小宮友根『実践の中のジェンダー』(2011) 1章・2章メモ


 ごくごく簡単に概要だけまとめておく。


まえがき。


 性別 (性現象) の社会的側面への注目は「ジェンダー」という言葉のもとですでに一般的になっているが、本書では性現象の社会性について一般的なものとはやや異なる見方を提示する。

 ジェンダーという言葉は、「男らしさ / 女らしさ」という規範を指すものとして日常的に使われたりもする。これは「性差」、すなわち「男/女」の差とは異なるものを指す記述である。なぜなら、それは事実そのものについての記述ではなく、事実の評価を行う記述であるからだ 。
 「性差には社会的な原因がある (社会的なものからの影響が原因になって、男女の差が生まれる)」という (「性差の社会的側面」についての) 一般的な説明には、「ジェンダー」という言葉が指すこのような側面が十分に位置づけられていない。そのため、性差の原因の説明として用いるのとは異なるような形で、「社会的」であるということの内実を検討する必要がある。果たして、「社会」と「性別 (性現象)」が深い関わりのあるものだとして、そこにあるのは一体どのような関わりなのだろうか。それをまじめに探ってみようというのが、本書の基本的な作業である。


〈性差の因果説明〉  社会的要因(原因) が 性差(結果) を生む。
⇨ 本書の問い : 日常的にはこういう説明 (因果説明) に収まらない形で「ジェンダー」という語を使っているし、そもそも因果説明にはそれに特有の困難がある。だから、異なる説明を探る必要がある。そのためには、「社会的」という概念を検討してみる必要がある。

 1章では、パフォーマティビティ概念を検討する。この概念が示唆するのは、アイデンティティは行為の遂行に埋め込まれており、また行為の遂行を通じて提示されているということである。ここから、私たちが「男/女」というアイデンティティをまとって他者と出会うとき、そのアイデンティティ提示はどのような行為の遂行にどのように埋め込まれているのかという問いを立てることができる。また逆に、ある行為が遂行されているとき、その遂行に「男/女」というアイデンティティがどうかかわっているのか、と問うことができる。
 2章では、その分析にあたって社会成員自身が自分のアイデンティティや行為を提示/理解しあっていることに注目する必要を論じる 。こうした作業を通じて、「社会的」という言葉に「自己や他者の行為やアイデンティティが、いまどのように理解されるべきかを、行為の遂行をとおして人びとがお互いに示しあっている」という内実を与えること。これが、本書における最初の作業である。


〈アイデンティティの行為遂行性 〉
自殺相談の電話相手は、他人に限られている。
自殺相談の電話をすることができるのは、他人同士であるからだ。
つまり、自殺相談の電話をするという行為には、「他人同士であること」というアイデンティティが埋め込まれており、分離不可能になっている。

 なお、先に扱った「社会的要因 が 性差 を生む」という説明が使われたことには理由がなかったわけではない。この説明は、「性差は後天的に獲得されるものであり、変えることができる」という主張を含んでいるからだ。しかし、そのような批判的態度は、社会現象の記述に不可欠なわけではない。それを検討するのが3章だ。4章以降では、実際の場面の詳細な分析を行う。


第1章


 我々は特定の行為を、「行為者が、行為を行う。」という形で記述してしまいがちだ。だが、そのような記述は、行為の前に「女」という行為者が存在すると考えてしまうことにつながる。だからバトラーは、「行為の遂行をとおしてジェンダーが不断に構成されていく」と説明を書き換えた。同様に、「行為者が意図をもって、行為を行う。」という記述も避けるべきである。そこでは、ある行為と「行為者の意図」がセットで扱われている。しかし、行為は大抵の場合制約を受けており、それを行為者の意志や選択にすべて還元することはできない。

〈ジェンダーのパフォーマティビティ〉
 ジェンダーは、行為の前に存在し行為を可能にするものではなく、行為のなかで構成されるものである。
 その行為も、行為者の意志によるもの、選択によるものとして記述することはできない。

