立岩真也『不動の身体と息する機械』(2016年に読んだ、人にオススメしたい本 ②)


◯ 社会学編:立岩真也『不動の身体と息する機械』(2004)


 よりすなおに見れば、医療は、というよりこの社会・時代は、生かす人は生かしてきたし、死んでもらいたい人は死なせてきたのである。良い生・殖 (優生学eugenics) と良い死 (安楽死euthanasia) はきちんとつながっている。(:68)


 本書は、ALS (身体が次第に動かなくなる病気) と安楽死、そして安楽死に直結する呼吸器を <装着する/装着しない> という選択を扱った大著である。電話帳一冊くらいの厚さに渡って、主にALS患者やその周囲の人々が残した文章を中心にしながら、立岩らしい論が展開されていく。たとえばALSについての話題は、以下のように、〈できること/できないこと〉といったテーマにも直結している。

 ALSは多く壮年に発症する。多くの人はその時に、人の世話にならず、様々に働き、貢献し、そのことに価値を見出してもいる。(…) するとALSにかかり状態が進行していくことは、自らの価値がなくなっていく過程になる。(:250)
 生きることを積極的に勧めず、その意味で中立の立場を取るのであれば、それは、否定性があってなお生きていくだけのものが与えられていることにならないのだから、その人は死ぬだろう。否定をそのままにして、その人の価値や決定に委ねるなら、その人は自発的にこの世から去っていくことになる。ALSにかかる人の多くは分別盛りの年代の人たちであり、その分別のある人が去っていく。(:253)

 立岩にとっての中心テーマが <できることはよいことか> であるとするならば (事実『人間の条件 そんなものない』[2010]の序章はこの問いから始まっている)、安楽死は <できないがゆえに追い込まれる死> という側面を持つ。だから、これらの話は繋がっている。

 そして、本書はこうしたテーマをALSという具体的な病をめぐって展開させることで、より複雑 (かつ実際的?) に展開している。たとえば、「技術的な支援を行う専門職としてその人たちの援助に長く携わってきた人が、ときに呼吸器を外したくなると語ったのを聞いたことがある。呼吸器を付けて生きるとは実際にはそのように過ごすことであるのに、それでも生きろと言うのかと思う人がいる」(:405)。そうした人に対して、我々は何を言うことが出来るのか。あるいは、ALS患者が最終的に行き着くのは、トータリー・ロックトインという状態 (眼球の動きさえとまり、何も発信することができない状態) である。この状態に行き着く前に、自ら死を選ぼうとする人に対して、我々は何をいうことができるか。

 このように考えるとき、問いはすでに <できることはよいことか> というものから少し離れているように思える。安楽死の、<できないがゆえに追い込まれる死> という側面ではない側面が、こうした場面では顔を覗かせている。立岩はこうした問いに正面から向き合おうとする。だからこそ、話は複雑になり、論は繰り返しぐるぐるすることになる。

 とはいえ、難しい話が書かれるわけではない。たくさんの言説が引用されているから長くなっているのであって、内容はむしろシンプルである。そして、そのシンプルなことを、たくさんの言説に触れながら、ぐるぐると考えたことにこそ、本書の意義はあると私は思う。とくにALSのような病気にとって、こうした仕事が持つ意義は大きい。以下のような事情から。

 つまり、身体だけが動かなくなり、それを補うのが技術と献身である。そして絵を書いたり文章を書いたりする本人の努力がある。これらはいずれも私たちが好むものである。私たちは愛情と機械と努力が好きだから、家族の献身と技術の開発と、それらのもとでの「闘病」が取り上げられる。このように (だけ) ALSはメディアに現れ、知られる。だが、それはそのようにしか知られないということでもある。実際には別のことが起こっていた。(:343)


 いま、何かをまとめようとしてこの本を読み返していたのだが、まとめようと思うほど、この本に収められた言葉の一つ一つの質量の大きさに驚き、躊躇ってしまう。だから、この記事ではALS患者自身の言葉などにはあえて触れなかった。実際に読んでみたほうが良いと思ったからだ。

 実際に読んで、処理しきれない程の質量をもった言葉に触れながら、「死を選ぶこと」についてじっくりと考える。本書は、そういう貴重な経験の機会を与えてくれる良書である。



 

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