介入するということと、意志を尊重するということ。 ―『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』感想 (*ネタバレあり)
*ネタバレあり*
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「障害」という要素を一度外してみると、この映画の違った側面が見えてくるかもしれない。
幻影帝国はプリキュアシリーズには珍しく世界的に認知された侵略者であり、いわばテロ集団のようなものとして描かれている。
それを踏まえるとつむぎは、幻影帝国が自分の街を襲うテロ集団だと知りながらも、その集団の内部でしか「居場所」を見つけられない女の子だということになる。つむぎの強い葛藤もここに由来するのではないか。
このように映画を理解すると、「介入」の難しさが際立つ。
仮に幻影帝国がカルト集団だったとしよう。(オウム真理教のようなものを想定している)
宗教の体系の中なら居場所がある。現実には意味がない。そう信じる少女に対して、果たして部外者はどのように「介入」しうるだろうか。
本人の意志を尊重しろ、というのは簡単だ。
この言葉を前にすると人は急に無力になる。
私たちは神ではない。私たちが手にしていると思っている正しさとは、あくまでも、自分の立場からみた正しさである。これが他者にも通用すると思うのは間違っている。私たちからみて詐欺としか思えないような似非医学にはまっているひとでも、それはそのひとにとって「ほんとうに」必要なことかもしれない。私たちの勝手な視点からみて、とてもひどい状況にあると思うようなひとでも、それはそのひとにとって、「ほんとうの」居場所であるのかもしれない。
こういうときに、断片的で主観的な正しさを振り回すことは、暴力だ。
(岸政彦『断片的なものの社会学』「第9回 海の向こうから」)
でも、この映画は問いかける。「助けられないなら、放っておくの?」と。
実際、放っておけるわけがない。
放っておけないのに、放っておいてくれといわれる。だからこそ、とても苦しいのだ。
結局この映画は、別の「居場所」を用意することで問題を解決しようとする。〈現実は辛いかもしれない。でも、どんなことがあってもそばに居てあげるから、外に出よう〉。
このように肯定されることで初めて、つぐみは〈子ども時代 (万能になれて、人形に囲まれて、他者との葛藤もない園)〉を捨てて、他者とともに生きていく。
この解決方法の描き方には問題があったと思うし (なんか突然「友達」になってたりとか)、100点の答えではない。
それでもこれ以上の答えはなかなか思いつかない。正解も多分ない。
正解のない問題に正面から飛び込んだこと自体が、この映画の価値なのだと思う。
(2015/4/1公開した記事)
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