 さて、バトラーはデリダを引用することで、こうした話をしていけば「よりよい」ジェンダーの在り方へとたどりつくと考えたようだが、そこまでのことは期待できない。だがバトラーがパフォーマティビティ概念にこだわったことには確かに意味がある。
 「社会的要因 (原因) が 性差 (結果) を生む」という主張は、先に触れたように性差を自由意志によって変えられるかのような印象を与えてしまう。他方で、こうした因果説明的な議論形式は決定論的でもある。だから、この主張は容易に「私たちは自由なのか否か」という議論を呼び寄せてしまうことになるだろう。バトラーはこれを回避しようとして、行為 (の性差) の因果説明とは異なる議論を展開しようとしていたのだ。
 では、それは何に注目する議論だったのか。小宮によれば、それは「アイデンティティを理解可能にしている実践のありよう」に注目を促すものであり、その点で有意味な議論であった。例えば、レイプという行為の場合。レイプという行為の理解は、「被害者の意思」(合意があったかどうかなど) と結びつけられている。そして、その「被害者の意思」は、女性が帯びるアイデンティティ (「少女かどうか」「性経験は豊富か」といったこと) と密接に結びつけられて観察されていた 。このように、パフォーマティビティという概念は、「レイプの原因を探る」という因果説明的議論から離れて、行為とアイデンティティがどのように結びついてしまっているのかに注目する。これは、ときにその結びつきを刷新することにも役立つ視点であり、この視点移動を可能にする点でパフォーマティビティ概念は意義を持つのである。


第1章 補論


 小宮のパフォーマティビティ概念の理解は、オースティンの考えの発展形でもある。オースティンは、発話は「力」を持つという点に注目した 。デリダはオースティンの議論が「発言者の意思=志向」を行為遂行的発言の前提条件に組み込むことで、「語る主体」の存在を前提としてしまっていると批判したが、オースティンが打ち出しているのは (「主体 (行為者) が発話 (行為) する」という形式を前提条件とした発話行為の分析ではなく)、「私たちが自らのおこなう行為とその意図との関係を、特定の慣習の中でどのように理解し、取り扱っているのかということそのもの」に注目するという方向性である (:48)。
 そして、その分析にあたってオースティンに欠けていたのは、我々は発話の力を理解する際に、行為連鎖のフォーマットに関する知識を活用しているということへの注目であった。オースティンは発話行為の分析にあたって一人の話し手による単独の文を想定していたのだが、それではその発話がどのような連鎖に埋め込まれているのかを見逃してしまうこととなるのである。


第2章


 パーソンズが社会秩序について立てたモデルは、「行為者の主観的観点」と「社会秩序」を因果説明的に接続するものであった (「自由な行為 が 社会秩序 を生む」)。これは、バトラーが述べていた「自由意志と決定論のあいだでの躓き」と同じ構造の問題を抱え込んでいる。そこで、こうしたモデル化とは異なる方向での社会秩序記述が求められることになる。
 ルーマンは、「行為者の主観的観点」ではなく、「現れていること」それ自体へ目を向けることを出発点とした。例えば、行為の「意味」を「行為主体本人が何を考えているか」というところに求めようとすると、「結局のところそれは行為者本人にしかわからないのではないか」という懐疑へ容易に陥ることになる。しかし、実際には私たちは、端的に行為の「意味」を理解してしまっている。私たちの目には、ある行為は (他の解釈可能性が無限にあるにも関わらず) ほかならぬその行為として現れている。ルーマンは、そうした「意味」の端的な出現のしかたに目を向け、意味概念を「可能性指示の過剰 / 特定の可能性の実現」という区別が成立していることと規定するのだ。
 では、それがどのように「社会秩序」と関わるのか。この視点のもとでは、「社会秩序」とは特定の行為の連鎖によって顕在化され続けている差異であるということになる。したがって、社会秩序の分析は現実に行われている行為理解の実践を見ることによって行われるものとなる。そして、このように〈行為―意味-社会秩序〉を結びつけたうえで、ある行為がどのような行為可能性の限定 (すなわち行為の理解可能性の限定) のもとで理解可能になっているのかを観察し、逆にある行為を通じて「いかに行為の可能性が限定されているのか (何が可能なふるまいなのか)」を観察するならば、個々の行為と集合的な秩序の関係をどちらが先といった考え方ではない形で捉えることができる。
 わかりやすく言うならば、社会秩序は行為に現れているのである。そして、それを分析するにあたってはルーマンの設定した「システム類型」といったものに従う必要もない。経験的研究を見ればよいのであり、また社会秩序が現実にあるものである以上、経験的な研究を見るしかない。


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