空間のただ一点のみを指し示す曲 ― 谷山浩子「椅子」についての考察。


 少し何か書きたくなったので、とりあえず対象を決めて何か書いてみる。

 

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 今年で還暦を迎える谷山浩子さん。デビュー以来40年以上曲を作り続け、現在では歌詞サイトに登録されている曲数だけで339曲にもなる。もちろん、登録されていない曲、歌詞のないBGM、CD化されていない曲もあるため、総曲数は実のところよくわからない。

 これだけ曲数が多いと、もちろんそれほど知名度の高くない曲もある。ここで取り上げる「椅子」もまた、どちらかといえばあまりメジャーではない曲にあたるだろう (知名度でいうと中くらいだろうか)。しかし、その知名度の低さに反して、この曲が持つ魅力はとても深い。まずは歌詞などを見ないでじっくりと聞いてみてほしい。

 谷山浩子「椅子」(ニコニコ動画)

 「心のなかの椅子」について歌ったこの曲は、一聴してみるとわかりやすいテーマを扱っているようにも聞こえる。しかしよくよく歌詞に意識を向けてみると、多くの人は少し難解な印象を受けるのではないだろうか。「誰かが心のスキマを埋めてくれるのを待っている」という (いつの時代にもよくある) 流行歌のようにも見えながら、しかしわかりやすい流行歌とは違って一筋縄ではいかない要素が散りばめられている。

 とくに深い話やオチを用意しているわけでもないが、この記事ではこの曲の歌詞について簡単に考えてみたい。

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 恋愛 (あるいはそれより広い欲求) についての古典的な語りの形式に、〈欠乏―充足〉モデルがある。欠けている部分を補ってくれる誰かを追い求めているという型だ。有名なところではプラトン『饗宴』でアリストファネスが語る (語らされる) 完全体についての話などがこれにあたるだろう。本来人には頭が二つ、脚が四つ、そして男女・男男・女女という三つの性別があった。しかし神々への謀反を企てたことから、人は半身へと引き裂かれる。そして半身は、かつて共にしていた失われた半身を求める。

「人間相互の愛というものは、まことにかくも大昔から、人間のなかに本来そなわっていたわけです。つまり、(…) 二つの半身から、一つの完全体をつくり、人間本来の姿を癒やさんと努めるものなのです。」(191D 森進一訳)
「思うに、両人が、そういう気持になるというのも、じつは、僕たち人間の太古本来の姿が、そこにあるからなのだ。昔の僕たちが、完全なる全体をなしていたからなのだ。そして、その完全なる全体への欲求、その追求にこそ、愛という名がさずけられているのです。」(192E-193A 同)

 このように欠乏してしまった半身を充足するというロジックを用いることで、アリストファネスは同性愛を愛の本性として肯定しようとするのである。失われた部分を求めること、それこそが愛なのであると。

 (*但し、これはあくまでプラトンが書いた「アリストファネス」であること、そしてアリストファネスは自身の劇中でソクラテスを戯画化し揶揄していたことなどは当然考慮しておく必要がある。)

 『饗宴』におけるアリストファネスの語りは同性愛を説明するためのものとして (そして少年愛における受動性の問題に対応するためのものとして) 要請されたものであるが、そうした文脈でなくてもこうした話を我々はいくらでも見つけることができるだろう。「心のなかに欠けた部分があって、それを埋めるために生まれる感情が欲望だ」と書き換えれば、人間についてのよく見る説明の一つであることがわかる。あるいは精神分析における「人間の欲求とは母体から引き離されたときに生まれるものであり…」といった説明もまた、これにあたる。

 こうした説明は、そのイメージのしやすさからあらゆる場面で用いられる。他方で、そのシンプルな説明ゆえに度々批判を受けることになる。失われた半身を追い求めているとするアリストファネスの説明はあまりに単純であり、恋愛に関わる多くの事柄を説明できないということは言うまでもない (もちろん、愛以外での欲求についての説明も同様の批判を度々受けることになる。たとえば物への欲求にしても、欠けているもの以外の物に対して欲求を持ちうるということは、ボードリヤールの指摘を待つまでもないことだろう)。

