志和-siwa-のこと②

やほ!
私です。
昨日に引き続き私のことを綴ろうかと思います。

前回の記事、こわがられておりましたがなぜでしょう?
さっぱり見当もつきませんね。

…ねっ?(圧)

そんなこんなで今回は演奏者としての私の音楽遍歴を語ってまいります。

幼き頃より音楽が好きで本当はピアノを習いたかった。
姉が習っていたので真似たかったという単純な理由でしたが高校生で進路を決める時に大きな壁となりました。
小学生から高校卒業まで吹奏楽部に在籍していた私です。
小学生当時、部活に勧誘してくれた友人からパーカッションパートへ誘われ、良く分からぬままに入部。

コンクールデビューは小学5年生の頃。
演奏したのはJ.B.チャンスの「朝鮮民謡の主題による変奏曲」。
そこで私はトライアングルとテンプルブロック(木魚)を担当しました。
この作曲者をご存知の方であれば分かると思いますが、この方の楽曲においてテンプルブロックは重要なパート。
到底、初心者が担当するパートではありません。
ですがどの吹奏楽部でも打楽器は人手が足りないもの。
使えるものは全て使う。
それは初心者であっても。
まぁ、その練習中に顧問の先生から「リズム感が良い」と褒められ、コンクールでは審査員からもお褒めの言葉を頂戴し有頂天になったことでモチベーションを保てたと思います。
初めてのステージから見えた客席の印象は【どこまでも続く闇】でした。
緊張で指揮者しか見れなかったんでしょうね。

そして小学6年生の1年間だけコンクール編成ではバリトンサックスを担当することになりました。
まず音が出せるようになるまで数日掛かりましたね。
運指はリコーダーとほぼ同じなのでそれなりにすんなり。
この年のコンクールでは櫛田胅之扶さんの「元禄」を演奏。
これね、小学生が演奏する難易度の曲じゃない。
和音階を多用した和風な響きの雅な和音なんて子供に表現できるわけないんよ。
しかもそれをインテンポでやるとか鬼畜だね⭐︎
ただ、この年は県大会を突破して東北大会まで行きました。

この小学校、マーチングもやってましてマーチング編成ではバスドラムを担当してました。
マーチングのバスドラムって大きさの種類がありまして、大きいのが低く、小さいのが高い音を鳴らします。
私は体が大きかったので一番大きいものを抱えて演奏してました。
あれねー、腰にくるんですよ。
マーチングは小5が東北大会、小6が全国大会に行けました。

中学校時代は打楽器のみです。
大会成績も県大会金賞まで。
アンサンブルコンテストも県大会のダメ金止まりだったかな。
アンコンで演奏した「ア・ラ・サンバ」は楽しかった!
ドラムを初めて演奏したのも中学生の頃。
生徒会やったり放送部やったりロックに目覚めたり、3年間で身長が30センチ伸びたりと変革の時期でした。
ちなみに身長はまだ少し伸びてるようで現在は178センチぐらいです。
この頃の仲間とはコロナ前までは毎年集まってました。
顧問の先生も呼んでね。
また集まりたいなぁ。

さて高校生になるとコンクールで全国大会に2回、出場しています。
高三の時には全国金を受賞。
あの時の演奏はCDにもなってて聴きかえす度に思います。
なんか鬼気迫るものがありますねぇ。
個人的には前日にフラれてメンタルボロボロだったので良く覚えてません(笑)
んー、自由曲書くと特定されちゃうかなぁ。
なんかバレエ音楽なのにバレエ音楽っぽく無い曲です。

ここで冒頭に書いたピアノを習ってなかったことが大きな壁として立ち塞がります。
ずっと吹奏楽部で部活しかやってなかった私は進路のことより練習が楽しくて仕方なかった。
しかし全国大会が10月に終わり、引退、受験勉強とシフトしていくなかでようやく自分の進路について向き合った時、最初に出た希望は「音大への進学」でした。

実際、当時の私は打楽器奏者としてそれなりのテクニックがあったと自負しています。
具体的にはBPM180の6連符を粒立ち滑らかに叩き続けられたり、同じくBPM180でフラムパラディドルを途中で変則手順を入れながら平然とやってました。
なんなら音大に進学した先輩からもうちに欲しいとか言ってもらえていて、自身の気持ちは完全に音大進学だったのです。

何度も言います。
私はピアノが弾けません。

音大は試験でピアノがなかったとしても副科で入ってきます。
ということはピアノが弾けなければ音大進学はできません。

絶望しました。

初めての大きな挫折。
もう何もかもどうでも良くなりました。
でも捨てきれなくて音楽の専門学校の資料を取り寄せたりしました。
親とも泣きながら喧嘩しました。
自分のどうしようもない感情の昂ぶりを、ほとばしりをどうぶつければ良いのか分からず当たり散らしてました。

それから親とも何度も話をし、私大に絞って受験することになりました。
もうこの頃には気持ちを切り替え、バンドをやるために東京へ行こうと心に決めました。

引退が10月、最初の某大学の試験が12月、2ヶ月しかありません。
教科を絞り、試験は現代文と数学1Aのみに。
さらに現代文は当時本を読んでいたこともあり特に手を付けずとも問題無さそうでしたので数学のみを2ヶ月間みっちりとやりました。
とりあえず何校か願書提出してありましたから12月の試験は肩慣らし。
授業中に寝てるかゲームしてるかマンガ読んでるかしかしてなかった高校生が付け焼き刃の勉強で大学受験を突破できるはずがない。
本人も、友人も、担任も、両親さえもそう考えていました。

…なんか受かっちゃいました⭐︎

おめでとう、私。
東京進出決定です。
これでバンドデビュー目前!
東京なんて大会で行ったことぐらいしかなかったので、不安と期待が入り混じってましたね。
同級生からは祝福とヤジの言葉を半々ぐらいに受け取り、私の高校生活は幕を閉じました。
母校は進学校で部活の顧問が服装に厳しかったためピアスも開けられずアクセを付けられなかった反動が東京で爆発します。
そうそう私が着てたセミ短の学ラン、ボタン、生徒手帳、ジャージ、上履き等すべて母校&他校の後輩たちに奪われましたので何にも残って無いです。
裏ボタンまでみんなで分け合ってたなぁ。
手元に無いから記憶が曖昧なまま補填されないんだよなぁ。

東京進出とバンド活動以降のことはまた次回にしましょうか。
自分語りはさじ加減が難しいですね。

では、あでゅー!

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