツイッターにて『誰にもわからない短歌入門』という本を挙げながら、そこで紹介されている短歌について語っていた。


どろみずの泥と水とを選りわけるすきま まばゆい いのち 治癒 ゆめ

 

 というものだ。笹井宏之さんという方の短歌らしい。


 さて、『誰にもわからない短歌入門』という本のほうは紀伊国屋新宿本店でも扱っているらしいのでそのうち手に入れるとして、この短歌について思うところがあったので、ほんの少しばかり書いてみることにした。



 先に断っておくが、短歌に触れたことはほとんどない。無教養であるため、笹井宏之さんという名も初めて知った。それでも、ただ率直に、この短歌のみを読んで思ったことを書いてみたい。


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治癒 ゆめ

 一番最初に心に残ったのは、「治癒 ゆめ」のバランスだった。

 「まばゆいいのち」は間を入れずに読むことができるが、「治癒」と「ゆめ」の間には確かな空白がある。この空白を入れて、ここの部分は五文字になっている。この、空白を描き含むセンスに心を奪われた。


すきま まばゆい いのち 治癒 ゆめ

 しりとりになる単語の羅列は、口に出すと心地よい。言葉を確かに発しているはずなのに、何かに促されて勝手に言葉が漏れてくるような心持ちになる。ここではまるで、言葉がしりとりというルールに合わせて自動的につむがれているようだ。

 しかし、「まばゆい いのち 治癒 ゆめ」という言葉の並びは、意図のようなものを感じさせる。なにかしら世界との関わりのなかで、意図をもって、これらの言葉がつむがれているのだと。

 だが、最後に来る「ゆめ」が、そうした邪推をどこかへ追いやってしまうような気もする。


 こうしてこの短歌は、言葉に焦点を合わせようとしても、世界に焦点を合わせようとしても、捉えきれない含みをもったものとして、空白までもを孕みながらここにある。この、言葉と世界との間を漂うような感じが好きだ。


どろみずの泥と水とを選りわけるすきま

 この感覚が、「泥と水とを選りわけるすきま」という部分に共振していく。この箇所もまた、言葉と世界の間で漂っているようでもある。「どろみず」の「どろ / みず」のすきま、そして「泥」と「水」のすきま。

 「泥と水とを選りわけるすきま」とあるが、隙間は、実際にはこの短歌全体に配置されてもいる。しりとりという形で要素は分解され独立しそこには隙間が広がる。また言葉と世界との間にも隙間があって、この歌はその間を漂う。そうした隙間が、この短歌のなかに「すきま」という言葉で描かれている。

 実際に隙間を作って見せながら、それを「すきま」という言葉で指示してもみせ、かつ「すきま」という指示自体が「まばゆい」へとつながることで隙間を生み出していく、こういう入り組んだ関係が、やはり好きだ。


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 どことなく、この短歌には、わたしの好きなものが凝縮されている気がする。それをうまく表現することは難しいのだが、言葉に誘発されながら、しかし世界とのつながりを持つ、その「間を漂うような感じ」を (すきまを?)、いつも追い求め、捉えようとしてきたような気がする (まばゆい?)。

 これは谷山浩子やむかしの野田秀樹についても言えることだし、あるいは自分の研究についても言えることだと思う。それこそ中学生の頃からなにかしらそういうものが好きだった。これからもそういうものとつきあって生きていくのだろうか。

 この短歌を口のなかで転がしているとなんだか少し楽しくなって、難儀ではあるが、まぁそれはそれでいいのかもしれないと思った。





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