 では、この「椅子」という曲は、こうした単純な〈欠乏―充足〉モデルにあたるものなのだろうか。あるいはそれ以上のことを表現しているのだろうか。これを考えてみたい。


ずっと探し続けている この椅子に座る誰かを

 椅子は、ある空間を欠乏として差し出す。そしてこの曲は、そうした欠乏を埋めてくれる誰かを待っている曲である。したがって、この曲は〈欠乏―充足〉モデルに則ったものである。そのように読むことは確かにできる。

 しかし、注目すべきは、あえて「椅子」を置くというところにある。椅子を置くことで初めてある空間はようやく何かが欠乏している空間となるのであり、椅子がない空間には欠乏もない。「椅子」があって初めて、座るべき場所に誰かがいないという状況が作り出されるのである。このことを再解釈すると、我々のもつ何らかの不安に形を与えながら、しかしその欠乏という形態を崩さないために、「椅子」を置くという操作が行われたと説明することができるだろう。

 この操作が言外の内に示唆するのは、人はもとから欠乏状態にあり、それを埋めるために行動をしているわけではないということである。あくまでここでは、「椅子」を置くという操作の末に欠乏した状態が作り出されているのであり、欠乏が先行して存在しているわけではない。というよりも、先行した欠乏が存在する空間など、およそ考ええないのである。

 このようにして「欠乏した空間」が生み出されるのだが、同時に「椅子」という無機物を置くという操作は「欠けているものを充足してくれる対象に焦がれ追い求める」といったイメージから曲を解放することになる。もう少し歌詞を見てみよう。

「淋しい」とたとえばそんな 言葉は春を飾るだけ 言葉は飾るだけ
なにかもっと無口なもの たぶんとても静かなもの 心の井戸 深く

 ここで行われているのは、「淋しい」という言葉の浅さの指摘である。「淋しい」という言葉は、あくまで色めきだつ季節を飾るための飾りとしてしか感知されていない。「淋しくて会いたい」「淋しくて愛してくれる人がほしい」「淋しさを埋めてくれる人がいれば」。そういった曲は多いが、そうした曲のすべてをここでスッパリと切り捨てているのである。

 そして、“それ”は「もっと無口なもの」「とても静かなもの」であるということが語られる。では、この「もっと無口」「とても静かなもの」にあたる “それ” とは何であろうか。おそらくはこれこそが、「椅子」が指し示す空間であると考えられる。これを再解釈しておくと、「淋しい」といった言葉を介さないで、心の奥の不安を表現するために「椅子」を置くという操作が行われたと説明することができるだろう。

 そして、歌詞のこの部分は、「無口さ」「静かさ」という椅子の無機質なイメージを強調する。そこにあるのは「淋しい」という焦がれる気持ちではない。自身の欠乏の充足を願って行動する欲望をもった主体のイメージはここにはない。ここで描かれるのは、あくまで張り詰めた (しかしながらぬくもりを残した) 空間なのだ。もちろん、この空間を埋める誰かを「ずっと探し続けて」はいる。しかし、その誰かを焦がれ追い求めているというイメージが歌詞から伝わってくることはない。

いろんな人が笑いかけ いろんな顔がうつむいて 声もとぎれとぎれ
季節がすぎていくたびに 孤独の列もすぎていく 空に映る影も

 ここから伺えるのは、椅子の前を通りすぎていく人や季節の数々であり、欠乏を埋めるために何かを強く求める主体ではない。ここで想起されているのは、あくまで静かな空間の前を通り過ぎたものたちなのである。ここから推察するならば、曲中で強調される「ずっと探し続けてる」という歌詞は、「求める」というよりも「待っている」というニュアンスで解釈したほうが良いといえるだろう。この曲には欲求し行為する主体の存在は描かれていない。椅子という無機質な存在と、その前を空しく通りすぎたものたちという、どこまでも静かなイメージが貫かれている。

 まとめておこう。椅子が差し出すのは静謐な欠如であり、「淋しい」といった言葉や感情ではない。そして、そこでは充足への欲求も、その欲求の主体の存在も徹底的になりを潜めることになる。

 ここにこそ、この曲の到達点がある。この曲は、心の内にある孤独を、感情や欲動や言葉ではなく、無口で静かな空間として差し出すことに、「椅子」を置くという操作によって成功している。このことによって、孤独を孤独のまま純粋に描き出すことを達成しているのである。


心のなかに椅子がある からっぽの小さな椅子が だまりこんで ひとつ
いつのころからあったのか 自分でも思い出せない 見つめれば薄れる

 この空間は、「見つめれば薄れる」ようなもので、直接表現することもできない。それを表現しようとして、単なる欠乏として描いた途端に、その欠乏の充足を求めて行動する感情や主体が表に出てきてしまう。その瞬間に曲は陳腐な春の一曲となり、胸の内の無口な孤独はあまりにも雄弁な孤独となってしまう。だから、「だまりこんだ一つの椅子」を作詞にあたって置くのである。


 そしてさらにこの曲は徹底して「欠如した空間」のみを強調していく。たとえば次の部分。

たとえば遠い過去の それともはるか未来のこと
そこに誰かが座ってた ぬくもりを覚えている

 ここでは「誰か」の存在が指し示されながら、同時にその存在は「過去」のものなのか「未来」のものなのかが隠されている。そのことによって、ここでの「誰か」からは、(ある時間に位置を占めていた) 特定の誰かではない「誰か」というイメージを受け取ることができるようになっている。このような表現によって行われているのは、「誰か」の内容を曖昧なままにしておくことで、とにかく「ぬくもり」の残った空間だけを歌詞の内に残すということである。逆にいえば、ここで大事なのは「ぬくもり」の存在を指し示すこと、つまりただ「冷たい空間」が椅子の上に広がっているのではなく、「確かに誰かを欠如している空間」が広がっているのだということを強調することであり、「誰か」が「誰なのか」はほとんど意味を持たされていない。強調されるのは「失ってしまった対象」ではなく「失われた空間」であり、「失われた空間」を強調するために、対象である「誰か」の情報は徹底的に曖昧にされている。「誰か」がいたことにすることでその空間から何かが欠如していることを強調できるが、その空間のみを強調するためには「誰か」はほぼ内容を持たないという形で退かなければならないのである。

水のなか 笑う友達 声をかければ消えていく

 「友達」にしても、それは水を介しておぼろけにみえるだけのものとして描かれる。水のなかからのくぐもった声、そして反射や屈折によって歪みほとんど靄のようになってしまった顔。それは何気ない瞬間に微かに浮かび上がるイメージ程度のもので、努めて思い出そうと「声をかけ」てしまうと、もう取り逃してしまうほどに曖昧なものとして描かれる。「友達」の輪郭を捉えることは決してできない。

 このようにしてこの曲は、情報を徹底的に絞り撹乱することで、「椅子」の上に広がる空間を強調していく。ただその空間の一点、胸の内の孤独の一点のみを、言葉や感情などではないような形で、それどころかほとんど言及することのない形で、描き出している。

 そして情報の撹乱はついに、「この曲が誰の曲なのか」ということを撹乱するまでに至る。

ずっと探し続けてる この椅子に座る誰かを
でもこれは誰の物語 わたし あなた 誰かの

 曲の最後の逆接を、我々はどのように理解すれば良いのだろうか。もちろん、「これは私一人の物語ではない = 誰もが胸の内に椅子をもつのである」ということの確認であると理解することができる。曲の最後になって、我々のなかに (そしてあらゆる「誰か」のなかに) 存在する空間が指示されているのだと。

 しかし同時に、この歌詞は「空間」を持つものが誰なのかを徹底的に曖昧にしていく効果ももっている。つまり、ここまで歌われた「空間」が誰の胸の内の空間であったのかという情報すら、ここで隠されてしまうのである。「空間」をもつ主体、そして歌う主体すら、曲のなかで消え去ってしまうのだ。こうして情報の排除が徹底され、ただただ「空間」が「ある」ということが示される。

 このように、徹底的に「空間」が「ある」ということのみを指し示す特異な曲。それこそが「椅子」なのである。



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